現在開催中の第68回ベルリン国際映画祭では例年映画界で問題になっている映画業界における女性監督たちの少なさがまだ目立っている。本映画祭でも全作品のたった21パーセントが女性による作品だった。その中で今回取り上げたいのはイタリア人監督ラウラ・ビスプリ。2015年に同映画祭のコンペティション部門にノミネートされた長編デビュー作品『処女の誓い』は男尊女卑の文化が色濃く残るアルバニアの山間に暮らす女性たちが処女の誓いをたて、男として生きていく姿を描いた作品だ。今年度の映画祭では長編二作目『Daughter of Mine』(原題:Figlia mia)で再びコンペティション部門に戻ってきた。本作は二人の違う女性たちの狭間で揺れる11歳の少女ヴィットリアと二人の母親たちを描き、「母親」としてのアイデンティティを探求していく。自由気ままに生き生後間もなく里子に娘を出した生みの親アンジェリカと厳しく丁寧に今に至るまでヴィットリアを育て上げたティナ。正否を決めることはできない。最後にヴィットリアが下した決断とは…。

現代社会の中で女性として生きることとは、という究極的な問いを映像化し続ける彼女が今作に「母親」というテーマを選んだきっかけ。アルバニアの山からイタリアの孤島サルデーニャという現代なのだが、物理的距離のある地域を舞台にしていく理由は。

「いつも女性についてのストーリーを語りたいと思っていました。それが私の使命であり仕事であると思っています。女性についてのことが政治的な主張であり私のすべてです。映画史の中でも女性たちはずっと脇役でした。彼女たちはおとなしく夫の帰りを待つ妻たちであり、しばしばこのような典型的な方向性で描かれてきました。いま、それを変えていくときがきました。今作が男性陣たちの少なさについて批判を受けたとき、私はそれを良いことだと受け止めています。こうあるべきなのです。」

この物語のテーマはとても普遍的でありながら聖書のある話ととても重なるものがある点について彼女は物語の構成プロセスにおいて聖書や古代の物語の出会いについてこう語っている。
「この作品に取り組み始めた当初は聖書のことなどは考えてもいませんでした。だいぶ前のことですが、前作『処女の誓い』を撮る前に20代の物静かな女の子が自分は違う母親の養子になりたいと思っているということを打ち明けられました。とても興味深い考えだと思いこれについて私の脚本家のフランチェスカ・マニエーリと話し合いました。他にもA. M. HomeのThe Mistress’s Daughterや古代から現代に至るまであらゆる時代の物語や文献をあたりました。作品の制作を続けるうちに聖書にあるソロモンの判決(ソロモン王がどちらの女性が子供の本当の母親かどうかを決める物語)という物語と出会いました。同時にギリシャ神話にも似たような物語があることを知りました。古代の物語の数々との共通点もありながらしかし現代という背景で描きたかった。母親像というのは特にイタリアでは完璧な象徴として昔から、そして今も根強く残っています。いまはそれを疑うときなのです。」

二人の母親であるティナとアンジェリカは共通した母親という立場を持ちながらも社会的なポジションにおいては対照的に描かれた意図についてこう語る。
「物語の始まりはティナであったということを強調したかった。完璧な母親であり完璧な娘。しかしそこにアンジェリカが入ってくることでその「完璧」の定義を揺るがされます。彼女の娘であるヴィットリアは自分が思っていた以上に複雑な心を持つということを理解し始めます。アンジェリカの物語は自分は母親にはなれないという否定から始まります。自分は社会から追放された身であると思っています。しかしヴィットリアとの関わりで自分は愛することもできるし娘から愛されることもできるのだということをわかり始めます。お互いが違うものになるというものではありませんが二人の道が交差する物語でしょう。」
対照性を設定することによってそれぞれのキャラクターに変化のきっかけを与えていく。しかし彼女たちの共通部分が物語の中心に宿ることでスクリーン上に共存できる。心情の細やかな動きを理解した監督ならではの方法だろう。

ロケーションは監督にとってとても重要な立ち位置を持つ。前作の『処女の誓い』でアルバニアではいまだに根強い男尊女卑の文化と男として生きる選択がある社会。今作ではイタリアの西の方にある島サルデーニャが舞台だ。
「サルデーニャには個人的な思入れがあります。子供の頃ここで休暇を過ごしていました。そしてここにまた自分の娘と来たときの旅がずっと私の中に残っていました。この場所が母と娘の関係の礎石のようなものになっていました。作品を撮る際、強い個性のある場所を舞台にするようにしています。ポストカードのイメージが完成してしまうことに極度の恐怖を覚えています。」

「私は脚本に時間を費やします。大体二年くらい。その場所に住んでみようとします。サルデーニャは直感的なものでした。メランコリックな空気と和む空気感が登場人物たちにぴったりだと思いました。住人たちによって守られたとても強い個性を持った土地です。大陸と複雑な関係性を持ちそれが登場人物たちの物語を共鳴しました。この土地でアイデンティティに多くのことを発見しました。いつも脚本を書く間旅に出てその土地をより理解しようと努めます。この土地の風景の壮大さには何度でも驚かされます。母親たちの強さをこの壮大さが象徴しているようでした。彼女たちの間に割り込むのではなく周りをカメラで囲うというミザンセーヌを作り出しました。この土地での自由の感覚をそのまま自分の作品に投影しようとした結果女優たちの繊細で生の感情を引き出すことができました。」

母親としての「良い」「悪い」を問うことから始まった物語は全体的な「母親とは」という問いへと拡大していく模様を娘のヴィットリアを通して描いていく。監督の持つ母親像への問いはどのような意図を持って示されるのか。
「完璧な母親像を崩していくということをしたかった。特にイタリアでは理想化された完璧な母親像があります。現代において母親であることの定義とは?複数の母親を持って育つことは可能なのか?生物学的な母親とのつながりはどれほど重要なのか?主人公のヴィットリアは徐々にそれぞれが自分にとって母親であるということを理解し始めます。」

同時に今作における男性の立ち位置とはどのようなものになっているのかについて彼女はこう答える。
「女性たちが中心である場与えていくのが私にとっての主張です。でも今作でのティナの夫であるウンベルトは作中ではいちばんポジティブなキャラクターです。男性性の重要な部分を体現していると思います。無理な男っぽさを備えないただ自分の妻と娘を愛する良い男性として描かれています。この作品はイデオロギー的なスタンスを取りたくないと思っています。私の作品はいまのところすべて女性としてのアイデンティティについて関連してきました。これは私の個人的な興味でありそして社会へ対する小さな反抗です。もう女性たちが背景に立っている映画に見飽きました。すべてを女性たちで表現していきたいし、これからもその道を歩いていきたいと思っています。」

女性として、母親として、そして何よりも映画監督として。彼女が伝えていきたい女性たちの声が美しく響き渡る今作は母親であり娘でありそして女性である三人がお互いの関係性を通して自分とはということと向き合っていく。女性であることがこの社会でどのように機能していくのかを探求していく監督ラウラ・ビスプリの描く女性たちは繊細で力強くたくさんの面を持ち合わせていて彼女はそれらを巧みに引き出していく。

これからの女性たちがもっと自由なあり方を模索してくききっかけとなるであろう彼女のこれからが楽しみだ。

現在ベルリン国際映画祭コンペティション部門において上映中。

参考
Laura Bispuri • Director
“Cinema is made of women standing in the background”

Laura Bispuri: “Torn between two mothers, looking for an identity”

Figlia Mia (Daughter of Mine) press conference with Laura Bispuri, Valeria Golino and Alba Rohrwacher

mugiho
好きな場所で好きなことを書く。南の果てでシェフ見習いの22歳。日々好奇心を糧に生きています。映画・読むこと書くこと・音楽と共に在り続けること、それは自由のある世界。


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