前作『ゼロ・グラビティ』でアカデミー監督賞を受賞したアルフォンソ・キュアロンは、5年ぶりとなる最新作『ROMA/ローマ』を完成させた(#01)。既に世界中の映画批評家から絶賛されているこの作品は、2018年8月30日に第75回ヴェネツィア国際映画祭でワールドプレミア上映され、金獅子賞を獲得している(#02)。日本では、第31回東京国際映画祭の特別招待作品枠で上映されるが、これ以外に日本の映画館では上映されない方針であることが配給元のNetflixによって表明された(#03)。東京国際映画祭以外では、彼らを通じてストリーミング配信されるのみだとのことだ。

 1961年にメキシコシティで生まれたキュアロンは、現在56歳になる。はじめ、メキシコのテレビと映画業界でブーム・オペレーターや撮影監督など、数多くの現場を経験した彼は、映画監督に進出するチャンスが殆ど与えられない「失われた世代」を目の当たりにしつつ、家族のため「ブルーワーカー映画人」として鬱屈した日々を送っていたとのことだ(#04)。だが、30歳の時に撮った監督デビュー作『最も危険な愛し方』でシドニー・ポラックから評価されたキュアロンは、彼に招かれたハリウッドで『リトル・プリンセス』と『大いなる遺産』という2本の監督作を発表する。そして、メキシコに戻って撮った『天国の口、終わりの楽園。』で再び評価された彼は、『トゥモロー・ワールド』や『ゼロ・グラビティ』などの大作で、作家性と娯楽性を兼ね備えた現代を代表するフィルムメイカーの一人として世界的に注目されるようになった。

 ところが、こうした大作とは打って変わって、『ROMA/ローマ』はキュアロン自身の記憶に基づいたきわめてパーソナルな作品になっているとのことだ。1970年代はじめのメキシコシティ、ローマ地区を舞台に、政治的混乱に翻弄されるある中流家庭の姿を描いたこの作品は、彼を育ててくれた女性に対する個人的ラブレターでもあると彼は述べている(#05)。

「この映画で描かれる90%の場面は、私の記憶に基づいています。全てが映画と同じ順番ではありませんが、およそ3年間に起きた出来事を10ヶ月の物語にして語っているのです。これらは、現実に存在する主人公クレオの身に実際に起きたことでした。そして同時に、そこには微妙なフィクション要素も存在しています。と言うのは、登場人物たちにとってばかりではなく、もっと大きな主題に結びつく側面をこの映画に加えたかったからです。私たちが目指したのは、登場人物とその社会的コンテクストとの間にバランスを打ち立てることでした。この時代の出来事は、疑いなく私自身に一生続く傷を与えました。それは、私自身の個人的な傷であり、この映画に出演してくれた人々の傷でもあります。そして同時に、メキシコという国の集合意識に深く刻み込まれた傷でもあるのです。」

 『ROMA/ローマ』には有名俳優が起用されておらず、主要な登場人物以外は、医者や看護師など実際にその職業に従事する人々によって演じられたとのことだ。さらに、映画の現実的側面を強調する演出の一環として、キュアロンはこの映画の台本をあらかじめ俳優たちに渡さなかったとのことである。

「俳優たちの誰にも台本を渡しませんでした。そして私は、完全な順撮りで撮影を進めました。台本を渡す代わりに、私は俳優たちそれぞれと、彼らが演じる役柄や、それがどんな人間であるかについて話しました。彼らが知ってることについても話しましたが、それを他のキャストには黙っておくように伝えました。何人かの登場人物たちが共有する秘密についても、その人たちだけに話しました。つまり、彼らは自分に関わること以外で物語全体がどのようなものか知らなかったのです。撮影の間、毎日彼らは進行しつつある物語と自分が置かれている状況を少しずつ発見していきました。私たちは自分の身に降りかかる出来事について様々な予測を行いますが、それは時に当たり、時には全く別物になります。あるいは予測に完全に反した結果になることもあるでしょう。予測がつかないことこそが人生であり、そしてこの映画なのです。」

 だが、近年『ゼロ・グラビティ』のようなビッグ・プロジェクトを中心に手がけてきたキュアロンは、なぜこのようにパーソナルな作品を手がけようと考えたのだろう。そもそも『ROMA/ローマ』のアイディア自体は、『トゥモロー・ワールド』が公開された2006年から企画の一つとして心にあったとのことだ(#06)。しかし、『ゼロ・グラビティ』で宇宙へと飛び出したキュアロンは、次作では人類の起源へと一気に遡り、「5万年から10万年前を舞台にした家族映画」あるいは「ダーウィン主義的なアダムとイブの物語」を語るため膨大な人類学的資料をリサーチしていたとのことである(#07)。

 そんな時、メキシコのモレリア国際映画祭でティエリー・フレモー(カンヌ国際映画祭総代表)と出会ったキュアロンは、この企画について彼に話した。しかし、物語に魅力を感じなかったフレモーは、『天国の口、終りの楽園。』に連なるような、もっとパーソナルな映画を作るべきだと彼に強く主張したとのことである。その日から、キュアロンは、ハリウッドで培った映画作りの技術を使って、生まれ故郷のメキシコに戻り、再びパーソナルな作品を作る企画を検討し始めた。

 メキシコを舞台に、スペイン語を話す無名の俳優たちで作られたパーソナルな作品『ROMA/ローマ』は、同時にAlexa65で撮られた白黒の65mm作品であり、Dolby Atmosを使用した音響効果も圧倒的であるという。キュアロンらしく巨大スクリーンで鑑賞されることを前提としたスペクタクルな側面を持つ映画として製作された訳だ。物語的側面にとどまらず、こうしたオーディオビジュアル的側面においても、この作品は映画として長年彼が作りたかったものをはじめて完全に達成することができた満足のいくものになったとキュアロンは述べている(#08)。

 だが、大スクリーンで見られることを前提とした映画である『ROMA/ローマ』は、完成直前の段階(今年3月頃とも言われている)になって、映画祭などでエントリー資格を得るための最小限の劇場公開しか行わないことで知られるNetflixが配給権を購入し、彼らを通じて世界配給されることになった。このため、先述したように日本では東京国際映画祭以外でスクリーン上映されることはない。さらにフランスなどの国では全くスクリーン上映されないことともなった。この論争を喚起する決定は、一体どのように下されたのだろう。プロデューサーを務めるデヴィッド・リンドは次のように述べている(#08)。

「留意していただきたいのは、今日の映画マーケットにおける非英語作品の扱いは非常に複雑なものだということです。私たちは、様々な問題を慎重に検討し、この作品が劇場で上映されることを重視すると共に、可能な限り多くの観客に届けるために最良の方法を選択しようとしました。そして世界中でこの作品が上映されるためには、Netflixが私達に示した配給プランが最も説得力があるものだったのです。」

 キュアロンもまた、この作品が無名の俳優たちによってスペイン語で撮られた白黒映画であることによって、そのマーケット的可能性が狭められてしまうことに大いに憂慮したとのことだ(#08)。

「この作品を可能な限り多くの観客に届けたいと思いました。あまりに作品のことを愛しているが故に、この問題が私たちにとってきわめて重要なものとなったのです。商業的な意味ばかりではなく、作品が長く見られるものであって欲しいと願いました。現在までのところ、Netflixはこの作品をとても大事にしてくれていて、わたしは彼らに感謝しています。」

 だが、Netflixオリジナル作品となった『ROMA/ローマ』は、コンペ部門での上映が決まっていたカンヌ国際映画祭から取り下げられることになった。カンヌのコンペ部門にエントリーされるためにはフランスの映画館で上映される必要があり、その作品はまたその後3年間は同国内でストリーミング配信することを禁じられる。これを嫌ったNetflixによる決定だった。これは昨年に引き続いて起きたNetflixとカンヌとの争いの第二ラウンドともなった(#09)。カンヌ総代表であるティエリー・フレモーは、毎月のように膨大に新作が公開されるNetflixのラインナップの中で、年に一本くらいを例外として国際映画祭に出品し劇場公開することを検討できないかとNetflixにオファーしたが、彼らはそれを拒否し、コンペ外で上映される予定だった他の作品も映画祭から引き下げる決定を下したのだ(#10)。

 『ROMA/ローマ』が辿ることになった、こうした運命について、この10月にティエリー・フレモーが同じく代表を務めるリュミエール映画祭を訪れ、マスタークラスを担当したキュアロンは、次のようにコメントしている(#11)。

「フランスの観客がこの作品を映画館で見られないことにわたしは大いに落胆しています。この映画は大スクリーンで見られることを前提に作られました。オーディオビジュアル的に極めて野心的な作品です。現在、映画の世界ではパラダイムシフトが進行していることを私たちは認めなくてはなりません。それは劇場公開とストリーミングプラットフォームとの間で起きていることです。映画の未来はこの間に存在しているのでしょう。」

#01

#02
https://www.labiennale.org/en/cinema/2018
#03
https://www.gifu-np.co.jp/news/zenkoku/CO18101180846153033.html
#04
https://www.vanityfair.com/hollywood/2018/09/alfonso-cuaron-telluride
#05
‘Roma’ Director Alfonso Cuarón On How His Most Personal Film Became His Biggest Career Challenge – Venice Q&A
#06

Roma: Interview with Director Alfonso Cuaron about his New Film, Venice Fest’s Most Critically Acclaimed Feature


#07
https://www.hollywoodreporter.com/news/alfonso-cuaron-roma-netflix-next-project-at-lumiere-festival-1152622
#08

Alfonso Cuarón Talks ‘Roma’: Why the Oscar Winner Partnered With Netflix and Became His Own Cinematographer (Exclusive)


#09

[494]カンヌ論争


#10

Alfonso Cuarón at Cannes 2018: Festival ‘Continuing to Beg’ Netflix to Let ‘Roma’ Premiere


#11
https://www.lapresse.ca/cinema/nouvelles/201810/16/01-5200445-alfonso-cuaron-regrette-la-diffusion-de-roma-uniquement-sur-netflix.php

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、日芸映画学部講師、新文芸坐シネマテーク主催、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

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