映画『ある画家の数奇な運命』あらすじ

 

ドイツの現代美術家ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)の半生をモデルにした映画『ある画家の数奇な運命』が10月2日に全国で公開された。映画の舞台は第二次対戦中のドイツ。画家を志す主人公の青年は大学で後に妻となる恋人と出会う。彼にはかつて統合失調症と診断された叔母との大切な思い出があったが、運命の悪戯か、恋人の父はナチス・ドイツの優生政策に基づき、精神病患者へ強制断種(不妊手術)を施し、彼らを殺害していた医師であった。映画ではその正体に気づかぬ主人公が、自らの創作活動を通して義父に隠された真実へと迫る過程が描かれている。

 

ゲルハルト・リヒターについて

 

監督・脚本を担当するのは『善き人のためのソナタ』(2006)でアカデミー賞外国語映画賞を受賞したフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク。彼が本作の芸術家主人公の半生を創造したのは、現代美術の巨匠ゲルハルト・リヒターの「数奇な」生涯について友人から伝え聞いたことがきっかけだった。1932年にドイツのドレスデンで生まれたリヒターは1961年、ドイツが東西にまたがる壁によって分断される数ヶ月前に西側へと逃れ、ヨーロッパ戦後美術の巨人ヨーゼフ・ボイスが教鞭を執る名門デュッセルドルフ美術アカデミーへと入学する。亡命以前からルチオ・フォンタナやジャクソンポロックといった西側の著名アーティストに慣れ親しんでいたリヒターは、学友の美術家ジグマー・ポルケ、そして後にアート・ディーラーとして成功するコンラート・リュークらと共同で、資本主義の文化・社会にシニカルな眼差しを向ける自分たちの姿勢を「資本主義リアリズム」と銘打ち、戦後復興期のドイツを代表する芸術家となる。近年、彼の作品はヴィンセント・ヴァン・ゴッホやアンディー・ウォーホール、フランシス・ベーコンといったアーティストたちのように、その高額なオークション価格がしばしばメディアに取り上げられ、話題を呼んでいる。(社会主義リアリズムをもじった造語である「資本主義リアリズム」はヨーゼフ・ボイスが組する芸術運動フルクサスから派生した理念で、2000年代に入り文化理論家のマーク・フィッシャーの手で拡大解釈ならびに再定義が施された。リニューアルを経たこの単語は、後期資本主義社会を解説する概念として、ここ10年の文化・芸術に関する様々な言説の中で散見されている。)[1][2][3][4][5]

 

リヒターが書いた怒りのメール

 

現代美術の大御所であるリヒターだが、監督ドナースマルクからの取材要請に対し、当初は快く全面的な協力で応えていた。しかし映画が完成し、その予告編を目にすると彼は大きく気分を害し、あまりに「大仰」で「スリラーとしての脚色が過剰」だとこき下ろした。そこでニューヨーカー誌の記者がこの批判の真意について説明を求めたところ、リヒターは書面でこう回答した。

 

フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクの映画について、ご親切なお便りを有難う。[取材に応じた]当時の出来事を思い出すために、私はドナースマルクの件について、多くの資料を確認してみましたが、残念なことに、事実のこのような映画化は、またしても私を非常に不快にさせました。本作と監督に対する私の嫌悪を改めて思い出し、貴方への回答も出来ないほどです。

どうか、ご理解いただけるようお願い致します。どうにも我慢がならないのです。

 

ゲルハルト・リヒター

 

 

怒りのあまり、映画に関する資料に目も向けられないとするリヒター。何が彼をここまで怒らせたのか。

 

ドナースマルクが情報収集のためケルンにあるリヒターの自宅を初めて訪れた2015年1月、彼はこの取材が歓迎されるとは期待していなかった。だが「圧倒的に親しみやすい」と知人から評される社交性を備えたこの映画監督は、リヒターからの拒絶に遭うどころか、家に迎え入れられるや否や、初日から彼と7時間を共に過ごすことに成功。さらに数回のセッションの後にはテープレコーダーの使用許可を取り付け、やがてはリヒター夫妻の結婚記念日のドレスデン旅行に同行させてもらうまでになる。「彼は全て語ってくれた。本当に彼の人生の全てをだ。驚くほどオープンだったよ。」と、ドナースマルクは振り返る。「最終的に私は一ヶ月かけて、彼の自宅で伝記的な事実の何から何までを全て録音したんだ。」

▼ ゲルハルト・リヒター

実のところ、ドナースマルクはリヒターが少しでもリラックスして取材に応じられるようにと、映画における彼の伝記的事実の提示方法について、ある約束ごとを提案した。作品公開時に、彼は物語のどの部分が事実であるかを言わず、リヒターはどの箇所が創作であるかを言わない。ドナースマルクは映画の制作中に、具体的なプランをリヒターに書き送っている。「[私たちが]どのような内容の会話をしたにせよ、私は次のことを明言するようにします。この映画はリヒターの伝記ではなく、架空の画家クルト・バーナート[映画の主人公]についての物語であると。私はこの映画がドイツの精神史のようなものであり、あなたを含めた幾人かのアーティストの伝記を素材にしているとするでしょう。あなたの伝記は単に自由な架空の物語の出発点に過ぎないと表明します。映画に登場する出来事のうち、あなたが教えてくれたプライベートな事柄は、どのみち公衆の知るところではありません。世間に対し、私は引き続きこれらの事がらについて口を閉ざし続けます。何が事実で何が創作であるかは、ジャーナリストたちに推測させておきましょう。」この約束によって、リヒターは映画を自分と切り離すことができ、ドナースマルクには説得力のある情報源が保証された。

しかし、この「推測」はジャーナリスト以上に、脚本を執筆するドナースマルクにとって必要な作業だった。リヒターについての物語を語る以上、雑多な事実の集積である彼の生涯を推測や解釈によって統一し、本筋に通底するテーマを与えることは、脚本家であるドナースマルクの仕事である。ここで問題となるのは、他者の人生を解釈し、それを広く世間に公表することの危険性と重みである。ともあれ、ドナースマルクはリヒターの作品解釈をもって彼の仕事の手始めとした。

 

リヒターが拒絶した自作への解釈

 

リヒターの叔母マリアンヌ・シェーンフェルダーはこの芸術家の人生で少なからぬ地位を占める存在だった。ドイツがチェコスロバキアからスデーデン地方を獲得し、開戦まで秒読みとなった1938年、マリアンヌはナチスの指示でザクセン州東部にある精神病患者収容施設に送られて不妊手術を強制された。その後、彼女はさらに精神病院へと移送され、1945年には計画的に餓死させられた。この叔母の死から12年後の1957年、リヒターは彼の人生におけるもうひとりのマリアンヌと結婚する。彼女は彼が通うドレスデンの大学でファッションを専攻し、エマというあだ名であった。彼が1966年に発表した作品『エマ(階段を降りる裸婦)』は、このリヒター夫人マリアンヌをモデルにしており、彼女が妊娠を夫に伝えた際に撮られた写真を元にして描かれたものだという。リヒターの作品カタログに目を通していたドナースマルクは、その作品群の中で最大の大きさをもつこの絵に注意を引かれた。「なぜ彼は彼女が妊娠を告げた際にこの作品を制作したのだろう?まるで或る種の到達点ででもあるかのように?」しかもリヒターが着彩画を描くのはこの作品が初めてだ。そして、その後の彼の絵はカラーチャートをベースにした抽象表現の連作へと移行してゆく。「これには何かがあるに違いない。」ドナースマルクは考えた。「これは彼の人生と連動しているんだ。」

▼『エマ(階段を降りる裸婦)』(1966)

作劇を進めるための大きな糸口を得た監督だったが、この作品解釈を映画に用いることは、危険な越権行為でもあった。創作された脚本のうち、「多くの事柄はエマに関することだった。彼女はまだ存命で、プライバシーをもつ権利がある。」との発言は、ドナースマルクが危険の所在を正しく認識していたことを窺わせる。リヒターの最初の妻であったエマは、現在デュッセルドルフで古着屋を経営しており、映画の件についてリヒターと話したことは無い。脚本完成後、このエマを描いた絵に対するドナースマルクの解釈は、リヒター本人によって退けられた。「私は美術史家に解釈を委ねたいと思います。」

 

盗聴

 

しかし、ドナースマルクの記憶によると、当初リヒターは自らの人生に対する監督の解釈をそこまで悪く思っていなかったという。ドナースマルクは、ある日リヒターの家からの帰宅中、携帯にボイスメールを受け取った。それはリヒターが誤って送信してしまったもので、彼が自宅の階段を降りる音と、その日のドナースマルクとのセッションについて妻に語って聞かせている音声が収められていた。(この妻はリヒターの三番目の夫人にあたり、リヒターはドナースマルクを警戒するこの夫人をおして取材に応じている。)これを聞いた際は、あたかも他人の懺悔室を盗聴するかのような気分だったというが、このボイスメールのおかげでドナースマルクはリヒターの生涯に加えた自分の解釈が、この芸術家の心に響いていたことを知ることが出来たという。

 

リヒターが知らなかった義父の過去

 

2005年にリヒターの伝記を執筆した探査ジャーナリズム(investigative journalism)を専門とする記者ユルゲン・シュライバーは、「『ある画家の数奇な運命』に対するリヒターの反応は、私の伝記の時と同じものでした。」と述懐する。「当初、リヒターは「ピカソみたいにお前にもついに伝記ができたな」と友人から言われたことを、電話で嬉しげに語っていました。その後、彼は苦言を持ち出したのですが。」伝記を執筆していた当時、取材の過程でシュライバーは、リヒターがエマと結婚した際に住んだドレスデンの家を訪ねている。家はエマの父ハインリヒ・オイフィンガーのもので、取材を進めていくと、このリヒターの義父オイフィンガーが「極めつけのナチ」であったとのことを、ある女性から伝え聞いた。これに大いに着目したシュライバーは、続けて公文書保管所を訪れ、この義父がヒトラーによる「ユダヤ人問題の最終的解決」[ユダヤ人虐殺]を実行する親衛隊中佐であったことを発見。彼が見つけた文書には、自身がアーリア人種であることを細部に渡って証明した「非の打ち所のない親衛隊員」とあった。オイフィンガーはザクセン州の親衛隊員たちのために配偶者候補を選定する任務に就いていたが、1945年の時点では約1000人の女性に対し強制不妊手術を行ったザクセン州の病院で責任者を務めていた。彼はこの病院での不妊手術のほぼ全てを手掛けており、最年少の犠牲者は11歳の少女だったという。リヒターの叔母が、同じく1945年に辿ることになった運命のように、不妊手術は死に至る行程の最初の一歩であることをオイフィンガーは承知しており、彼の病院で断種を施された女性たちはやがて政府によって殺害されていった。終戦後、親衛隊の高級将校であったオイフィンガーはロシア人の手によって逮捕される。同僚の医師たちが裁判に掛けられ、人道に対する罪で有罪になってゆくなか、収容先のキャンプでロシア人司令官の妻の命を救ったオイフィンガーは、ソ連支配下の東ドイツで眼を見張るキャリアを築き、やがて1957年に西ドイツへと移民。1988年に当地で永眠したオイフィンガーの追悼記事は彼のことを「学識深い人道教育」の象徴としている。取材を行ったシュライバーがこの事実を公表するまで、オイフィンガーが責任者を務めた旧東ドイツの病院でも彼の肖像画が飾られたままだったという。[6]

▼『蝋燭』(1983、右手。エクスペリメンタル・ロックバンド、ソニック・ユースのアルバムジャケットから)

リヒターは義父が親衛隊員であったことを承知しており、親衛隊の制服を来て鏡の前でポーズを取っている自らの父をエマが目撃した際に、彼女が嫌悪感を抱いたというエピソードをシュライバーに紹介している。しかし、義父の親衛隊としての具体的な過去や、とりわけ強制不妊手術プログラムへの関与について知った際のリヒターは、非常に驚き、興奮していたという。シュライバーはさらに、リヒターの叔母を死に追いやったのが奇しくもリヒターの出生を手掛けた産婦人科医だったことも突き止めている。

 

「度を越した」取材者

 

1961年にリヒターが西ドイツへ逃れた際、彼の荷物の中には家族写真を収めたアルバムがあった。リヒターの作品『マリアンヌ叔母さん』(1965)はこのアルバムの写真を元に描かれたものだ。彼はさらに義父を描いた『海辺の家族』(1964)、そして安楽死計画の立案者である親衛隊幹部の絵も作成しており、ドナースマルク監督は映画の中で義父を通して繋がっているように見えるこの三者--義父・叔母・親衛隊幹部--の絵を互いに関連付けて描いている。しかし、リヒターの作品整理を行うアーキビストであり、リヒターから認可を得た伝記『評伝 ゲルハルト・リヒター』の著者でもあるディートマー・エルガーは、先の三者の絵が作られたのは偶然であったと考える。「この三者はとても良く関連付けられているように見えますが、連作として作られたのかどうかは、私には分かりかねます。」先に記した通り、リヒター自身これらの作品を描いた当時は、まだ自らの義父が強制不妊手術を行っていたという事実を知らなかった。

▼『マリアンヌ叔母さん』(1965)

▼『海辺の家族』(1964)

▼『ハイデ氏』(1965。障害者に対する安楽死政策の責任者で精神科医のヴェルナー・ハイデ。逮捕時の写真を元にしている。裁判開始前に刑務所にて縊死)

エルガーによれば、シュライバーの伝記は「リヒターの物語を度を越した犯罪モノの「お話」に仕立て上げて」しまったのだという。シュライバーは「何から何までを一緒くたに関連付け過ぎたのです。例えば「この人はこの地区に住んでいた一方で、彼はというと――ビックリ仰天!――そのたった5ブロック先のここに住んでいたんです。家の号数まで同じ!」という風にね。」シュライバーは物事の裏にある秘密を尊重し、大切にするリヒターの姿勢に明らかに気付いていなかった。しかし、取材当時のリヒターはシュライバーと緊密に協力しており非公開の写真を見せたり、家族のプライベートな逸話などを語って聞かせていたと、エルガーは言う。もっとも、これは「伝記が出版された後、リヒターが不満を感じ」るようになる前の話だった。

 

厚かましい人々

 

ドナースマルクは言う。「ドイツ語には〈übergriffig〉という単語があるが、この言葉は「自分とは無関係の領域を侵害する」という意味をもっている。ある種の人間は他人の領域というものを尊重せずに土足であがり込んで来るんだ。彼らは「自分と他人」の違いを認識せず、あなたの心に遠慮なく侵入してくる。」ここで彼は少し間を置くと、「シュライバーは少々やり過ぎたと思うね。」とこぼした。だが、リヒター自身も「作品制作にかけては、他人との境界を無視してプライベートに踏み込んだり、大いに不躾なところがある」と、彼は批判する。殺人被害者たちに自殺者たち、そしてケネディ大統領の葬儀で涙するジャクリーン・ケネディ夫人といった人々の切り抜き写真を、リヒターは自らの絵の題材として利用しており、程度の差こそあれ、その創作において完全に潔癖とは言い切れない節があるのは確かだ。ともあれ、そんなリヒターがドナースマルクに向けた怒りもまた、「他人の領域を尊重しない」シュライバーに対する怒りを完全に踏襲している。

 

リヒターが監督へ向ける怒りの真意

 

先に記載したとおり、怒りの書面をしたためたリヒターだが、同記者からの再度のメールを受け取ると、彼はその重い口を開き、自身の見解をより詳しく説明している。

 

どこから話を始めましょうか…、ドナースマルクの1・2回目の訪問の直後、「ゲルハルト・リヒターに関する映画」には同意しないと明白に彼へ伝えたのです。主人公の職業も文筆家か音楽家といった別のものにするよう提案しました。彼が作ろうとしていた家族の物語は、特に主人公が画家である必要はありませんからね。これに対しドナースマルクは明言を避けたので、いかなる形であれ、私の名前と絵を使用することは許さないという旨を書面で彼に渡したところ、彼も私の意思を尊重すると保証したのです。

しかし、実際のところ、彼は私の名前を映画に結びつけるあらゆることをやってのけ、メディアも全力で彼を補助しました。幸いなことに、こちら[ドイツ]の最も有力な新聞は、ドナースマルクが捏造したプロットに懐疑的な評を掲載しました。ともかく、彼は私の生涯を乱用し、グロテスクに歪めたのです!この件について、これ以上はお話したくありません。

 

「シュライバーによる伝記に引き続いて、リヒターは2度目の同じ過ちを犯してしまいました。」とエルガーは本件を総括する。「リヒターはこの種の事柄[伝記制作]が好きなのかもしれません。それにドナースマルクも他人に取り入る術を心得ていました。彼は他の映画業界人と同じく、非常に賢く、紳士的でした。彼らは他人に出資させるための技術をもっているものです。「アカデミー賞受賞者のわたくしドナースマルクとお話をしませんか?」彼がこう書いてよこしたところ、リヒターはこの映画監督に電話を入れたのです。リヒターがなぜこのようなことをしたのかはわかりませんが、ドナースマルクはチャーミングな人物で、リヒターは監督のこの愛嬌に裏切られたのだと感じました。」

 

しかし、ドナースマルクは当然これと異なる見解をもっている。彼によれば、リヒターは自分の心に踏み込まれるのを嫌った一方で、自分自身を分析されることに抗し難い魅力を感じていたとし、リヒターが取材に応じた理由もこの点にあると考えている。「[芸術家が]自分の作品を解釈することは不可能だ。リヒターにしてもそれは同じで、彼がシュライバーや私を必要としたのもこのせいなんだ。ある意味、私は彼の精神分析医で、彼は自分の担当医に対してすぐに激怒する患者のようなものだ。彼が我々に対して髪を逆立てて怒り狂ったのは、ある種、我々が彼の中にある何かを正確に射抜いていたことを示しているんだ。彼はこの手の分析に病みつきになってるんだよ。」

 

反省するドナースマルク

 

ドナースマルクにとって、映画を撮り終えた時点で明らかになったリヒターの怒りは、まさに晴天の霹靂であり、大いに彼を狼狽させた。監督によると、彼は予めリヒターに脚本を読んで聞かせており、さらにはリヒターの方も自ら映画のために絵を制作する提案までしていたが、スケジュールの遅延と数百万ドルの値が付く彼の作品にかかる保険料を考慮した上でこれを却下したという。その代わり、彼はリヒターの元アシスタントを雇って劇中に用いた絵を描かせている。(リヒターは絵の提案をした事実は無いとしている。)それに「リヒターが合意事項に基づいて、公には沈黙を守ると考えていたんだ。」と、ドナースマルクは振り返る。「彼が映画を見なかったのは残念だよ。だが、その気持ちは理解できなこともない。もし私の人生が誰かの手によって歪めて利用されたら、すごく耐え難いだろう。なぜなら、それは私の人生の辛い時期に関するものだからかもしれないし、あるいは正確さにおいて問題のあるものだからかもしれない。」しかし、ドナースマルクは、彼の映画の目標をリヒターを貶めることにではなく、賞賛することに置いていたと強調する。「もし私の映画が彼をヒーローとして描かなかったなら、私は倫理的な不安を感じていたはずだよ。」「劇中のリヒターはヒーローとして描かれていたはずだ。そう思わないかい?」

 

最後になるが、映画の取材のなかで楽しんでいたとリヒター本人が認めた事柄がひとつだけある。それはドナースマルクの機知に富んだ鋭い質問の仕方だった。これに深く感銘を受けたリヒターはこう賛嘆している。「あれはまるで精神分析医のようでした。」

 

▼出演者たちとドナースマルク(右から3人目)

 

 

(本文は次の記事から筆者が抜粋・再編・翻訳したものである。https://www.newyorker.com/magazine/2019/01/21/an-artists-life-refracted-in-film)

[1]https://www.theguardian.com/artanddesign/2011/sep/22/gerhard-richter-tate-retrospective-panorama

[2]https://www.theartstory.org/movement/capitalist-realism/

[3]https://www.gerhard-richter.com/en/biography/19611964-the-dusseldorf-academy-years-4

[4]https://en.wikipedia.org/wiki/Capitalist_realism

[5]https://www.latimes.com/entertainment/arts/culture/la-et-cm-gerhard-richter-painting-sothebys-20150211-story.html

[6]https://de.wikipedia.org/wiki/Heinrich_Eufinger

 
 
 

林 峻

東京都出身。普段は企業で働いています。海外映画作品の基本情報に、自分が面白いと思える+アルファを加えた記事を心がけています。映画関連トピックの効率良い収集方法を思案中。


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