(1)の章では『象は静かに座っている』の監督、胡波(フー・ボー)の学生時代について記した。この章では同映画の制作から監督の自殺に至るまでの過程を記す。

 

 

映画制作会社<冬春影業>

 

大学卒業から2年後の2016年、青海省の省都である西寧で開催される「First青年電影展」[映画祭]に参加した際、胡波はついに自分の映画を撮る機会に恵まれた。

受賞には至らなかった胡波だが、映画プロデューサーの劉璇(リョウ・シュアン)は彼の脚本を読み、夫である著名映画監督の王小師(ワン・シャオシュアイ)に推薦した。脚本を読んだ王は「物語と文体が総じて不思議な雰囲気を醸している」と高く評価し、彼と劉璇が運営する映画制作会社<冬春影業>による胡波の長編第1作への投資を決定した。この知らせを聞いた胡波は非常に興奮し、范超に60万元の投資を受けたと語っている。「アートハウス系の王小師に認められたよ。嬉しいなあ、俺の作品を撮る資金をくれたんだ」。

 

2016年8月に胡波は『象は静かに座っている』[以下『象』]制作の準備を開始した。プロデューサーには王小師と劉璇が就いた。撮影監督の范超と役者1名を除き、スタッフとキャストはすべて王が出資したメンバーを使った。胡波の監督としてのギャラは無い。

 

胡波と冬春影業の関係が転機を迎えたのは映画の準備がスタートして2週間後のことだった。胡波は、王が映画の予算を実際の額よりも高く部外者に説明していたことを伝え聞いたのだ。

 

この日を境に、胡波のなかで王は頼りになる業界人から悪人へと変わった。「こんなはした金で映画の準備や撮撮をさせてるのはあいつらなのに、なんで俺が皆から罵られないといけないんだ?」当初、胡波と王夫妻は息の合った関係だった。彼がミーティングに行くと、夫妻は会社近くの鍋料理店で食事をごちそうしていた。撮影が終わるまで胡波と王は決裂することがなかったものの、胡波の王に対する評価は変化した「やつらの金は本来俺のものなんだから、俺に飯を奢るのは当然さ。」

胡波(左)と王小師(右)

だが、王周辺の人物が語るところによると、王はロケーション撮影用の地元当局との交渉や、その当局関係者への接待といった社会的慣行についても肩代わりして行っていたとのこと。政府役人との交渉を胡波のような若者に任せるわけには行かないという年長プロデューサーとしての判断は妥当といえるが、監督である胡波はこの接待に出席することすらなかったという。また、中国当局の放映許可証[中国映画の冒頭に現れる龍のトレードマーク]の付されていない『象』をベルリン国際映画祭へ送り込むため、映画管轄局のトップを説得したのも王だったという。[8]

 

そんな王小師が脚本上の結末に干渉を加えたのは一度きりだった。胡波自身の書いた物語の結末は、以下のようにマジックリアリズムに近いものだった。「長距離バスの休憩中、郷里を逃れた人々が遠方を見やると、遠い彼方に象の咆哮を聞いた。」そして王はこの結末を次のように変更しようとした「バスは警察による車上検査を受ける。警察が探しに来たものは自分たちだと主人公の男女は考えたが、警察が捉えたのは別の重罪犯だった。」この結末に対し范超は言う。「王は何を表現したいんだ?彼はこれで十分悲しみが表現されていると考えているようだけど、世の中にはより大きな悲しみがあることを知らないんだ。これが第六世代[中国の映画監督を活動年代ごとにまとめた世代。第六世代には賈樟柯、張元、姜文、王兵らがいる。張芸謀は第五世代]らしいリアリズムなのさ。まったくダサいね。」

 

『象』は暗さに満ちている。恨み、暴力、疎外された者、母娘間の憎悪、高校教師と女生徒との恋愛等々といったモチーフは、この映画を中国でアンダーグラウンドへと追い込む要因である。加えて、長回しという撮影手法も、 中国当局からの検閲に対し編集を用いて対処することを不可能にしている。

胡波が受け付けないのは、実利実益を優先した雑念のある創作活動である。『象』で于城役を務める俳優の章宇がなぜ商業映画を撮らないのか尋ねると、彼は地面を見つめながら答えた「金のために映画を撮ったことが一度だけあるんだ。そのせいでその面影が俺のレンズから透けて見えるんだ。」

 

『象』の撮影は開始後、順調に進み25日目に終了した。予定された時間と予算は正確に守られた。しかし、それは監督と制作サイドの衝突の始まりだった。撮影の円滑化のため、撮影期間中、制作サイドは胡波の要望をなるべく叶えようと彼を大切に扱ったため、両者の関係はどうにか穏やかなものに留まっていた。だが、ある宴会の席で撮影計画書を改ざんしたとする劉璇からの罵詈雑言を、胡波が「目を閉じてじっと黙って」聞いているのを、ある撮影スタッフが目撃している。

 

 

決裂

 

ワンシーン・ワンショットによる長回し撮影のため、胡波は短時間で230分版の編集を終えることができた。しかしこの手の長尺映画は、上映映画館を獲得するのが極度に困難だ。そのため胡波は2時間の短縮版を作って王に見せたが、この版では本来あったロングテイクによる美しさや、1日の出来事としての物語の枠組みも失われた。だが王はこの短縮版を気に入り、さる映画祭も好感を示した。しかし胡波は依然長尺版に執着し、プロデューサーたちには告げないまま、ワークショップ等で知り合った廖慶松とタル・ベーラに見て貰った。廖慶松は侯孝賢やエドワード・ヤンとの仕事で著名な台湾を代表する映画編集者である。タル・ベーラは説明不要の巨匠中の巨匠、胡波が「両親よりも大切な存在」として崇敬する監督だ。名匠が2人とも長尺版を気に入ったため、胡波の心はより長尺版へと傾いた。

 

長年青年映画監督たちと関わってきた台湾の映画プロデューサー黄茂昌によると、胡波には青年監督によくある矛盾があるという。「自分の才能を人々に認めてもらいたいという願望がある一方で、今日の主流を成す人々を蔑視するというものです。そのため彼は自分の作品が新しいタイプのものであるとして、他人の作品を模倣することを拒むのです。」

この件について王と議論するなかで、両者の口調は次第に激しくなってゆき、互いを攻撃し合うまでになった。ネット上に出回った携帯での王からの応答を収めたスクリーンショットを見ると、王は胡波の長尺版を「駄作だ」とし、胡波に医者へ行くことを勧めいている。

 

「あの長尺版はまったくの駄作だ。分かるか?俺は監督で投資家、プロなんだよ。その俺がこれだけ心血注いだ作品がこんな駄作だなんて、俺の名がすたる。俺だってメンツが大事だ。恐ろしいのはおまえがこれほど身の程知らずだってことだ。表現だって?おまえの表現したがってる内容が薄っぺらだってことがバレないとでも思ってるのか?それほど他人をアホだと思ってるのか?世界がクソだって罵ってるだけのおまえの表現が、失笑ものだってことくらい誰でもわかるぞ。まあ、俺も投資家との面会で忙しいし、特に意見も無いよ。もう手の施しようも無いしな。お偉い方々がおまえの長尺版をお褒めなら、彼らに金を出してもらえ、俺は退散するよ。あと、おまえの錯乱ぶりについてだが、ホント医者に行くことをお勧めするよ。既に病気の域だぞ。注意しとけ。」[1]

 

中国第六世代の監督として知名度の高い王小師は、カンヌ国際映画祭の審査員賞受賞に加え、ベルリン国際映画祭での2度の銀熊賞を受賞、フランスの芸術文化勲章シュバリエ[日本では北野武、河瀨直美、高階修二、勅使河原蒼風らが受勲]の候補に選出されるなど欧州での評価が高く、ヴィットリオ・デ・シーカや費穆(フェイ・ムー)といった監督を好む生粋のアートハウス系映画監督。4月3日から日本で公開予定の新作『在りし日の歌』では、境遇の異なる2つの工場労働者家族の苦難と成功、心の絆を、改革開放から現代に至る時代の移ろいと共に美しく描き上げている。そんな王は胡波の死後、幾つかの英語圏のメディアへのインタビューで、自らの創作を守り抜こうとする芸術映画監督としての自身の姿勢について語っている。これを見ると王は、自分を曲げようとしない胡波の姿勢を理解できるどころか、彼自身の映画人としての姿勢も、ある意味当然ではあるが、胡波と同じものであるように見える。

 

「映画監督がなすべきことで最も重要なことは、芸術表現によって自分自身を堅持することです。話題性や、商業、経済的目的のために映画を撮るべきではなく、監督はこれらのものから自由でなければなりません。」[3] 「中国では私が望む方法で映画を撮ることができないのです。これは資金を募ることよりも、ずっと大きな、最大級の問題です。しかし私はこれまで自分の姿勢を堅持し続け、近年では、出資者に対し、「私はいただいた資金の還元について保証することができない」ということを再三念押ししています。」[2]

 

芸術映画が直面する無理解について、王は身をもって知り尽くしている。2014年の自作『闖入者』(原題)の上映劇場数が国内劇場総数の僅か1.3パーセントにしか満たないという「想像を絶する」状況を目にした王は、ブログでこう観客に懇願している。「現代は真面目な映画にとって最悪の時代です…どうか、私を支え助けて下さい!」[6]本作は文化大革命中、他者を悪しざまに密告し、傷つけることで利を得てきた老女の悔恨の念を描いたもので、文革を加害者視点で描くという新鮮なアプローチと、巧みな心理描写により批評家から好評を得ている。[7]

監督・王小師(右)とプロデューサー・劉璇(中央左)

中国の若手芸術監督たちから大きな信望を集めるタル・ベーラは、初めて胡波と会った日のことを回想してこう語っている。「彼のまなざしにはある種の突出した個性があった。数百名の中国人映画関係者が私との共作を打診してきたが、私には疑いもなく胡波しかいなかった。」また、電話での対談中にタル・ベーラは『象』の230分版を「完璧」と評価。なぜこれを2時間に縮小しなければならないのか理解に苦しむとし、6度「アホ(Stupid)」という言葉を用い語調を荒らげている。

 

『象』の制作会社である冬春影業との関係悪化後、胡波は持ち前の反抗気質でもって彼の映画を自身で購入して取り戻そうとした。これに対し、買うのは構わないが、値段は300万元[映画の制作費は60万元]、その内「200万元は大物映画人によるプロデュース費用」という王小師から返ってきた答えに胡波は驚愕したという。交渉は決裂した。

 

また、ある会社が『象』の購入を検討したところ、冬春影業は価格を350万、400万と吊り上げていった。別の会社は胡波に映画の買取りを保証し、彼もそれを信じたが、胡波は王の映画業界における豊富な経験値を計算に入れておらず、結局のところ、この会社は王と大ぐちの共同事業を行っている企業だった。王への幾度かの挑戦が失敗に終わったのち、胡波は自信を失い、王小師・劉璇夫婦への彼の口調も哀願の色を帯びていった。ついには、冬春影業が映画祭で短縮版を上映するかわり、長尺版を胡波の手元に留めることを提案したが、これもまた夫妻によって拒絶された。

 

 

彼の周囲の人々はみな『象』をひとまず忘れ、先に次の映画に取り掛かるよう勧めた。胡波も冬春影業との交渉をFirst青年電影展の関係者に任せ、次回作に向けた契約にサインしている。また彼は、タル・ベーラとコラボレーションを予定している新たな映画について話を交わしている。これは多くの青年監督たちが夢見た機会である。

 

この一年後の西寧First青年電影展でタル・ベーラは述べている。「胡波から贈られた彼の本の献辞には「教父へ」とまで書いてあった。クソ、彼を救えなかった自分が残念だ。だが、誰が暴風のように荒くれた人間を救える?彼は世界を受け入れなかったんだ。世界もまた彼を受け入れないというものだ。」

 

彼が世を去る前の飲みの席で、胡波はネットでロープを買い、自宅の廊下に掛けておいたと話していたが、新たな映画の契約をものにし、嬉しそうにしている彼を前に自殺を想起する者は誰もいなかった。

 

胡波の死の四日前に一緒に酒を飲んだ友人によると、彼らは飲み会の最中、死ぬことについて語り合っていたという。その際、胡波は自分の墓碑に刻んで欲しい言葉について説明すると同時に、自分の生活について「ロボットみたいに書き物をしたり、映画を撮ったり、生きていても良いことなんて無い。」[4]とも話していたという。彼にとって「映画を撮ることは傷つき、侮辱され、貧さを凌ぐこと」だった。

自宅で首を吊っている胡波を友人が発見した後、すぐに警察、法医学検証者、新たに契約を結んだ映画会社の関係者、そして劉璇が冬春影業から駆け付けた。劉は現場の酒瓶を指さし、警察に対しこう話しかけていたという。「このみっともない子、酒飲みなんです。薬をやったり、私の会社の女優に手を出したりしていることを、エージェントからよく報告を受けていました。」[4]

 

胡波がみずからその命を断つと、冬春影業は映画の版権を含むすべての権利をすみやかに彼の両親に譲渡した。映画の検閲と映画祭参加についても、彼の死の話題性から順調に事が進んだ。

 

 

おわりに

 

ここに来てある疑問が頭をよぎる。仮に、胡波の死が無かったら、『象』が日の目を見ることはあっただろうか。彼は世界に失望したが、その世界は社会的成功と引き換えに彼の命を要求した。仮にこの「命」を身体的なものではなく、精神的な、いわゆる「魂」という意味で捉え直した場合、それは胡波が生前、周囲の世界からの執拗な要求にも関わらず、頑迷とも言えるほど必死に守ろうとして譲らなかったものだ。そして彼はその最期まで、自分を偽ることなく「魂」の純粋さを死守し通したのだった。

 

胡波とは対照的に、生きて成功を手にしたと言える王小師だが、彼はみずからの「魂」を守り切れただろうか。

 

次に紹介するコメントは、王が映画を通して表現を試みているテーマについて語ったものである。「多くの人々は自己の安定と成功を得る過程で他人を傷つけます。しかし、そのことについて自発的な罪悪感を人々に期待することはできません。社会を構成する人々の中には常に「そんなことは無い、私は社会環境の影響から他人を傷つける事など無い」と言う人たちがいます。なぜなら、自分が犯した様々な罪を、多くの人は認めようとはしないからです。彼らはその罪を葬り去り、覆い隠します。そうした人々に対し、私の映画は、遅かれ早かれあなたは良心へと立ち戻ることになるだろうと告げるのです。…これは簡単なことではありませんが、一人の芸術家として、私はこのことを人々に告げ知らせるのです。」[3] 王は胡波の死に関し、これまで一貫して沈黙を守っている。

 

 

[本文] https://wwww.huxiu.com/article/272612.html

[1] https://www.mirrormedia.mg/story/20181121ent009/

[2]https://china-underground.com/wp/2018/05/09/interview-with-director-wang-xiaoshuai/

[3]https://asianmoviepulse.com/2019/02/berlinale-interview-wang-xiaoshuai-censorship-does-exist-but-what-should-we-be-more-vigilant-about-is-the-possibility-of-self-censorship/

[4]https://www.hk01.com/電影/260468/金馬獎2018-大象-導演胡波死因瘋傳-活著也沒什麼好事

[5]https://www.yearendlists.com/2019/11/richard-brody-the-twenty-seven-best-movies-of-the-decade

[6]https://web.archive.org/web/20150727190420/http://ent.163.com/15/0501/08/AOH3KICG000300B1.html

[7]http://ent.163.com/14/0903/08/A57226J500034U1J.html

[8]https://ek21.com/news/star/16709/

 

 

林 峻

東京都出身。普段は企業で働いています。海外映画作品の基本情報に、自分が面白いと思える+アルファを加えた記事を心がけています。映画関連トピックの効率良い収集方法を思案中。

 
 

3 Comments
  1. あの作品の裏側について、初めて知ることばかりでした。
    『象は静かに座っている』を観て、僕にはどうしても他人事の映画とは思えませんでした。
    ある種の人々にとって、かけがえのない映画であることは間違いないと思います。
    長く愛される作品になることを祈ります。

    • コメントいただき、ありがとうございます。
      芸術家にとって、自分の内的な声に忠実であることは
      必要不可欠な姿勢だと思います。
      言い換えれば、創作行為は鑑賞者に対し、
      作家がどれほど誠実でいられるかが問われる倫理的な作業でもあるはずなのですが、
      映画ほどこれが難しい媒体はありません。
      社会から突きつけられた踏み絵を拒み、
      誠実であり続けた監督の人生があのような結果を迎えたことが
      残念でなりません。

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