「これは私の専門だし、書こうかな」なんて軽い気持ちで始めたら、論文になってしまいました。こうなりそうだと気付いた頃には時すでに遅し、止められず。書いてしまったので、一応載せます。さらっと流し読みしてくださいませ!

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ジャック・ニコルソン、ダニエル・デイ・ルイス、ロバート・デニーロ、フィリップ・シーモア・ホフマン、メリル・ストリープなどなど。他にも名前を出せばキリがないが、彼らは役の中に「姿を消す」俳優達の一部である。映画を観ていると私達は、俳優としての彼らを忘れてしまう。

このように役の中に姿を消すかのような芝居は、過去を遡ると「欲望という名の電車」「理由なき反抗」などにみられるマーロン・ブランドやジェムームズ・ディーンから続いている。彼らの存在なくして、先に挙げた名優達のパフォーマンスは観られなかったかもしれない。いわゆる「メソッド」演技がスクリーンの中でいかに力を発揮するのか、気づく機会がなくなるからだ。

フィルムメイカーIQ製作のビデオを元に、リアリズム演技が確立されるまでの歴史、現在では様々な道筋に分かれている「メソッド」演技の大もとを築いたコンスタンチン・スタニスラフスキーの大まかな考え方を紹介する。

 

古代演劇

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現代欧米のお芝居のスタンダードとなっているリアリズム演技がどのようにして確立されたのか、その歴史を探るために、まずは古代ギリシア時代に遡る。 芝居(演劇)の始まりは起源と言われているからだ。

古代ギリシアでは、文化、神に対する概念を口頭で伝承していた。それぞれの世代で情勢の影響を受け、違った解釈を加えながら伝えられてきた。この神話の伝承が、やがて演劇となる。 シアターの語源であるギリシャ語「theasthai」は「見られる」という意味だ。

この時代、演劇は必要不可欠なものであった。一年に一度のディオニュソス(ギリシア神話に登場する豊穣、葡萄酒、酩酊の神、後に演劇の神にもなる)を祀る催しで、ストーリーの伝承が行われることになる。そこではディテュランポスという、ディオニュソス神を祀る讃歌が歌われていた。

紀元前6世紀になると、この祭りがより正式な形へと変化していく。男性のみ参加が許されるようになり、またディテュランポスは書き残されるようになる。この時期にはThespisという演劇界初のスターが生まれる。

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ギリシア演劇は進化を続け、舞台の後ろにSkeneという建物がついた形の劇場が現れる。このSkeneは、背景の役割を果たしたり、俳優が芝居の最中に着替えをする場所となる。

またこの頃大まかにわけて3ジャンルの話が生まれた。1)サテュロス劇(デュオニューソス神の従者サテュロスのコーラス隊を描いた悲喜劇)、2)喜劇、3)悲劇である。

何千人もの観客の前で行われるようになったことで、演技は大げさなものへと変化していった。声のボリュームが上がり、大きなジェスチャーが使われるようになる。全ての観客に、物語で起きていることが届くようにである。

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古代ローマ帝国がギリシアを占領すると同時に、ギリシア演劇もローマ人好みに娯楽性が加えられ、変容することになる。ギリシアの物語を基に、しかし合唱をダイアローグに置き換え、音楽も取り入れて上映された。

演劇はとても人気のあるエンターテイメントだった。しかしローマ帝国の滅亡と共に、演劇も暗黒の時代へと突入する。教会がアマチュア俳優を使い、信仰を広めるための演劇を上演するだけであった。再び芝居がプロの芸術表現と認知されるのは1000年後のことである。

 

コメディア・デラルテ

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イタリア・ルネッサンスが演劇をプロフェッショナルな一つの芸術形式として見るようになる。コメディア・デラルテと呼ばれる風刺喜劇だ。16世紀、ヴェネツィアのことである。

貴族から平民にいたるまで、あらゆる人間を表現できる演劇表現として、人気を博す。コメディア・デラルテの特徴として、即興芝居を中心とすること、また俳優自身が作家であり演出家でもあるというように、素材を表現する責任を自ら持つことが挙げられる。また、女性が男性と共にステージに上がるようになったことも大きな変化だろう。

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即興を中心とした芝居だった為、カテゴライズされたキャラクターとシチュエーションが決められていた。それらのキャラクターは、大まかに3つに分けられる。

1)ザンニ(Zanni)ー召使

2)ヴィッチ(Vecchi)ー主人や老人

3)インナモラーティ(Innamorati)ー恋人たち。

これらの他に、現代の観客にとって一番親しみやすいのがハーレクイン(Harlequin)ー道化ではないだろうか。

ザンニよりも高ステイタスで、少々悪知恵が働くおどけたトリックスターである。 マスクの文化はコメディア・デラルテにも引き継がれ、低ステイタスのキャラクターから高ステイタスのキャラクターまで、様々な役がマスクで演じられた。

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この演劇様式はヨーロッパに広がり、その土地の文化から影響を受けて変容していった。特にフランスでは道化のキャラクターが気に入られ、進化していった。イギリスのシェイクスピア「夏の夜の夢」などは、コメディア・デラルテの影響を端々に見ることができる。このように演劇に幅広く影響を与え続け、さらにはその幅を映画にまで伸ばす。チャーリー・チャップリンバスター・キートン、またマルクス兄弟主演「我輩はカモである」などがその例だ。

 

スタニスラフスキー登場まで

19世紀後半まで話をとばそう。演劇は特別な人気があった訳ではないが、古代ギリシャ、イタリアのルネッサンス、そしてウィリアム・シェイクスピアなど偉大な文学からの影響と共に、人々に受け入れられていた。しかしこの時代のヨーロッパ、アメリカの芝居は、未だに大げさで誇張されたものだった。必然性からそうなったのではなく、「芝居とはそうでなければいけない」という思い込みからのものであった。

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フランス人音楽家で教師でもあったFrancois Delsarteなどは、全ての感情に対してジェスチャーやポーズなどを図解した本まで出版していた。彼の意図は、動きやジェスチャーを内なる感情と繋げようというものであったが、それらは略式の芝居であった。このような「◯◯の感情の時にはこのポーズ!」というタイプの芝居は、若かりし日のコンスタンチン・スタニスラフスキーを大変退屈させた。

スタニスラフスキー

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1863年、ロシアの裕福な家の息子として生まれる。コンスタンチンというのは親に隠れて俳優をやるためにつけた芸名である。

彼はポーズやジェスチャーなどに興味を示さなかった。その代わり、役を生きようとした。ホームレスやジプシーになりきって公共の場に行き、役のままで居つづける、というような試みをしていた。

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1897年6月27日、ネミロヴィッチ・ダンチェンコとの間に交わされたランチミーティングは翌朝の朝食まで、18時間にも及び、その後の演劇、芝居の歴史に大きな足跡を残すことになる。その時に結成されたのがモスクワ芸術座である。

彼らの目的は、「ナチュラリズム」の演技をメインストリームにすること。観客に向けた大きな芝居ではなく、「内側から湧き出る真実」を求めて何時間も俳優達と話し合い、芝居やストーリーに関する質問を重ねた。ここで生まれたのが「スタニスラフスキーシステム」である。

1909年、システムの第一ドラフトを書き上げる。心理学の発達に伴い、現在では「心理学的な芝居へのアプローチ法」と言われているが、その全ては「俳優をその場、その瞬間に居させる」為の方法論である。

その為には準備として、1)身体、2)声、3)マインド(精神/心)の全てを訓練する必要がある、とスタニスラフスキーは強調する。

次に役柄、そして作品の中で役に課せられた役割をよく研究しなければいけない。この2つができて初めて真実が湧き上がってくるのである。俳優は脚本の中で起きる出来事が本当に自分に起きていると感じ始めるのだ。

初期のころスタニスラフスキーは「エモーショナルメモリー」というやり方を実験していた。シーンの中での出来事と似たような経験を実人生の中から思い出すことことで、本物の感情を呼び覚ますという方法だ。しかし後に彼はこの方法を禁止している。精神的におかしくなる俳優たちが現れたからだ。

その代わり、「感情はアクション(行動すること)から生まれる」ということを発見する。 例えばドアが一つあるだけの締め切った部屋に俳優たちを閉じ込めるとしよう。そして彼らに動機を与える。「1分後に爆発する爆弾が部屋の中にある」と告げるのだ。彼らが爆弾の存在を心から信じることができれば、目的は自然と「部屋からの脱出」となる。しかしドアは開かない。何とかして開けようとする俳優達。すると自然にパニックな感情が生まれるのだ。実際に爆弾と共に閉じ込められた経験など必要ない。

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これはスタニスラフスキーが確立した「システム」のほんの一部を紹介しただけである。しかしこのシステムが完成する前に、モスクワ芸術座とナチュラリズムの芝居スタイルは話題となり、世界へツアーへと旅立ってしまう。1923年にアメリカツアーを開始すると、これがきっかけでスタニスラフスキーの「システム」はアメリカ流の解釈をされ、世に広まることになる。いわゆる「メソッドアクティング」のことである。

アメリカ流「メソッド」

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アメリカツアーが終わると、モスクワ芸術座のメンバーのうち2人が残り、演劇学校を開校する。リー・ストラスバーグ、ハロルド・クラーマン、ステラ・アドラーなどがその最初の生徒である。そこににチェリル・クロフォードが加わり、グループシアターが結成される。1931年のことだ。

グループシアターは俳優、演出家、作家などの集まりで、スタニスラフスキーシステムに基づいた、ナチュラリズムの、高レベルで訓練された芝居を作ることを目的としていた。と同時に、どこまでシステムを掘り下げられるかという意識も常に持ち合わせていた。

ストラスバーグはその中でも「エモーショナルメモリー」の側面に深い興味を示した。しかしそのことでステラ・アドラーとの間に対立が起こる。1934年、ストラスバーグがアドラーを演出した際に、何度も過去の辛い経験を掘り起こすことを要求したのだ。あまりのやり方に耐えきれなくなったアドラーは、夏休みを利用して当時の夫ハロルド・クラーマンと共にパリに旅に出る。すると、何とそこにはツアー公演中のスタニスラフスキーも滞在していたのだ。

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アドラーは彼に面会を求め、彼のシステムを責める。それを聞いたスタニスラフスキーは驚きを隠せなかった。彼は今では初期の「感情の記憶」というやり方は捨てて、その代わりに「想像力」に重きをおいているのだとアドラーに告げる。ある一つのトラウマのような出来事を再体験するのではなく、人生経験すべてを使い、シーンで起こる状況を「想像」するのだ。キーワードは「もしも…だったら…?」 その後数週間に渡りスタニスラフスキーと稽古を積んだアドラーは、その教えをアメリカに持ち帰る。

入れ替わるようにストラスバーグがグループシアターを脱退し、アメリカのリアリズム演技は2つの道に分かれていくことになる。ストラスバーグの「感情の記憶」に重きをおいた方法(この考えを「メソッド演技」と結びつける傾向が強い)と、アドラーの「行動と想像力」に重きをおいた方法である。(アドラーの「自分の人生にしがみつくのはやめなさい。役はそれよりも大きい世界で生きているのだから」という言葉が残っている。)

第二次世界大戦後、これらリアリズムの考え方は広くアメリカに広まる。1947年、エリア・カザン、チェリル・クロフォード、ロバート・ルイスらによって、アクターズスタジオが開設されると、そこはプロの俳優が集まり、様々なことを試したり、自分のスキルを磨いたりできる場所となった。

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メンバーになるためにはトライアウトがあり、招待された者のみが入所を許される。すぐにニューヨークの俳優の間では目指すべき場所と話題になり、スタジオ内でクラスも開催されるようになる。サンフォード・マイズナーエリア・カザンなどが教鞭をとっていたが、カザンがハリウッドに移ると、ストラスバーグが代表を務め、彼の解釈がスタジオに浸透していくことになる。

 

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1951年、エリア・カザン監督、テネシー・ウイリアムズ原作の「欲望という名の電車」でメソッドはその力をスクリーン上に見せつける。観客はマーロン・ブランド演じるスタンリー・コワルスキーを目撃するのだ。どんなに些細なニュアンスも映し出すことができるスクリーンは、リアリズム演技の抜群のパートナーであった。ストラスバーグはブランドの演技指導者として名乗りをあげるが、ブランドはそれを否定し、自身の成功をアドラーのおかげだと述べる。その頃アドラーは独自の演劇学校を開校し、演出もしていた。

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反面、ストラスバーグの教え子としては50年代のスター、ジェームズ・ディーンマリリン・モンローなどが挙げられる。

その後サンフォード・マイズナーがネイバーフッド・プレイハウス、ウタ・ハーゲンがHBスタジオを開設し、それぞれ数々の素晴らしい俳優が育っている。

このようにリアリズム演技の方法論は様々な道に枝分かれしながら広がっていったが、大切なことは、一貫していてる。

役を理解すること、ストーリーを理解すること、ストーリの中で役として生きること、そのための準備法である。そこに行き着く道筋こそが「方法=メソッド」であり、ゴールにたどり着ければどの道を辿っても良いのだ。それぞれの俳優がそれぞれの方法を持ち、その時々、やる役に合った道を辿れば良い。

スタニスラフスキーがこう言い残している。「自分自身のメソッドをみつけてくれ。自分に効果のあるやり方だ。いつまでも僕の方法にしがみつくんじゃない。お願いだ。」

映画を作る際に、我々はどうしても技術的なことに目を向けがちだが、本来人々を劇場へと掻き立てる動機は、古代ギリシア時代から変わっていないのだ。ストーリーを目撃することの必要性である。脚本家が話を作り、監督が視覚化する、シネマトグラファーとレコーディストがそれを捉え、編集者が全てをまとめて磨き上げる。そしてそこに命を吹き込むのが俳優なのだ。

イギリスの演劇学校ではスタニスラフスキーシステムの完成形を元に俳優教育が行われていますが、私たち生徒は繰り返し繰り返し「メソッドから独立しなさい。ゴールはそこにある」と言われ続けていました。

例えば形式的な演出をする監督などはリアリズムとは相容れないように思えるかもしれませんが、そんな時こそ私はこの言葉の意味を実感します。形の演出に従うことで、予想もしなかった何かが内側から湧いてきて、役やシーンについて新しい発見をする瞬間があるのです。まさに役者と俳優の化学反応です。総合芸術と言われる映画ですが、その素晴らしさをカケラだけでも、一番身近に、一番実感として感じられる瞬間です。

みなさんも是非、お気に入りの映画を観る時に、カメラの向こうではどんな演出が行われていたのか、俳優はそのシーンのためにどんな準備をして臨んでいたのか、なんていうことも想像してみてくださいね!

http://blogs.indiewire.com/pressplay/watch-the-history-behind-method-acting-a-video-essay-20150506

 

梶原香乃
World News担当。東京下町生まれ。高校からイギリスに留学、ロンドンのドラマスクールにて芝居を学ぶ。はらわたのある映画女優を目指して日々奮闘中。憧れはマリオン・コティヤールとキャサリン・ハンター、そして高峰秀子さん。国を超えて仕事ができるようになりたいな!なるぞ。


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