今年のカンヌ国際映画祭において、若手監督発掘のために設けられた批評家週間に出品された『愛と欲望の物語』は、チュニジアのチュニス出身であるレイラ・ブジドの2本目の長編映画である。本記事は、ブジドのインタビューを中心にまとめながら、作品の制作背景について取り上げている。ブジドが取り上げる主なテーマは二つある。第一に、これまで映画作品における男性表象のあり方に疑義を呈し、それを新たなものへと変化させることであり、第二に、フランスにおいて、「アラブ人」「マグレブ人」、「移民」として名指されれてきたものたちのアイデンティティを描くことである。[1][2][3]

レイラ・ブジド『愛と欲望の物語』のあらすじについて

 18歳のアーメッド(サミ・アウタルバリSami Outalbali)は、両親と暮らしていたパリのバンリューから、アラビア文学を学ぶためにソルボンヌ大学に入学する。両親はアルジェリアからの亡命者だが、バンリューで育った彼は自身のルーツである国も言語も知らないのだった。彼は大学のベンチで、最近チュニスからやって来たばかりの学生ファラー(ズベイダ・ベラジャモールZbeïda Belhajamor)と出会う。幸運なことに、彼と同じく彼女もまたアラビア文学の比較文学コースに在籍しており、今期はエロティシズムを主題とする古アラビア語の詩を扱うという。二人はお互いへの欲求が高まるにつれて、12世紀のアラビア宮廷文学のテキストを発見していく。人物へのクロースアップ、拡散する黄金色の光、夢を思わせるエロティックな図像へと巧妙に踏み込みながら、優雅さに満ちた肉欲的な言語を構築する。[1][2][3]

映画における男性表象のあり方について

 ブジドは、映画における男性表象のあり方について疑義を投げかけている。「私は男性の身体を撮影し、それをエロティシズムなものにしたいとつねに考えていました。この種の物語もまた欠けているのです」[2]。しかし、映画を執筆している時点では、女性がスクリーン上の女性を見つめることができるかという、女性どうしの眼差しの問いを中心に考えていたという。「しかし、女性が男性を眼差すことや、彼女たち固有の視点を提示することも許可されなければなりません」[2]。

「この映画は愛と欲望への誘いであり、マグレブ出身の若者、アラブ文化の若者の身体を、愛へと開くことを目的としています。映画において、少年期の最初の性体験が扱われることは滅多にありません。それはまるでなかったものであるかのように語られます。これは、女の子であろうと男の子であろうと、人間の生において非常に重要なことなのです。とりわけ、愛と欲望を同期に引き受けるためには」[4]。

 ブジドが扱うこうした男性像は、これまで彼女を含めた女性たちがしばしば経験し、出会ってきた男性たちであり、映画作品では滅多に見られないが一般社会にはどこにでも存在するものたちのことである。「それはまた、女性が目にしてきた男らしさvirilitéの報告でもあります。男らしさのうちに、弱さfragilitéと抵抗résistanceを見るためなのです。多くの若い女性たちは、ためらいがちで弱々しい少年たちに直面することを経験できると思います。しかし、こと映画においては非常にしばしば、謎めいていることや弱いことは女性の特権であるかのようなのです。私はそうは思いませんし、[そうした男性は]語られることがなくても非常に多く存在しているように思います。今日、強くてしっかりした若い女性はたくさんいると思いますし、この種の若い男性の友人を持つ若い女性もたくさんいると思います。私はこれらを経験してきましたので、語りたいと思ったのです。このような男性は存在していて、私も関係してきましたが、映画では見たことがありませんし、抵抗と謎めきに満ちている男性身体の官能性sensualitéに関する視点も見たことがありません」[4]。

 ブジドは、これまでの映画が表現してきた「男らしさvirilité」に疑義を投げかける。ブジドが企図しているのは、これまでの映画において男性たちが男性たち自身を描いてきたあり方で表現するのではなく、女性から見た男性像を取り入れながら、それによって「男らしさ」なるものを変化させることである。「私たちは女性が多くの規範に疑義を呈する時代に生きており、男性も男らしさを再発明する必要性が大いにあると思います。しかし、男性の見習い期間apprentisageを描く物語は不足しています。少年の表象の欠如は、疑いぶかく、ためらいがちで、謎めいたもののうちに存在しうるのです。またこの映画では、アーメッドの人物像を通じて、そのようなものたちの美しさと官能性を示したかったのです」[6]。

「私は、男性の物語が不足していることに応える形でアーメッドという人物を作りました。それ[不足している男性の物語]は、初めて人生を体験し、内なる世界を疑いつつ奮闘する感受性の強い青年の物語です。スクリーン上に提示されたイメージではなく、私が知っているイメージによってマグレブ系フランス人のキャラクターを構築することで、表現の欠如を埋めたかったのです」[2]。

Une histoire d’amour et de désir

アラブ文化とアラブ人のアイデンティティについて

 ブジドは、フランスで暮らしながらも、「アラブ人」や「マグレブ人」、「移民」として名指される人々のアイデンティティを描き出そうとする。しかしそれは非常に困難がつきまとうという。なぜなら、「アラブ人」や「マグレブ人」として単純化され眼差される/単純化して表象されうる傾向にあるからだ。「アラブ人のアイデンティティをテーマにすることは、アラブ系フランス人にとって非常に問題含みで複雑なことであるのですが、それはますます単純化されているからなのです。ですから、チュニジア系のこのチュニジア人と、アルジェリア系のフランス人を対面させることは、興味深いことでした。アルジェリアは彼の本来のアイデンティティとは関係がなく、彼が受け取るものはすべて、私たちが社会で耳にするものであり、ますます単純化されているものなのです。だから私はこの問題を、文学、音楽、研究、チュニジアの若い女性など、様々なテーマとともに最新のものにしたかったのです」[4]。

「さらに、私にとって、両親から[アイデンティティについて]伝えられなかったことを描くことは非常に重要でした。多くの場合、意図的に伝えないことを選んだわけではなく、彼ら自身が伝える術を持っていなかったためなのです。なぜなら伝えることは贅沢なことであり、人々が仕事をしているときや体調が悪いときは、出身の文化を伝えることはないのです。突然、アーメッドはバンリューに存在するアラブ文化のイメージを構築しましたが、それは必ずしも実際のアラブ文化、または少なくともアラブ文学、アラブ音楽、書かれたあらゆるものや存在するあらゆるものによって伝えられるアラブ文化に関係しているわけではありません[4]。

「彼とは異なり、彼女は自分がどこから来たのか、自分が誰であるのかを知っています。彼がパリで彼女に会ったとき、彼女はアイデンティティの危機に陥ってはいません。フランスの多様性と呼ばれるものの中に多様性を取り戻さなければならないと思います。マグレブ人たちはみなこういう人かああいう人である、と語ることはやめなければならない。その中にはたくさんの異なる人々が存在するのです」[6]。

 ブジドはアラブ人のアイデンティティを表現するにあたり、単純化されない方法、「限定的自己同定assignation identitaire」[7]に抗する方法によって描き出そうとする。それは、人種や出自、環境ではなく、アラブ文化、とりわけアラブの文学作品を用いることである。「アーメッドは読書が大好きで、彼自身と彼の内面性に関する一貫性を持って自身を構成しています。私は彼の人物像を、限定的自己同定や、出身、性別、環境によっては考えませんでした。今日、一部の空間では人物像の多様性が不足しています。バンリューに住む人々の内面性にはほとんど関心がありません。一部の人にとっては平和な場所でありうるのですが、まるで紛争しか起こっていない場所であるかのようなのです」[2]。

「私は、12世紀に書き写された『ロミオとジュリエット』のような『マジュヌーンとライラ』というまったく過小評価されているテクストをアーメッドに出会わせたいと思いました。それから、イブン・アラビー[8]の『燃える欲望の歌』や、性的な見習い期間の教科書『シェイク・ネフザウィの匂える園』[9]などです。私は自分に言い聞かせました。フランスの青年、読むことは好きだが、自身のルーツとはあまり深いつながりを持たず、まだ性的貧困が残るバンリューに住む青年のこれら[文学作品]の出会いは、それだけで映画の美しい可能性なのです」[6]。

「私はチュニジアで育ち、フランスで住むことを選びました。私は今、二重国籍を持っています。私の経歴から、アルジェリア出身のフランス人であるこの青年を捉えることができます。これは、私たちが通常ディアスポラをとらえる方法とは正反対のアプローチです。多くの場合、それが起こるのは反対の方向です。ここフランスで育った監督は、一般的に多かれ少なかれ、遠くの国に行って撮影します。私のアプローチは、最終的にはオリエンタリズムの反対です。なぜなら、私がよく知っている文化だからです」[2]。

Une histoire d’amour et de désir

2人の主要キャストについて

 ブジド監督は、子役が存在しないチュニジアにおいて、経験を積んだ俳優を選ぶことが難しいことを語る。「この年齢の人物を演じるには、非常に若い頃からキャリアを積んだ俳優を起用しない限り、必然的に初心者になってしまいます(そしてチュニジアには子役はおりません)。しかしズベイダ・ベラジャモールはすでに短編映画に出演しており、幼い頃からEl Teatro[チュニスにある劇場]に在籍していました。『À peine j’ouvre les yeux』で恋人役を演じた俳優を探すためにその劇場に足を運んだとき、私はそこで彼女をチラリと見ました。彼女を見つけたのですが、とても若かったのです。彼女は14歳でした。年上に見えましたが、『À peine j’ouvre les yeux』のためにはあまりに若すぎました」[4]。

「[アーメッドを演じる若者サミ・アウタルバリは]映画において必要不可欠な役です。内なる世界とこの抵抗を伝達することができる俳優を見つけなければなりませんでした。その俳優は精力的であると同時に弱々しく、愛情深くあると同時に内向的であり、バンリューの労働者階級で育ちながら、文学部の学生でありうるような人物なのです。私はフィリップ・フォコン『Fiertés』(2018) で小さな役を演じていたサミに注目し、彼に会いたくなったのです。彼はすぐにこの企画に熱中し、この親密さについて語ることの重要性を見出し、「男性身体をエロティックにする」私の企画を開始してくれました」[4]。

 ブジドは、本作品を撮影するにあたって、「2人の出会い」において生起する出来事を尊重するため、ミーティングのあとは一切リハーサルなどをしなかったという。「[2人の俳優は]それぞれが非常に強い官能性の重みchargeを持っているのですが、それに加えて、2人の出会いによって一種の錬金術のような何かが起こったのです。彼女ら/彼らのあいだで何が起こっているのか、そしてカメラがそれを捉えうるのかを見出すために、ミーティング=出会うことrencontreはとても重要でした。これは事実でした。しかしこのミーティングのあと、実際に彼女ら/彼らのあいだで何が起こっているのかが確認できたあとは、この感情を保護するために、もはや撮影前に会ったりリハーサルをしたりしませんでした。それは私たちが取り込んだものであり、映画のなかでそれを感じることができます」[4]。

Cannes 2021 – Leyla Bouzid, Sami Outalbali et Zbeïda Belhajamor (Photo Bertrand Noël)

[1] https://www.lemonde.fr/culture/article/2021/09/01/une-histoire-d-amour-et-de-desir-une-subtile-sarabande-sur-le-chemin-de-la-jouissance_6092977_3246.html

[2] https://www.lepoint.fr/afrique/leyla-bouzid-je-voulais-remettre-de-la-diversite-dans-la-diversite-francaise-02-09-2021-2441129_3826.php

[3]http://distrib.pyramidefilms.com/pyramide-distribution-catalogue/une-histoire-d-amour-et-de-desir.html

[4]https://www.webdo.tn/2021/07/25/cannes-2021-entretien-avec-leyla-bouzid-realisatrice-dune-histoire-damour-et-de-desir/#.YUdSLqBUt24

[5]https://www.lesechos.fr/weekend/cinema-series/une-histoire-damour-et-de-desir-portrait-dun-homme-amoureux-1342125

[6]https://www.ouest-france.fr/culture/cinema/entretien-il-y-a-un-manque-de-recits-d-apprentissage-au-masculin-b134a630-0a50-11ec-8cc9-17f2879dca50

[7]精神分析家エリザベート・ルディネスコが用いる概念。彼女によれば、レイシズムは「人種」という存在しない枠組みに固執する「限定的自己同定」によってなされるものである。https://www.humanite.fr/essai-elisabeth-roudinesco-face-aux-assignations-identitaires-701802

[8]イブン・アラビー (1165-1240)は、中世のイスラーム思想家である。

[9]マホメッド・エル・ネフザウィが1410年から1434年ごろに編集した作品であり、「世界三大性典」のひとつであるとされる。

板井 仁 大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。


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