[World News #152]で訳出した 「Short guide to the Greek weird wave」(#1)(「Mapping Contemporary Cinema」掲載)前編(#2)に引き続いて、その後編を以下に訳します。
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 映画をマッピングすることは疑いなく複雑な作業だ。『アテンバーグ』や『アルプス』はラース・フォン・トリアーの破壊的作品に起源を求めることが出来るだろうし、グズグズした、殆どドキュメンタリーのようなその映画へのアプローチはオーストリアの映画作家ミヒャエル・ハネケを思い出させる。その工場のビルへの探求において、『アテンバーグ』はまた、ミケランジェロ・アントニオーニの『赤い砂漠』(64)を直接参照している。実際、これら全ての作品はエドワード・ローレンソンがアントニオーニ作品について指摘した「都会の風景が持つ感情的な表現可能性に対する感性」を共有しているのだ。『籠の中の乙女』と同じ撮影監督が手がけた『L』(2012)は、ロベール・ブレッソンの作品に見られる非中心化された物語形式を備えている。「グリーク・ウィアード・ウェーブ」という概念に何らかの有効性があるとするならば、これらの作品は、その際だったスタイルと拗くれた物語の双方において、その呼び名に相応しいものだと言って良いだろう。
 ギリシャ同様経済危機とそれに連なる緊縮経済を強いられたアルゼンチンの現代映画に焦点を当てたエッセイにおいて、ロザリンド・ガルトは、それらの映画が新自由主義的な世界観に対する挑戦であると議論している。彼女によると、「意味づけへの抵抗や社会的生産性の一つの歯車になることへの妨害」こそが「彼らの抱く未来像に対する拒否」へと繋がるのだと言う。この点において、彼女はまた「クィアであることが標準的である映画の可能性」も明らかにしている。紋切り型の映画言語を再確認するだけのお馴染みの手法ではなく、奇妙なやり口を取ることで、これらの作品は因習に揺さぶりをかけるのだ。「そこには邪悪さやシュールさがきわめてしばしば存在しているが、しかし、その意味するところは不明瞭である」。こうした意味の欠如は、表面的な単なるスタイルではなく、積極的な政治性を伴っているのだ。
 グリーク・ウィアード・ウェーブをこの国で過去に作られた映画と分け隔てる主要な要素は、その国際映画祭に於けるプレゼンスと成功である。これは確かに、彼らの作品がギリシャ国外でも認知されていることのある程度の指標とはなるが、結局のところ、それ固有の問題がない訳ではない。ロザリンド・ガルトによると、映画が国際映画祭に向けて作られるようになると、「映画の美学はマーケティングに対して下位に置かれることとなり、それは資本家のロジックに対して何の抵抗も出来ないまま迂闊に賛同してしまう結果へと結びつくのだ」。こうした皮肉な見方は、『ミス・バイオレンス』(2013)や『スタンディング・アサイド・ウォッチング』(2013)といった作品の登場によって裏付けられる。前者は『籠の中の乙女』と似た物語を扱い、後者は『アテンバーグ』と比較されている。また両者ともに国際映画祭にエントリーされているが、しかし、それらは共に物語へのアプローチにおいてはるかに因習的な作品に過ぎない。これに加え、現時点でギリシャから送り出される大多数の映画が、さほどの批評的な注目を浴びるに値しないとみなされている点が上げられる。それゆえ、グリーク・ウィアード・ウェーブのその後のサイクルに属する多くの作品が、『籠の中の乙女』が引き起こした波に乗っただけに過ぎず、世界的経済危機の中、その先駆けとなったギリシャに対して注がれたメディアの注目によってウェイトを高められたに過ぎないと結論づけることが出来るだろう。すなわち、グリーク・ウィアード・ウェーブは、既に退潮しつつあるかも知れないのだ。
Written by Oliver Westlake, (2014); Queen Mary, University of London
大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他)
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