ブラジルの新鋭監督クレベール・メンドンサ・フィリオが手がけ、2020年最高の映画のひとつとして高く評価されるSFスリラー映画『バクラウ 地図から消された村』(原題BACRAU)が昨年11月28日からシアターイメージフォーラムにて公開され現在(2021年3月2日)まで異例のロングランヒットとなっています。

近未来ブラジル。北部の小さな村バクラウでは、支配階級のエリートが村への給水を支配すべく、帝国主義勢力の傭兵と共謀し住民の排除を策略立てる。村の住民は土地を、歴史を、生活を守るために闘い始める。

クレベール・メンドンサ・フィリオ監督と共同ライター兼共同監督であるジュリアーノ・ドルネレスが作り上げた本作は、ブラジルの未来を予兆すると同時に、社会的および経済的不平等、残忍な西洋人、不吉な予言を描くことで現実への警告としても機能しています。

今回は、作品で扱われるテーマとジャンルの特異性、その評価について、先月行われた監督のインタビュー記事から紹介します。

この『バクラウ』という作品の正体は一体何なのか。反帝国主義のSF西部劇?アドレナリン全開のアクション?ジョン・カーペンターの初期作品(『ダークスター』1974年)のような、権力や右派ポピュリズムの台頭を批判した、社会的リアリズム娯楽作?

水不足、指名手配書、そして村での葬式から『バクラウ』の物語は幕を開けます。そこからは奇妙な展開の連続です。水運車の弾痕、遮断される電話回線、円盤型ドローン、牧場の殺人、スポーツ感覚で住民を狩るアメリカ人傭兵の一団。『バクラウ』は西欧政治思想から映画の歴史に至るまで、非常に多くのサブジャンル、要素を含んでいます。しかしそれらがノスタルジックな、懐古趣味的な雰囲気を醸し出してはいません。むしろそういった普遍的な要素が、近未来という設定により強固な説得力を与えています。

アンソニー・ホーリー(ブルックリン・レール)

‐ジャンル映画とそれが持つ政治的影響力についてお話していただけませんか?

クレベール・メンドンサ・フィリオ監督

映画の愛好家としてまずはっきりさせておきたいことは、私たちはアメリカ、イギリス、オーストラリア映画、その全てにアクセスができる環境に育ったということです。しかしブラジル映画についていえば、他の映画に比べて「ジャンル」というものから切り離されていました。なぜなら、ブラジル映画の根底には、リアリズムがあったからです。政府が独裁政権であったことからも、ジャンル映画にはブラジル特有の政治的解釈、それらが「アメリカ化」されているという偏見がありました。SFやホラーを観るのはグリンゴ(アメリカ人の蔑称)だとされていました。もちろんこれはあらゆる偏見がそうであるように、視野のせまい愚かなことですが、我々が育ったのはそういう環境でした。また私は、ジョン・ランディス、ジョー・ダンテ、スピルバーグ、ロメロ、デ・パルマなど、アメリカのありとあらゆる種類の映画を見て育ったため、ブラジル人として、ブラジル社会に対して客観的な視点を持ってもいたのです。そしてもしいつの日か映画を作るとしたら、ブラジルから来たとは思えないような、新しい映画を作りたいと思いました。私ならそれができると感じていたのです。私の作品が今後のブラジル映画を変えていくことを願っています。私の初期の短編映画は、ジャンルミックスの奇妙なものでしたから、時間はかかるかもしれません。[2]

映画『バクラウ』は舞台となるブラジル北部の小さな村に、SFからスパゲッティウエスタン、スプラッターまで、あらゆるジャンルをかき集め、化学反応を起こさせた快作です。本作はクレベール・メンドンサ・フィリオ監督と共同製作者のジュリアーノ・ドルネレスが描く「連帯」と「集団的抵抗」の物語であり、作中には彼らが愛してやまないセルジオ・レオーネやジョン・カーペンターに代表される、70年代の映画の影響が垣間見えます。

いわゆる「あらすじ」を説明するのに、これほど難しい作品も少ないですが、本作の要点をひとつ上げるとすればそれは「ブラジル人やラテンアメリカ人、小さなコミュニティの住民を見下し、蔑み、軽蔑することを敢えてするような人々への警告」であると言えます。架空の村であるバクラウの住民が、冷笑的な政治家や人種差別主義者の殺人者を文字通り完膚なきまでに叩き潰したことで、私たちがある種のカタルシスを感じるのもそのためでしょう。

カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した2019年以来、世界中で『バクラウ』が議論の対象となっている理由は、作中にブラジルのジャイール・ボルソナーロ政権、極右、レイシズム、そしてドナルド・トランプへの批判が暗喩として表現されていることが理由のひとつです。また今回、この作品が製作された背景やそのプロセスについて、我々が話している今日この日に、アメリカ第45代大統領がホワイトハウスを去ったというのは何という偶然でしょう。長年にわたり熟考されてきた脚本が、突如現実になってしまった奇妙な感覚があります。『バクラウ』の製作が始まったいくつかの転機について、監督にインタビューしました。

Jessica Oliva Journalist(Cine PREMIERE)

―『バクラウ』のアイデアは、ブラジルと世界の政治情勢が激変した2009年に思いついたそうですが、現在の形までどのように脚本を改稿してきたのですか?

クレベール・メンドンサ・フィリオ監督

今現在も、私は日々脚本を書き続けながら、いつも自問することがあります。それは執筆から撮影、制作に至るまでのすべての行程において、そのアイデアが重要か、どうしても表現されるべきかどうか、ということです。何かに真剣に取り組んでいる内に方向性を見失い、不安になる、ということは多分誰にでも経験があることだと思います。ご指摘の通り、実は『バクラウ』には元々、良い出来の脚本がありました。でもあるとき私はジュリアーノ(脚本・助監督)に言いました。「いい脚本だけど正直これを映画にしたいかどうかわからないよ」と。そのとき彼は少なからずショックを受けたようでしたが、私にはすでに名案、打開策があったのです。我々が進むべき道は他にあると彼に提案しました。それは当時ブラジル、米国、その他の国々で起こっていた事実を取り入れ、物語を少しずつ別の方向へと動かしていく、という案でした。またそれと同時に、物語に散らばっていた要素や出来事を一つひとつ集約させていったのです。初稿の段階で物語りに取り入れたのは異文化や映画に関するものでしたが、あまりにメタになりすぎて、企画を進めることに私は興味を失ってしまいました。その後5、6年は別のアイデアを進展させていましたが、突然トランプ大統領が現れたことで企画の進行が加速しました。彼が大統領に就任したことは大きな衝撃でした。そして今、彼がホワイトハウスから去ったことを話しているのは大変感慨深いことです。彼は笑顔の夫人とヘリコプターに乗り込みました。そういえば大統領は、夫人の笑顔をあまり見ていませんでしたね。トランプ政権の台頭はこのプロジェクトの重要なエネルギー源になりました。私たちは常に世界を直視していなくてはなりません。この『バクラウ』は小さなコミュニティについての話ですが、人類は誰であれ例外なく社会の一部としてつながっているのです。

 

―シナリオライターがこの映画の脚本を書いている間に、あなたは『Neighboring Sounds』と『Aquarius』を監督しました。その間も『バクラウ』の企画は動き続けていました。この二作品は、『バクラウ』に何か創造的な影響を与えましたか?

 

はい、影響を与えたと言えるでしょう。作品は我々が辿ってきた経過や様々な要素が集積し、結実したものですから。本来『バクラウ』は私の二作目になるはずでした。執筆していた『Aquarius』が先に完成してしまったのです。一人で書いていたということもありますが『バクラウ』についていえば、親しい友人であるジュリアーノと意見や議論を交わし、お互いのアイデアを膨らませることが楽しくて完成までにより多くの時間を必要としました。彼ははっきりとものを言う性格で、それに加えアグレッシブなアイデアを沢山出してくれたのでとても有意義な楽しい時間でした。『バクラウ』の前には本も出版しました。私の脚本が3つも掲載されています。これは誓って言いますが、宣伝ではありませんよ(笑)本書の導入部分では、この10年で私のものの見方がどれほど変わってしまったのかについて書かれています。またこの10年で変した、決して前向きとは言えない変化を遂げているブラジルについても言及しています。現代社会を生きる我々の生活は『Neighboring Sounds』のように不透明で曖昧なってきています。『Aquarius』のような貧富の格差も如実になってきています。『Neighboring Sounds』は私たちの社会に実際には悪役なんていのではないか、物事は見かけよりも複雑なのではないか、という考えで描きました。しかし2015年、ブラジルで極右組織が台頭し暴力的な行動が目立ち始めると、私は考えを改め始めました。世の中には他者を破滅させることだけを目的にしている悪者たち、「悪役」がいるのではないかと。『Aquarius』にはこういった悪役としてのキャラクターが登場します。一方で『Neighboring Sounds』にはそのようなキャラクターは登場しません。そして今日、ブラジルでは多くの「悪役」が毎日テレビに出演しています。彼らは映画の悪役のように話し、振る舞います。トランプ大統領の登場や当時ブラジルで起こっていたこと、2016年にジルマ・ルセフが大統領から解任されたときに起こった権力の反乱はまさに『バクラウ』に登場する悪役たちが悪者として明確な立ち位置を持っていることのように明白でした。

―本作の暴力描写をフィクションと受け取る人がいるかもしれませんが、監督は以前、暴力というものの存在について説明していました。ブラジルの人々は何度も命を懸けて領土を守っていますね。

 

その通りです。まず暴力についてですが、暴力の表現、暴力を表現することが許される唯一の場所は、映画館だと思います。私は映画の中で表現される暴力に問題を感じていません。私自身100%暴力から離れた生活を送っています。昔は映画のセットで銃を使うことがありましたが、弾丸は抜いてありました。それに銃はとても重いのです。それがこれまでの私の人生でたった一度の武器を持った経験でした。もし映画で暴力を表現しようとしているのなら、自分が何をしているのかを本当に考え、理解しなければならないということです。映画の中で銃を使うとき、いつも私を悩ませることがあります。それは銃があまりに我々の身近にあり過ぎるという問題です。銃を使うことが、誰かが他人に近づき頬にキスするよりも遥かに自然な行為になってきてしまいました。武器が使用されないアメリカ映画はもはや珍しいぐらいです。作中ウド・キアはバクラウの住民を、娯楽として殺そうとする暗殺者のリーダーを演じています。『バクラウ』では誰かが銃を使うのは「正しい」理由であるという設定にしました。もちろん例外はありますが、この考えの根幹には人類の歴史的背景があります。ポーランドのワルシャワゲットーの虐殺、あるいはベトナム戦争について考えてみてください。共通するのは加害者側が被害者の生活、文化をまったくもって理解していなかったという点です。『バクラウ』ではこの事実を改めて考察しました。映画における暴力が、特別なものではなくなってきた今では見逃されてしまうポイントである「何をしようとしているのか」「なぜこんなことをするのか」「どう反応するのか」に着目したのです。そして、これこそが本作をより興味深いものにしました。「なぜ暴力的な出来事が起こったのか」を自問する行為は社会で失われつつあります。人々は暴力に鈍感になりそれを人生の一部、当然のこととして受け入れてしまうのです。だからこそ本作には印象的なシーンを挿入しました。それは、あるキャラクターが加害者に「なぜ?」と質問するシーンです。とても重要な瞬間です。なぜならこの質問には同情や慈悲の感情が込められているからです。

―本作におけるジャンルの融合については、多くの意見が寄せられていますが観客のひとりとしての私の印象は、物語がとても自由であるということです。脚本の段階から、登場人物や舞台に縛られない物語を意識していたのですか?

 

魅力的な映画の企画に出会うと、私はその中で自分に何ができるか、無数のアイデアや可能性を考えます。ときには実現することもありますが、残念ながらその全てが実現されるわけではありません。時々私は周りを見回し、立ち位置を俯瞰しながら自分に何ができるか、何をすべきかを理解しようと試みるのです。矛盾しているようですが、もし映画製作者でなかったら自分好みの映画だけを作っているでしょう。また私は「自由」という観点から作品作りをすることは決してありません。なぜなら実際、映画は自由にやりたいことが何でもできるからです。言い換えれば、自分が映画に求めていることを自由にやろうとしなければならないのです。それは私たちが映画を見る理由でもあると思います。人が持つそれぞれ異なる意見について、かつて私が映画評論家をしていた時に気づいたことがあります。それは人々が観ているものには多少なりとも隔たりがあるということです。最も顕著なのは、映画館やテレビの有料チャンネル、Netflixのようなサブスクリプションで視聴しているハリウッド映画です。ほとんど全ての人が観ているようで、実際にはそうではありません。これは例えるならダイエットに似ています。毎日ハンバーガーだけを食べているとしたら、ラタトゥイユを食べている人を「それは変だ」とか「醜い、汚い」と言うでしょう。私たちが映画で描いたことの多くに、それがあたかも変なものであるかのように反応した人は大勢いました。しかし私はそれ当然の反応だと思うのです。例えば一部のキャラクターがなぜ裸なのか、またなぜ彼らが年配のキャラクターであるのか、という点です。私はもちろん背景や由来を理解していますが、そうでない、理解できない人も当然いるということです。これはあくまで一例として、ですが。

 

―バクラウは「抵抗」の物語でもあります。ブラジルの映画製作者であるあなたにとって、ラテンアメリカの文脈における「抵抗」の概念には、どのような意味がありますか?

 

抵抗は「No」を意味する、表明する言葉です。そしてそれは『Aquarius』のテーマを成している重要な言葉でもあります。立ち退くこと、建物をとり壊すこと、新たなマンションを建てることに「No」を突き付ける。『Aquarius』は現実そのものです。そして社会や市場、企業は我々が「Yes」、つまり思い通りに服従することを望んでいるのです。現実を見つめて「No」「間違っている」と言うことでレジスタンス、抵抗する者になれます。ちなみにブラジルでは「これは間違っている」と言うだけで、政府から共産主義者として見なされるに十分な理由になります。行動なしには何も変わりません。あなたが問題に意識や注意を向けることで変わることがあるのです。例えばそれが法律に違反する暴力なら、あなたの行為は反政府運動として処罰されるかもしれません。ですがフランス革命のように力や武力でもたらされるものだけが改革ではありません。理不尽な現実が当たり前のようになっている世の中に、どのような形でも抵抗の意思を示すことが正しい行いだと私は思うのです。例えばワクチンを輸入するためブラジル政府が無理矢理インドに飛行機を飛ばす、そんな「普通」が横行する世の中なら私はレジスタンスの一員であり続けたいと思っています。

―バクラウの村は、社会から離れた村ですが、住民は社会で今何が起こっているのかをよく知っています。世間の混乱から遮断されたこの架空の村は、パンデミックにどのように対処すると思いますか?

 

ご存知の通りバクラウには地区で一番の立派な図書館があり、住民は誰でも書籍を読むことができます。学校には歴史の先人として信用のある教師がいます。そしてドミンガス(ソニア・ブラガ)は医者であり、村のリーダーでもあります。村には博物館があり住民たちは自分たちが生きる現在が、歴史と地続きであることを深く理解しています。彼らには知識に基づいた、しっかりとした指針があるのです。これこそが本作におけるキャラクターとコミュニティの背景を構築するものです。なのでパンデミックの間、彼らは正式な手順やプロトコルに則り事態の収束を待つでしょう。通信技術の発達は実際の人と人のコミュニケーションを省き、通信で情報にアクセスすることを可能にしました。外界からの接触を断つために村の入口に設置されたバリケードにより、政府からの援助、食料補給、ワクチンの接種も難しいでしょう。ですが彼らには世界中にいる家族とつながる、膨大なコネクションがあることを忘れてはなりません。

 

[1]https://thewire.in/film/bacurau-brazil-film-industry-under-threat-jair-bolsonaro-government

[2]https://www.americasquarterly.org/article/a-dystopian-brazil/

[3]https://brooklynrail.org/2020/05/film/KLEBER-MENDONCA-FILHO-AND-JULIANO-DORNELLES-with-Anthony-Hawley

[4]https://www.explica.co/talk-with-kleber-mendonca-filho-2/

 

宮澤大

日本大学藝術学部映画学科卒

翻訳会社勤務を経て現在は調理師をしながら翻訳・字幕翻訳者として活動中。

映画製作やミニコミ誌の発行をしています。‥

 

 


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