ポルトガルの映画監督ジョアン・ペドロ・ロドリゲスとジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタを招き、2013年3月23日(土)アテネ・フランセ文化センターでの『ファンタズマ』上映を皮切りに、彼らのレトロスペクティヴを開催しました。
主宰したのは、わたし、映画批評家の大寺眞輔。80年代後半から原稿執筆やテレビ番組での紹介などを通じて映画との関わりは長く、また2004年以降アンスティチュ・フランセ(旧日仏学院)横浜シネクラブで映画上映にも携わってきましたが、主催団体なしに自分一人で映画作家の上映イベントを企画実行したのはこれが初めてでした。背景には、2011年以降一層加速化した日本社会の大きな変容と映画のデジタル化に伴う文化的変容がありました。
クラウドファンディングによって最低限の資金を集め、監督本人とコンタクトを取り、上映権と素材の確保、日本語字幕作り、ホームページやチラシ、パンフレットの制作、試写会、宣伝、そして監督の日本招聘からトークの相手に至るまで、若い友人たちの協力を得ながら基本的には全て自分で実現しました。
上映会場は、アテネ・フランセ文化センター、川崎市市民ミュージアム、シネ・ヌーヴォ、新文芸坐、吉祥寺バウスシアターなど15館以上です。アテネ・フランセ文化センターでのレトロスペクティヴ開催は、80年代以降長く日本の映画ファンにとって神聖な場所だったこの劇場での最後の公式イベントとなりました。他にも既に閉鎖されてしまった劇場があります。
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス・レトロスペクティヴは、DotDashの名義で行いました。そして、IndieTokyoスタート以来およそ1年ほど休眠してきた上映活動ですが、2015年、IndieTokyo上映部門として名称を変更し、今度は海外作品の配給上映を行うことから再始動します。最初の上映は、2015年初夏になります。
2015年3月1日
大寺眞輔
上映劇場
アテネ・フランセ文化センター、川崎市市民ミュージアム、東京藝術大学馬車道校舎、立教大学現代心理学部身体学科、映画美学校、中之島デザインミュージアム、シネ・ヌーヴォ、同志社大学寒梅館ハーディーホール、仙台短編映画祭、新文芸坐、オーディトリウム渋谷、山口情報芸術センター、吉祥寺バウスシアター、銀座メゾンエルメスなど
上映作品
『ファンタズマ』、『オデット』、『男として死ぬ』、『追憶のマカオ』、短編集1(『ハッピー・バースデー!』『チャイナ・チャイナ』『聖アントニオの朝』)、短編集2(『紅い夜明け』『火は上がり、火は鎮まる』『羊飼い』)ドキュメンタリー(『これが私の家』『万博への旅』)
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス João Pedro Rodrigues
映画監督。1966年ポルトガル、リスボン生まれ。リスボン映画演劇学校でアントニオ・レイスなどのもとで学んだ後、映画界に入る。2000年に撮られた処女長編『ファンタズマ』は、ヴェネツィア国際映画祭にコンペティション部門でプレミア上映され大きな話題を呼んだ。2005年の2作目『オデット』は、カンヌ国際映画祭に出品され特別賞を受賞したほか、世界の数多くの映画祭に出品。続く2009年の長編3作目『男として死ぬ』は、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でプレミア上映されたほか、トロント国際映画祭、ニューヨーク映画祭、サンフランシスコ国際映画祭など数多くの映画祭に出品され、この年のフランス「カイエ・デュ・シネマ」誌の年間ベストテンに選出された。公私ともにパートナーであるジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタとの共同監督作『追憶のマカオ』は、第65回ロカルノ国際映画祭のインターナショナル・コンペティション部門に正式出品された。現在、最新作『ornithologist(鳥類学者)』製作中。
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス
ジョアン・ルイ・ゲーラ・ダ・マタ
日本滞在日程
3月21日(木)20:15 成田着
3月23日(土)19時 ティーチイン@アテネ・フランセ文化センター
3月24日(日)
14:15 ティーチイン@川崎市市民ミュージアム
19:30 ティーチイン@東京芸術大学馬車道校舎
3月26日(火)18:00 ティーチイン@立教大学新座キャンパス
3月27日(水)19:00 ワークショップ@映画美学校
3月28日(木)19:00 DOMMUNE出演
3月31日-4月6日(土) 京都
4月8日(月)10:00 成田発
日本のみなさまへ
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス
私の作品の完全なレトロスペクティヴが日本で開催されること、そして、大寺眞輔氏と彼の仲間たちによってこれほどの献身と深い愛情が示されているのを感じることは、私にとって夢が実現したようなものです。日本に再び帰るのに、これ以上の理由など存在しません。私は、1999年5月、ゲーラ・ダ・マタと共に日本を訪れました。処女長編である『ファンタズマ』を撮影する直前のことです。私は、リスボンで既に全ての準備を終えていました。俳優もセットも決定済み…、ただ、夏が通り過ぎるのだけを待っていたのです。より柔らかく、しかし、より正確な秋の光を望んで。
この日本への旅が、その後の私の作品にどれほど深い影響を与えたことでしょう。当時、私は32歳でした。しかし、思えば日本映画は、私が映画学校に通っていた頃から常に参照モデルであったのです。映画学校で私は、既に高齢だったパウロ・ローシャから日本への愛情を教わりました。彼は、日本で文化担当官をつとめた経験があります。私たちは、ときに何時間にもわたって議論し続けたものです。映画や、絵画、文学について。俳句から源氏物語まで、能から溝口健二、あるいは北斎に至るまで…
私は、私が自分の映画で作り上げた世界が、日本の観客のみなさんにとって挑戦的なものであることを真摯に望みます。動揺させるものであり、同時に感動的なものであることを。
このレトロスペクティヴを実現してくれた全ての方々に感謝を捧げます。
大寺眞輔さん、
DotDashのみなさん、
アテネ・フランセ文化センター、川崎市市民ミュージアム、同志社大学、シネ・ヌーヴォ、中之島デザインミュージアム、ROSA FILMESのみなさん、
様々な形で援助して下さったみなさん、
そして、クラウドファンディングを支援して下さったみなさん、
オブリガード、ありがとう!
(この二つの言葉は、どれほどよく似ていることでしょう!)
João Pedro Rodrigues
ジョアン・ペドロ・ロドリゲス