今年開催された第70回ベルリン国際映画祭のコンペティション・リストに『ダウ』の名を見たのはまさに青天の霹靂だった。ここ半年以上というもの、英語圏のメディアで、同プロジェクトについての情報をめっきり見なくなっていたところだったのだ。ソ連のノーベル賞受賞物理学者レフ・ランダウ(1908-1968)の半生を中心に、在りし日のソ連の姿を、目を見張る規模の制作陣容によって描くこのロシア映画史上最大規模のプロジェクトは、2019年2月にパリで行われたプレミア上映まで、実に約13年の時を跨ぎ制作が続けられ、ヨーロッパで話題を集めていた。今回ベルリンに出品された、プロジェクト『ダウ』からの一編『DAU. Natasha』(英題)は、ピーター・ブラッドショー(Peter Bradshaw、英ガーディアン)の5/5点をはじめ、一連の批評家から高い評価を得たが、同プロジェクトの挑発的体質から否定的な意見も多く、議論が分かれている。(同作が世界中から浴びた批判やスキャンダルについては(2)で紹介した。)[16][13]

一つの映画プロジェクトが10年以上の時をかけて、長期的な断絶を挟まずに制作され続けるという状況は頻繁に目にするものではないが、同プロジェクトがどのようなものであるかを知れば、この奇妙な状況がもう少し自然に見えてくるかもしれない。ロシア人監督イリヤ・クルザノフスキー(Ilya Khrzhanovsky)はこの映画プロジェクトの撮影用に、物理学者レフ・ランダウが働いていた巨大研究施設をウクライナ第二の規模の都市ハルキウに再現した。(『ダウ』(DAU)というプロジェクトのタイトルは主人公の姓であるランダウの略称である。)キャストはほぼ全員が素人で、その総数1,0400人は、39,2万回のオーディションによって集められた。この数字は制作側が発表したものだが、仮にこの人数をすべてウクライナの首都キエフから募ったものとした場合、実に人口の7人に1人が『ダウ』のオーディションを受けた換算になる。集められたアマチュア出演者たちはこの研究施設で寝起きし、精緻な時代考証を経た部屋の内装や、衣装、小道具そして彫像に囲まれて暮らし、全体主義のソビエト時代に住んでいるつもりで生活することが求められた。おまけに出演者たちがこの要求を履行しているかチェックするため、その様子はセキュリティーカメラと隠しマイクで監視されるという徹底ぶり。トイレの配管までソ連当時のサイズが採用され、使用後の流水音が正確に再現された。これは映画のセットというよりもひとつの「世界」であり、『ダウ』はこの世界で暮らす「ソ連当時の人々」の生活をドキュメンタリータッチによって数年がかりで追った映画プロジェクトだ。そのため、ピーター・ウィアーの『トゥルーマン・ショー』(1998)や、フィリップ・カウフマンの『脳内ニューヨーク』(2008)との類似を感じる人も多い。さらにパリのプレミアではその成果をただ上映するのではなく、劇場そのものが当時の研究所へと仕立て上げられたうえ、インスタレーション形式によって『ダウ』は発表された。劇場では「ソ連当時の労働者」たちが当時の設備を用いて働いているだけでなく、入場にも一種の「入国審査」や、当時を再現して意図的に煩雑化されたビザ取得プロセスが必要になる。さらに観客は、心理テストの結果によって、鑑賞する映画のチャプターを振り分けられ、鑑賞後は聖職者、科学者、芸術家、知識人とのディスカッションへと誘われた。[1][22][23][2][13]

インスタレーション

この映画インスタレーションとしての『ダウ』は当初パリで公開されたのち、イギリス、ドイツ、ロシアを含むヨーロッパ諸国を巡回する予定であった。しかし、その規模と話題性から賑やかなものであったヨーロッパを中心としたメディアバズも、昨年末の時点ではすっかり沙汰止みとなっていた。ベルリン国際映画祭後の2020年2月下旬現在でもなお、巡回上映についての情報は見当たらない。それどころかロシアでは映画の物議を醸す内容から『ダウ』の上映禁止が決定した。(もっとも、先の『DAU. Natasha』は既に世界市場向けの配給が決定しているが。)欧州映画史的にも先例を見ないこの壮大な実験の何が、このような先行き不透明な状況を招いているのか。解答への手掛かりを探るため、以下ではこの映画プロジェクトのもつ特異な性質を探っていく。[1][23][24]

インスタレーション

 

仮想ソ連への入国

 

スコットランド人映画プロデューサー、エディー・ディック(Eddie Dick)は、クルザノフスキーとニコラス・ローグとのコラボレーションの可能性を探るため2011年にウクライナ入りした。「研究施設」であるセットへの入館プロセスは細心を極めた。まず、スタジオ内部の「現在」である1953年に起きている事柄について記されたノートが手渡された。そして当時の服装に着替えさせられ、髪もカットされ、当時のデザインによるフレームのメガネが地元の小売店に注文され、パスポートと現金も手渡された。部屋と部屋の間には警備が立ち、訪問目的とIDチェックが行われた。この警備については、ちょっとしたエピソードがある。研究所のセットを案内するクルザノフスキーに、ある記者が「今後、街の描写にCGIを使う予定はありますか?」と尋ねてみたところ、クルザノフスキーは突然物陰に身を隠し、物怖じしつつ「ここで使われていない単語は出さないようにしてくれ。」と返した。「もし警備の人間が、今の質問を聞いたら1000フリヴニャ(ウクライナ貨幣で125ドルに相当)の罰金ものだよ。君は僕のゲストだからね。僕が彼らの雇い主だという事実は関係ない。皆と同じようにボディチェックを受けているんだ。」思わず記者は「禁止用語って、“CGI”みたいな言葉ですか?」と返したところ、クルザノフスキーは唸った。「ああ、これで罰金が2倍になった。」[3][11]

ディックが警備のチェックを通過すると、セット内には既に「当時の世界」が広がっていた。守衛は警らにあたり、レストランでは人々が食事をしていた。科学者たちはラボで電磁式銃の実験を、ジャーナリストたちはその日の新聞の準備を、建築家たちはセットの所在地であるウクライナの未来、つまり60年代についての研究に励んでいた。ディックはセット内にあるレフ・ランダウ本人のアパートを訪ね、ロシア人女優ラドミラ・シェグロワ演じるダウ夫人・ノラとも面会した。シェグロワは『ダウ』で唯一、本業が女優の演者だ。「小さな老女がドアを開けてくれました。エレガントなドレスに身を包み、一階へ降りてきたラドミラは、我々とお茶を飲んだ2時間のあいだ、終始ノラの役に入り込んでいました。そこにある全てのものが、そして誰もが、ダウの世界のイリュージョンに包まれていました。「冗談だろ?みんな一体何をやってるんだ。」などと言うことで、それをぶち壊しにしようとは絶対に思いませんでした。セットのファサードを見た時点で我々は魅了され、その心理状態を保ち続けたのです。」と彼は振り返る。だが、ディックはその訪問の間、カメラが回されているのをついぞ見ることはなかったという。[3][22]

 

常識はずれの資金運用にロシア文化省もたじたじ

 

撮影の有無に関わらず、常に多数の出演者を数年間それぞれの役に入り込ませておくということは、演出面でのクオリティー管理という点で理解可能だが、経済的には非常に贅沢な話である。制作の資金繰りは一体どうなっていたのか。プロジェクトがスタートして間もない2006年、クルザノフスキーはロッテルダム映画祭で開催された資金調達を目的としたイベント〈シネマート〉を訪れた。彼は自身の制作会社フェノーメン・フィルムを立ち上げたばかりで、300万ドルを予算とした映画を秋までに作ることを業界誌に語っていた。この予算はEU、ドイツ、スウェーデンの資金源から募ったものである。その時点でのストーリーはレフ・ランダウの伝記にゆるやかに沿ったもののように見え、脚本にはロシアの現代作家ウラジミール・ソローキンを起用、制作チームの事務所もモスフィルムのスタジオ内にあったというから、『ダウ』の現在と比して、より一般的な体裁であったと言える[4][5][22]

プロジェクトの初期から、クルザノフスキーは物理学者ランダウの伝記的事実の中に、個人を越え、より大きな社会や歴史の世界にコネクトするような叙事詩的要素を見出していたようだ。ランダウは、ソ連の閉鎖的な管理社会の中にあって、体制からの圧力に自己の生を搦め取られてしまうことなく、様々な冒険的行為に満ちた「進歩的・現代的」なライフスタイルを実践していたという。クルザノフスキーは、変化を嫌うソビエト社会にあって、彼の考える「次世代的価値観」を実践していたランダウの人生に、ギリシャ悲劇と共通する特性を見出したことが映画を撮るきっかけだったと語っている。彼は映画の出演者たちに、ロシアの土地々に固有の気性を備えた人物を求めたというが、ソビエト版の叙事詩を描くという彼の創意を考慮すれば、この要求も容易に首肯できる。古典とされる叙事詩の舞台が古代ギリシャであるごとく、ランダウの人生の舞台装置として、当時のロシア、つまりソ連のミニチュアをしつらえることがプロジェクト『ダウ』における優先課題となった。[10]

だが実際のところ、クルザノフスキーのチームがウクライナのハルキウに巨大な研究所を造った2009年になるまで、映画の撮影は開始されることが無かった。ハルキウは、ランダウの務めた研究所があった場所というだけでなく、大戦中はドイツ人による蹂躙を、そしてその僅か数年前にはホロドモールを経験した都市でもあり、クルザノフスキーはこの血のにじむ苦難を克服してきた都市ハルキウに、ソ連の不屈の生命力がまだ残されていると考えた。監督はこの研究所で2年以上を過ごし、実に13本の長編映画として結実した700時間分の35ミリフッテージをものした。この13本のうち12本はパリでの上映のために用意されていたが、監督のクルザノフスキーは撮影終了の時点でいっとき行方が判らなくなっていたという。 [10] [4]

監督不在の状態がどの程度続いたのかは不明だが、撮影終了後クルザノフスキーはポストプロダクション用にロンドンのピカデリー大通りにある建物を使っていた。ここでの入館にも顔写真撮影など、入国審査まがいのことが行われている。何より興味を引くのは、ダウの支援者がハルキウでの撮影から長い年月が過ぎた時点でもなお、世界で最も地価の高い地域の一つにある5階建てのオフィスビルを、いかなるオーディエンスにもまだ見せたことのないアートプロジェクトの指揮という唯一の目的のためだけに提供し続けていたことである。 [6]

巨大セットの使い方といい、まるで物がタダで手に入る世界にいるかのごとき資金の使い方だが、この大らかな姿勢はキャスティングにおいてもよく表れている。ダウのアマチュア演者たちはプロデューサーの指示により、ウクライナ国内のデータベースを頼りに集められた。(当時のウクライナ映画界はダウの話題でもちきりだったという)ビデオオーディションは約21~39.2万回行われたというが、そもそも回答者によって回数が異なる。「信憑性の欠如はソ連の特徴だ」とクルザノフスキー自身が語っている通り、ダウの「公式」統計はどれも裏が取れないというのも権威主義国家風だ。清掃係、ウェイトレス、調理師、学者、政党員、シャーマン、芸術家、ときには犯罪者や、「1968年」に研究所の取り壊しを補佐したネオナチ(!?)に至るまで、どの役も、実生活で当該の職業に就いている人々によって演じられた。くだんのネオナチ、マクシム・マルツィンケヴィチ(Maxim Martsinkevich)はロシアでは知名度のある極右活動家で、現在は暴行事件のために投獄されているとのこと。『ダウ』のセットを訪問または滞在した科学者には、ノーベル賞物理学者デヴィッド・グロス、神経科学者ジェームズ・フェロン、ハーバード大学数学教授シン=トゥン・ヤウがおり、出演アーティストにはマリーナ・アブラモヴィッチ、カールステン・ヘラー、そして演出家のピーター・セラーズがいる。またプロジェクトのどこかの時点で接触のある映画関係者としてジェラール・ドパルデュ―、ウィレム・デフォー、シャーロット・ランプリングらの名前も挙がっている。[3][10][25]

だが、さすがに後援者たちの中にはクルザノフスキーの自由な運営姿勢に腹を立てるものもいたようだ。ロシアの日刊紙イズベスチャによれば、クルザノフスキーの制作会社フェノーメン・フィルムは映画が完成しないため、ロシア文化省からの助成金34万ドルとその利子12万ドルの請求に追われていたとのこと。フェノーメン・フィルムの弁護士によると、ロシア文化省はプロジェクトへの投資を取り止めた唯一の支援者だという。現在、同省は自国最大の映画プロジェクトのひとつである『ダウ』を「ポルノまがいのプロパガンダ映画」と呼ぶに至っている。予算絡みのトラブルはこの件だけではない。研究所の建設以前、『ダウ』がまだ「一般的な」映画プロジェクトだった頃、クランクインまで残り一週間というタイミングで、クルザノフスキーは出資者たちに対しこう言ってのけた。「すまんみんな、計画をまた一から練り直したい。」既に費用を払い終えていた出資者たちは当然激怒したという。[1][14][23]

その後、資金難に陥っていたプロジェクトを再開に導いたのが、ロシアのオリガルヒ、セルゲイ・アドニエフ(Serguei Adoniev)だった。後にクルザノフスキーの映画製作を目的とした基金フェノーメン・トラストの出資者となるアドニエフは、クルザノフスキーの処女長編『4』(2004)を気に入り、彼とコンタクトを取るに至ったという。当初の『ダウ』と同じく脚本にはソローキンを迎え、辺境の村に住む不気味な老婆たちの共同生活を通して、現代ロシア社会の心象風景を描いたこの作品で、クルザノフスキーは方々から賞賛を獲得。『ダウ』の資金は、ほぼこの作品の成功を金脈にしている。アドニエフは、ソ連崩壊後に果物の輸入業者から身を起こし、大きな成功を収めた事業主で、彼が開発した通信ブランドYotaはロシア国内への4Gネットワーク導入に多大な貢献を果たした。アドニエフは、祖国ロシアの文化セクターに対する経済支援を望んでいたが、独自の芸術観の持ち主である彼は、ロシア文化省を評価していなかった。そんな彼が『4』を見たのは、ちょうど直接投資の相手を探していた矢先だったという。アドニエフが撮影再開への資金を提供した際、周囲は彼にこう警告した。「お前バカか、あの監督は映画を完成させる気が無いんだ。[こんな投資は]正気の沙汰じゃない。」だが彼は「正気」では無かった。彼は最終的に『ダウ』へ数千万ドルもの額を注ぎ込んだうえ、映画のクリエイティブコントロールをクルザノフスキーに付与したのである。もしかすると、 世間や社会を尊重せず、そのため周囲からも「頭がおかしい」と評されてしまう人格的特徴こそ、アドニエフとクルザノフスキーを結ぶ絆であったのかもしれない。次の章ではこの議論を呼ぶ監督クルザノフスキーの性格について紹介する。[1][10][12][23]

 
 
 

林 峻

東京都出身。普段は企業で働いています。海外映画作品の基本情報に、自分が面白いと思える+アルファを加えた記事を心がけています。映画関連トピックの効率良い収集方法を思案中。


8 Comments
  1. こんにちは。ロシア語翻訳をしております工藤順と申します。
    記事の中でKhrzhanovskyを「クルザノフスキー」とされていますが、原語に忠実な表記は「フルジャノフスキー」となります。ぜひ修正をご検討ください。

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