dogme2 1995年、映画誕生100年を祝うカンファレンスを主催したラース・フォン・トリアーは、その壇上で突然トマス・ヴィンターベアと共作したマニフェスト(#1)、そして「純潔の誓い」(#2)を読み上げ、ドグマ95(Dogme95)の結成を宣言した。そして集まった映画界のエリートたちにそれらが記載された真っ赤なパンフレットを手渡し、驚く彼らを残して颯爽と会場を後にした。

 ドグマ95は、10カ条からなる「純潔の誓い」によって規定される映画作家たちのアバンギャルド運動である。既に『エレメント・オブ・クライム』や『ヨーロッパ』で世界的に知られつつあったトリアーを中心に、ヴィンターベア、クリスチャン・レヴリング、ソーレン・クラーク=ヤコブセンら4人によって結成された「ドグマ友愛会」(Dogme Brotherhood)を中心に、若きアーティストたちの虚勢や自己PRを含む「怒れる若者たち」風の派手な振る舞いでその伝説を築き上げていった。

 当時、こうしたマスコミ向けの目立つパフォーマンスによって注目もされ批判も受けたドグマ95だが、その結成から20年経った2015年の現在、彼らが映画界にもたらした功績の大きさが次第に広く認知されるようになってきた。何より、その運動は4つの大陸へと拡がり、ヴィンターベアの『セレブレーション』やトリアーの『イディオッツ』、ハーモニー・コリン『ジュリアン』、ロネ・シェルフィグ『幸せになるためのイタリア語講座』、スザンネ・ビア『しあわせな孤独』など数多くの傑作と、後に国際的に知られるようになる著名な映画作家たちを生みだしたのだ。因みに、アジアからは韓国映画の『インタビュー』(Daniel H. Byun)が唯一のエントリーである。日本からの参加はなかった。

 ドグマ95の公式サイトは2008年に閉鎖され、運動にはピリオドが打たれた。しかし、その年にはドグマ友愛会の4人が映画界に対する功績を称えられヨーロッパ映画賞を受賞している。そして、20周年となる今年、ニューヨークのミュージアム・オブ・アーツ・アンド・デザインで開催される「The Director Must Not Be Credited: 20 Years of Dogme 95」(#3)など、彼らの業績を振り返るイベントも幾つか企画されている。しかし、それ以前に日本では、ドグマ95が意図していた本来の目的が正当に理解されたことは一度も無かったかも知れない。

 ドグマ95による「純潔の誓い」の本質とは、過度な特殊効果やテクノロジーへの依存を拒否し、物語や役者の演技、そして主題といった映画本来の伝統的価値へと立ち返ることにあった。それはハリウッド映画の空疎なスペクタクルと、自己満足へと堕していたアバンギャルド映画の双方に対するアンチテーゼであった。こうした目的へと奉仕するため、ドグマ95は撮影と音響の両面における特殊効果を禁止し、ジャンル映画を禁止し、監督の名前を映画にクレジットすることを禁止した。

 しかし、日本では当時、彼らの意図がリアリズムという狭い観点からのみ認識され、批判された程度であった。だが、これは完全な誤解である。また、彼らのアンチ・エリーティズムが日本からはエリーティズムとして認識されたことも、逆にこの国固有の問題点を浮き彫りにしているように思われる。すなわち、そこには西欧的エリーティズムを批判することで強化される日本的サブカル・エリーティズムが存在しているのだ。

 ともあれ、ドグマ95によるテクノロジー依存の拒否とスペクタクルの拒否は、逆説的に、新しいテクノロジーの大胆な導入を可能にした。デジタルテクノロジーだ。映画製作におけるフィルムとデジタルの関係を丹念に解説した『サイド・バイ・サイド』は日本でも公開され(#4)大きな話題を呼んだが、この作品で触れられていたように、はじめてデジタルカメラを大がかりに商業映画へと導入し独自の美学を作り上げたのは、『セレブレーション』などで撮影監督を務めたアンソニー・ドッド・マントルであったのだ。

lars-von-trier_1 こうしたデジタル技術の大胆な導入に見られる低予算指向とDIYスピリッツは、インディペンデント映画の重要な柱の一つとして、現在も世界的に大きな影響力を誇っている。それはまた、洗練された技術や教養やアティテュードの集積によるロックンロール的ボーイズ・クラブ・エリーティズム(日本的サブカル・エリーティズムもこの亜種だろう)に対するアンチテーゼとして評価されることも多い。排他的な男性共同体のマッチョイズムを拒否するパンク・スピリッツがそこからは指摘されるのだ。

 実際、ドグマ95は、「友愛会」という典型的マッチョイズムの見せかけとは真逆に、数多くの女性監督を世に送り出したことでも知られている。ドグマ95の母国であるデンマークでは、公式に認可された10本の作品のうち、4本までが女性監督の手によるものだ。また、後に『未来を生きる君たちへ』でアカデミー外国語映画賞を受賞したスザンネ・ビアや『17歳の肖像』を撮ったロネ・シェルフィグなどが参加したことも特筆されるだろう。20世紀の他の代表的アバンギャルド映画運動が、例えばヌーヴェル・ヴァーグのアニエス・ヴァルダやチェコ・ニューウェーブのヴェラ・ヒティロヴァなど、それぞれ唯一の代表的女性作家しか持たなかったこととは対照的である。こうした背景には、一つには先述したパンク・スピリッツ(ロックンロールやサブカルに見られる男性共同体のエリーティズムに対する拒否)、そしてジャンル映画の拒否(ロマンティック・コメディの主題を扱いつつ、そのジャンル的制約に縛られる必要がない)などが大きな役割を果たしたと指摘されている。(#5)

 いずれにせよ、ドグマ95が実現した自由で反逆的な気風やDIYスピリッツ、女性監督の参入は、現在でも映画界において大きな課題の一つであり、とりわけ日本ではそうである。彼らの結成20年をきっかけに、こうした映画の根本的問題にもう一度立ち返り、思索を深めてみるのも大切なことではないだろうか。

#1
http://www.dogme95.dk/dogma-95/
#2
http://www.dogme95.dk/the-vow-of-chastity/
#3
http://www.madmuseum.org/series/director-must-not-be-credited-20-years-dogme-95
#4
http://www.uplink.co.jp/sidebyside/
#5
http://thedissolve.com/features/exposition/999-what-dogme-95-did-for-women-directors/

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他)
Twitter:https://twitter.com/one_quus_one
Facebook:https://www.facebook.com/s.ohdera
blog:http://blog.ecri.biz/
新文芸坐シネマテーク
http://indietokyo.com/?page_id=14


1 Comment

コメントを残す