4月18日、フランスで『Mes Provinciales(原題)』が公開された。本作は先に行われた今年のベルリン国際映画祭で上映され、話題を呼んでいた。タイトルの« Provinciales »とは、「田舎の、田舎の人」という意味だけでなく、ブレーズ・パスカル著書『Les Provinciales(プロヴァンシアルの手紙)』からとっている。未来へ夢を抱く学生、そして映画に関わる人は必見の甘酸っぱくほろ苦い珠玉の白黒作品。今回はこちらの作品を監督の言葉と共に紹介しよう。
あらすじはこうだ。映画監督を志すエティエンヌ(アンドラニク・マネ)はパリ第8大学にて映画科の授業を受けるため、故郷リヨンに恋人のリュシー(ディアーヌ・ルーセル)と優しく理解のある両親を残し、一人パリに向かう。惜しまれつつも、大志を抱いた青年が後ろを振り返ることはない。大学で出会ったジャン=ノエル(ゴンザーグ・ヴァン・ヴェルベスレス)とマチアス(コレンティン・フィラ)。意気投合したシネフィルの彼らは、共に映画鑑賞をして議論を交わしたり、自らの作品を見せ、批評し合ったりして関係を深めていく。一方で、恋人リュシーとのコミュケーションはおざなりになっていく。個性豊かなルームメイト、ホームパーティ、大学の講義、新たな恋、新たな道筋、とりとめのない議論、アルバイト…。都会の喧騒にもまれながら、次第にパリ色に染まっていくエティエンヌ。また、自己主張の強い能動的な周囲の人間とは裏腹に、どうも受動的で第三者的立ち位置を保持しているエティエンヌ。大志を抱き、満を持して都会に上ってきた青年は、果たしてここで何を見出すのだろうか。
若者のユートピアとは何か。映画は本当に“第七芸術”という名に値するのか。70年代を撮ったユスターシュ、ガレル、ロメールの三位一体型オマージュとして、21世紀の現代を撮れるのだろうか。これらの疑問にジャン=ポール・シヴェラック監督が本作品をもって答えている。そして、彼は2時間半弱の青春物語の中で、作家の名前や文学・映画の実存的考察をこれでもかと陳列させている。夜のパリをノヴァーリスの詩のフレーズを口ずさんで歩いたり、ダリオ・アルジェントとルチオ・フルチを比較してみたり、哲学者ギュスターブ・ティボンの言葉を引用してみたり。パスカルやノヴァーリス、ジェラール・ド・ネルヴァルに無条件に傾倒するロマンチックな若い男たち、そして激しい女たち。70年代のパリやロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』(1977)の若者の姿は、半世紀経たとうとしている現代にも通ずることを証明してみせた。スマートフォンの存在やマクロンのニュースがそれが「現代」であることを示しているものの、モノクロの効果により、68年5月直後の文化的政治的混乱の中に生きた若者の亡霊のように見えざるを得ない。過ぎ去った時代は若い世代の青春の中で絶えず再生されるのだ。
“マルレン・フツイエフ監督の『私は20歳』(1965)がなければ、この映画は生まれていません。3人の若者の友情と人生の始まりを描いたこの映画は、私を大いに惹きつけました。これを観たのが2016年6月、翌7月にはもう脚本を書き始めていました。”
上述のように語るのは監督のジャン=ポール・シヴェラック。現在53歳の彼はフランスの名門映画学校FEMISの出身者。1991年には卒業時に製作した短編『La Vie Selon Luc(原題)』をカンヌ映画祭で発表。2003年にはジャンヌ・バリバール、ビュル・オジェを主役に撮ったアンヌ・ヴィアゼムスキー原作の長編『All the Fine Promises(原題)』がジャン・ヴィゴ賞に選ばれた。その他『Ni d’Ève, ni d’Adam(原題)』(1996)、『Fantômes』(2001)、カンヌ国際映画祭監督週間に出品した『Des Filles En Noir』(2009)など、今回は9本目の長編作品となる。いずれもフランス国内では高い評価を受けてきた。
“生まれ故郷フィルミニーから見るパリはとても遠く、知り合いもいなかったので、まるで東京に行くような大きな冒険でした。しかしFEMISに入ってみると、私のような地方出身者が半数でした。4、5人の仲間とは非常に深い関係になりました。シネマテークでの出会い、また、これまで読んできた批評家や敬愛するシネアストたちとの意見交換。これまで夢見てきた「映画の世界」が一気に現実のものとなりました。“
監督自身、リヨンの大学で哲学を学んだのち、映画の道を志し単身パリに出てきた身だ。エティエンヌは監督自身を投影した人物であることが容易に想像できる。哲学を学んだ博識な彼は、2000年から約10年間、FEMISの教壇に立っていた。そしてしばしば「若さ」と「死」について語っていたようだ。彼はそれらを映画の中で重要なテーマとして描き出している。また、彼の最初の短編作品を観たエリック・ロメールは、その才能に早くも目を付けていたという。パスカルの哲学について言及するシーンは、まさにロメール『モード家の一夜』(1969)への直接的なオマージュではないだろうか。
本作の中で、エティエンヌの人格を表わす音楽として、作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハの9つの楽曲が使用されている。監督にとってバッハは、たとえ毎日聞いても飽きない唯一の存在とのこと。彼は幼い頃からゴダール、ストローブ=ユイレ、ブレッソン、パゾリーニ、ジャン・ジュネ、エミリー・ディキンソンなどの芸術家の手を借りて自らの芸術性を高めてきた。そして今、彼はバッハを好む。
“あなたが学生の場合、確固たる目標を持つことは正当に必要なことのように思えますが、それらはその他の可能性をつぶすことになります。独断や反発心は捨てて、今まで触れてこなかったその他多くのものを好きになることを学ぶ時期です。例えば妙にセンチメンタルなギヤ・カンチェリの音楽とかね。”
自分が思っているよりはるかに未熟な自らのアイデンティ形成のため、必死に文学、哲学、映画、芸術に救いの手を求める若者たちの姿は、青春を過ぎた大人なら誰でも共感せざるを得ない。そして最後は、 “どうして人は、思いもしない方向に着地してしまうのだろう” という普遍的なテーマを我々に投げかける。
かの68年からちょうど50周年を迎える今年。フランス・ヌーヴェル・ヴァーグの血を確かに受け継ぐジャン=ポール・シヴェラック渾身の作品が、今ここに放たれた。日本の映画ファンにもいち早く観ていただきたい本作、日本公開が心から待ち遠しい。
予告編:
https://www.youtube.com/watch?v=l0jrDsfLNxY
参照:
http://www.allocine.fr/film/fichefilm_gen_cfilm=254188.html
https://www.cinezik.org/critiques/affcritique.php?titre=mes-provinciales
田中めぐみ
World News担当。在学中は演劇に没頭、その後フランスへ。TOHOシネマズで働くも、客室乗務員に転身。雲の上でも接客中も、頭の中は映画のこと。現在は字幕翻訳家を目指し勉強中。永遠のミューズはイザベル・アジャー二。
コメントを残す