2019年1月26日に、ミシェル・ルグランが86歳でこの世を去った。米アカデミー賞へのノミネート数は13回、グラミー賞へのノミネート数は17回。そして、米アカデミー賞を3回受賞し、グラミー賞には5回輝いた。彼は、愛をテーマとした数々の音楽を作曲した。1968年の『華麗なる賭け』からの“The Windmills of Your Mind”(米アカデミー賞の歌曲賞を受賞)、 1971年の『おもいでの夏』からのテーマ曲の“The Summer Knows”(米アカデミー賞の作曲賞を受賞)、1969年の『ハッピー・エンディング』からの“What Are You Doing the Rest of Your Life?”(米アカデミー賞にノミネート)は、よく知られている。すべてアラン&マリリン・バーグマンによって作詞された[#1]。

ミシェル・ルグランのスタンダード曲には、1964年の『シェルブールの雨傘』から “I Will Wait for You”と “Watch What Happens”が含まれる。その映画は、脚本家で監督のジャック・ドゥミによる薄幸な愛の物語である。さらに、1967年のドゥミ監督による『ロシュフォールの恋人たち』の音楽を作曲した。『シェルブールの雨傘』と同じく、カトリーヌ・ドヌーヴが主演し、ダイアローグと歌曲が挿入されている。ルグランは、以下のように振り返った[#2]。

「フランソワ・レシャンバックの映画America as Seen by a Frenchmanへの作曲をちょうど終えたところでした。ドゥミはそのスコアを気に入ったので、私たちは出会いました。彼は自分の初めての映画に音楽を作曲して欲しかったのです。『ローラ』(1960年)という映画です。それから、私は『ローラ』の音楽を作曲し、互いに友人となりました。知り合い、称え合い、愛し合いました。晩年まで友人であり続けました。」[#3]

ジャック・ドゥミ監督は、1990年に亡くなった。彼はアニエス・ヴァルダと結婚したが、ミシェル・ルグランは彼女とも広く仕事を行った。1962年のヴァルダ監督による『5時から7時までのクレオ』で、ルグランはピアニストとしてスクリーン上にも登場した[#4]。

2018年に、86歳になったミシェル・ルグランは、自分の仕事歴を5つの時期に分けられるのだと話した。1つ目は、1950年代において、彼が有名な歌手の編曲家であった時期である。モーリス・シュヴァリエ、ジャック・ブレルがそこに含まれる。2つ目は、1960年代において、彼がジャン=リュック・ゴダール、ジャック・ドゥミ、アニエス・ヴァルダというフランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」(「新しい波」)の監督たちによる映画の音楽を作曲していた時期である。3つ目は、アメリカへと移り、多くのハリウッド映画の音楽を手掛けた時期である。1971年のジョセフ・ロージー監督による『恋』、1973年のオーソン・ウェルズ監督による『オーソン・ウェルズのフェイク』、1971年のリー・H・カッツィン監督による『栄光のル・マン』、1994年のロバート・アルトマン監督による『プレタポルテ』の音楽を作曲した。さらに、同時期に、仕事のためにヨーロッパへと戻り、アンジェイ・ワイダ監督、クロード・ルルーシュ監督の作品に携わった。4つ目は、数年間、ミュージカルの音楽に集中していた時期である。そして、最後となる5つ目の時期について彼は、「私が80歳になったときに、自分の仕事の最後の時期は、クラシカルになると思いました。だから、自分自身を記録するピアノ協奏曲、チェロ協奏曲、ハープ協奏曲、ソナタを書きました。大規模なバレエ曲も書きました。そのことをとても誇らしく思います。最後の時期に相応しいからです」と結論づけた[#5]。
最後の時期は、コンサートの時期でもあった。自身のサウンドトラックからオーケストラアレンジの音楽を指揮した。さらに、ピアノを演奏し、様々な作詞家と共に仕事をして作り上げた歌曲を歌った[#6]。

「フランス国立高等音楽院を卒業したとき、20歳で何でもできると思いました。シンフォニーを書くこともできました。クラシックのピアニストの巨匠になることもできました。ですが、それを達成するためには、1日に12時間も打ち込まなければなりませんでした。私はジャズピアニストになることもできました。私はジャズピアニストが大好きでした。自由で、即興の方法を知っていたからです。歌手になることもできました。指揮者になることもできました。だから、人生における自分の夢とは、それらすべてを達成することであると述べたのです。」[#7]

そのミシェル・ルグランの夢の中心には、メロディはすべてに勝るという信念があった。彼は、3歳のときに始まった教育を思い返しながら、「昔からそうなのです」と述べる。彼は作曲家であった父、指揮者の娘で育児を委ねられた母と共に暮らした。「直感的に、くだらないことを学ぶのに時間を無駄にしたくないと思いました。だから、母親に『学校には絶対に行かないよ』と言いました。床の上で叫んで奮闘しました。そして、一度も学校へは行きませんでした。母は仕事へ行かなければなりませんでしたので、そこにはいませんでいた。姉は学校にいました。私はパリの小さなアパートにひとりでした。だから、ラジオを聴きました。これは、1935年から36年のこと…シャルル・トレネやMireille(Hartuch)のような人たちは、とても面白い音楽を書いていました。父が持っていることを忘れて手入れがされていないピアノで、メロディを見つけ出し、それからハーモニーを見つけて、歌を再構築しました。」[#8]

「私は独学で音楽を書きました。その結果、5歳か6歳のときにはかなり上達していました。最終的に母は、私がピアノだけに興味を示していることを知りました。占領の真っ只中の1942年に、フランス国立高等音楽院に行きました。音楽の扉を開けるために、初めて校舎を訪れました。私は10歳で、『これが自分の世界だ』と言いました。先生の中には、名高きナディア・ブーランジェがいました。後にアストル・ピアソラ、フィリップ・グラスも彼女の生徒となりました。私は、彼女をとても嫌いになることがありました。彼女はとても厳しかったからです。ですが、彼女はずば抜けていました。彼女のおかげで今の自分があります。」[#9]

1948年に、友人がサル・プレイエルでディジー・ガレスピーの革命的ビッグ・バンドを観覧するためのチケットをミシェル・ルグランに渡したときに、もうひとつの扉が開かれた。それは、フランスのジャズ界の伝説的コンサートになった。「新たなスタイルを聴いたのは初めてでした。その後、ジャズは常に自分と共にありました。スタン・ケントン、カウント・ベイシー、エロル・ガーナーを聴きました。それから、マイルス(・デイヴィス)を聴きました。私は、彼と仕事をする機会を得ました。」[#10]

1954年に、レコード会社で働くひとりの友人がミシェル・ルグランに、アメリカのパートナーのコロムビア・レコードがパリをテーマとしたイージーリスニングのオーケストラ・アルバムを作りたがっていると伝えた。有名なアメリカの編曲者たちは、誰も興味を示してはいなかった。200ドルしか支払われず、印税もないと言われたにもかかわらず、22歳であったルグランは、その機会に飛びついた。I Love Parisと名づけられたアルバムは、チャートの首位となり、何百万枚も売り上げた。1958年に、彼がモーリス・シュヴァリエの音楽監督としてアメリカを訪れたとき、コロムビアは、デイヴィスを含む、アメリカのジャズ・ミュージシャンのトップを飾るジャズ・スタンダーズのアレンジアルバムに支払う形式的な補償金のオファーをしてきた。『ルグラン・ジャズ』がリリースされたとき、ルグランへの信頼が確立された。[#11]

ミシェル・ルグランとマイルス・デイヴィスは友人になった。デイヴィスがこの世を去る少し前に、再び仕事を共にした。1991年のロルフ・デ・ヒーア監督による『ディンゴ』である。「マイルスは私を呼び出して、『ミシェル、来週にロサンゼルスに来てくれ。映画を一緒にやるんだ。君が一緒という条件でそれに同意したんだ』と言いました。私はすべての自分の仕事を押し退けました。マリブにある彼の家に行きました。私たちはたくさん話して、たくさん飲み、たくさん食べました。金曜日がやって来て、月曜日にセッションが始まる予定でした。私たちはまだ何も書いていませんでした。『俺たちはやるべきではない』とマイルスが言いました。私は返答しました。『マイルス、それは良くないよ。若い人は君を頼っているから。大丈夫、僕にアイデアがあるよ。僕はホテルに行って、4日、4晩ですべてを作曲するよ。水曜日にオーケストラをレコーディングして、君は土曜日に来てくれ』と。マイルスは、『ミシェル、君を天才だと思っているよ』と言いました。正気の沙汰ではありませんでした。これが冒険なのです!私は冒険が大好きです。」[#12]

1966年に、ミシェル・ルグランはハリウッドに移った。そこで、クインシー・ジョーンズやヘンリー・マンシーニが、彼をアラン&マリリン・バーグマンに紹介した。ルグランにとって、多くのコラボレーションの始まりは、1968年の『華麗なる賭け』であった[#13]。
『華麗なる賭け』におけるスティーヴ・マックィーンとフェイ・ダナウェイによる緊迫した約7分30秒のチェス・ゲームについて、ルグランは、ノーマン・ジュイソン監督がソロのハープで始まり、ビッグ・バンドのジャズのワルツで終わる音楽を合わせるために、シーンをカット編集したと述べた[#14]。

「私が行ったことを観客に伝えるために、起こったことを説明したいのです。自分が音楽を作曲するすべての映画は、オリジナルになるように心がけます。聴いたことがない音楽にするためです。私が音楽を書くと、私の音楽は話します。何も言わないのは音楽ではありません。ほとんどの作曲家のようではなく、何も起こらないタペストリーではないのです。私は、人生において、自分の仕事において、冒険者であり続けているのだと思います。」[#15]

2018年にNETFLIXで公開されたオーソン・ウェルズ監督の『風の向こうへ』の音楽もまた、ミシェル・ルグランが担当した。映画が撮られてから約40年、ウェルズ監督がこの世を去ってから30年以上の時を経て完成に至り、公開された。1973年に、ルグランは『オーソン・ウェルズのフェイク』でウェルズ監督と組んでいるが、コラボレーションの2作目がこのような形になるのは、前例のないことである[#16]。

「オーソンが大好きです。ほぼ1年間を通して、『オーソン・ウェルズのフェイク』で彼と共に仕事をしました。それから、彼は次の作品に取り掛かると言いました。40年間、その映画については聞いていませんでした。私は絶えず、自分自身に問いかけました。『どのようにオーソンは反応をするか?』まさに自分を感動させるテーマ、つまり、時間の経過、インスピレーションの刷新です。これら2つのウェルズの映画をリンクさせることを誇りに思います。架空のものを通して、オーソンから贈られたギフトであると考えています。」[#17]

参考URL:

[#1][#2][#3][#4][#13][#15]https://www.nytimes.com/2019/01/26/obituaries/michel-legrand-dead.html

[#5][#6][#7][#8][#9][#10][#11][#12][#14]https://www.theguardian.com/music/2018/sep/04/michel-legrand-interview-film-soundtrack-legend-composer

[#16][#17]https://variety.com/2018/music/news/composer-michel-legrand-sent-himself-back-to-70s-to-work-with-orson-welles-on-wind-1203016817/

https://variety.com/2019/film/news/michel-legrand-dies-dead-oscar-winning-composer-1203119247/

https://www.ascap.com/news-events/articles/2018/12/michel-legrand-orson-welles

宍戸明彦
World News部門担当。IndieKyoto暫定支部長。
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士課程(前期課程)。現在、京都から映画を広げるべく、IndieKyoto暫定支部長として活動中。日々、映画音楽を聴きつつ、作品へ思いを寄せる。


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