リュック・ベッソン監督の『LUCY』が公開されたが、複雑な問題を持ち込んでいる。
 何故、多くの白人の監督たちはSF映画の中で人種問題を避けて、普遍的な世界を作りだそうとしないのか。単純な答えとして、彼らの中には人種差別的な意識が働いていると言えるかもしれない。例えば、彼らが考えるもととなる理論が白人中心主義で始まった。そうした理論は、いまや時代遅れなのであるが、そうした意識から白人自らの怠慢を描くことで、普遍的な世界を描こうとする。そうした映画製作の在り方は、特定の人たちだけを映画館に集め、より利益に服従する市場を作りだす。
 映画『LUCY』において、LUCY(スカーレット・ヨハンソン)は余儀なく麻薬運び屋にされてしまい、ある日薬を飲んでしまったところ、超人類的な力を手に入れる。人間は普段脳の10%しか使っていないが、LUCYはそれ以上を使えるようになる。このことが興味深いのは、人間の根源的な力というテーマをより高め、さらに彼女が人種的なアイデンティティーに関する自分の見目形や言葉・知識といったものを変更することが出来るようになったからだ。全人類に共通する横断的な知性や力を試しているのかもしれない。それらは普段先入観により隠されている。
LUCYの名前はアウストラルピテクスの名前を彷彿させる。彼女は様々なものを吸収すればするほど、黒くなっていくがクローズアップの部分的なショットによって、完全には変化していないことを描く。
『LUCY』が描くのは人種としての人では無い。例えば、近年のリドリー・スコット監督による『プロメテウス』やブライアン・デ・パルマ監督の『ミッション・トゥ・マーズ』は、人類の起源を惑星外に仮定することで、今の多様な人種が現れず、白人の中の複雑性の中に閉じてしまっている。『LUCY』もこうした意味で、伝統的なSFの白人中心的な描き方をしており、現代科学に乗っ取った様々な可能性を仮定し人類の根本を描く。こうした映画たちは、目撃者としての白人を描くことで、基準が白人になる。このことは、結局白人の至高性を強めるだけなのだ。
こうした問題の省略に対する処方は、黒人による人類の根源に関するSF映画が作られることではないか。とりあえずの結論として、こうした問題を扱おうとしている黒人の映画監督を救うことが必要になる。自らの不完全性を描くのか、あるいは包括的に描くのか、いずれにせよ、白人中心に描くことで他の人種の多様性をぼやけさせる必要のないように、人間の理論を発展配置する限り、ドアは開かれる。
http://blogs.indiewire.com/…/lucy-and-the-absence-of-the-bl…
三浦 翔
https://twitter.com/eggfalcon3


コメントを残す