『私は20歳』(1965)などの作品で知られるロシアの映画監督マルレン・フツィエフが、2019年3月19日、モスクワで亡くなった。93歳だった。今回のWorld Newsでは、訃報の際に報道された記事を参照しながら、ロシア映画界のヌーヴェルヴァーグの父と称されたフツィエフのバイオグラフィーを紹介していきたい。

 マルクスMarxとレーニンLeninに由来する名を持つマルレンMarlen・フツィエフは、1925年10月4日、旧ソ連グルジアのトビリシで生まれた。父はボリシェヴィキの役人であり(父は1937年の大粛清の際に弾圧され死亡している)、母は女優だった。そのキャリアを俳優からスタートさせたフツィエフは、トビリシでのスタジオのデコレーターを経て、ソ連の全ソ国立映画大学(VGIK)に入学するためにモスクワに移る。大学ではイーゴリ・サブチェンコの下で映画を学び、1952年に卒業。大学を卒業したフツィエフは、ボリス。バルネット『リャナ』(1955)のアシスタントを経て、ソ連共産党第20回オ大会が開催された1956年、オデッサスタジオで長編映画第一作『ザレスナヤ通りの春』を、Felix Mironerと共同で監督する。社会主義リアリズム美学の制約から自由に制作されたこの映画は、労働者のための夜間学校に赴任する新任の教師の物語であり、通例のアーキタイプから離れた、複雑な主人公像を提示したという。新任教師の目を通じて、美的に偽装されていない労働者の日常生活を垣間見せたこの映画は、「雪解けの映画」を象徴する代表的な作品となった。雪解けとは、1953年のスターリン死去のあと、フルシチョフによるスターリン批判によってジダーノフ時代が終わり、一時的に言論の自由が生まれた1960年代半ばまでの時代のことをいう。

『ザレスナヤ通りの春』(1956)

 彼の仕事は、ソ連の歴史と緊密に結びついている。1958年には長編映画第二作『二人のヒョードル』を監督。この作品は、第二次世界大戦後、動員解除された兵士フェドーラが、自分と同じ名前を持つ孤児を引き取る物語である。この作品はロシアの作家ヴィクトル・ネクラソフに賞賛されたが、彼の悲観主義と現実を虚偽的に表象したことを非難するため、ウクライナ文化省によって批判されたという。

 ウクライナ文化省からの批判にもかかわらず、大勢の観客に支持されたフツィエフは、1959年から優れた脚本家であるゲンナジー・シバリコフとの仕事に着手することになる。この二人の仕事は、彼の名を一躍有名にした『私は20歳』(1965)へと結実する。この作品は当初、モスクワの闘争が繰り広げられていた地域にちなんで『イリイチの砦』(1962)と名付けられ制作されたが、フルシチョフの検閲を通過することができなかった。そのため、大幅な修正とタイトルの変更がなされ、フルシチョフ失脚後の1965年になってようやく公開されることになる。しかし1965年のヴェネチア映画祭では、見事審査員特別賞を受賞することになる(『私は20歳』はのちに監督の手によって復元され、オリジナルバージョンとして1988年に公開された。日本でも1995年に岩波ホールで上映された)。『私は20歳』は、1960年代、フルシチョフの「雪解け」時代のモスクワを舞台に、人生の意味と目的について苦悩する若者三人の姿を描いた作品であった。またこの作品ではタルコフスキーやコンチャロフスキーがカメオ出演している。

『私は20歳』(1965)

 1966年には、『夕立ち』(原題:七月の雨)が公開される。ヌーヴェルヴァーグ的な作風であると言われるが、フツィエフ自身はその影響を受けていないという。それは「共有している時代の雰囲気」によるものである、と。公開当時、ヴェネツィア国際映画祭に選出されたが、ソ連政府によって出品が取り下げられた。1970年にはテレビの世界に入り、ドラマ『五月』を制作。赤軍派の兵士たちによる強制収容所の発見についての物語であった。1980年代半ば、ゴルバチョフの時代に映画の世界に戻り、1984年に『あとがき』、1991年に『無限』を制作している。

 およそ50年のキャリアの中で、フツィエフはおよそ十本の作品しか制作しなかった。それについて、フツィエフはこう語っている。「私はそうするほかはありませんでした。思索に耽りながら、自分の作品の中で季節の変化を観察し、ゆっくりと進むことが好きなのです。私にとって、主題や物語があるだけでは[映画を撮影するのに]十分ではないのです。」晩年、日本をはじめ世界でもあまり顧みられることのなくなった映画監督ではあるが、フツィエフはロシア映画を完全に変化させた偉大な存在であった。

[1]1919年に創設された全ソ国立映画大学(VGIK)は、世界で最も長い歴史を持つ映画大学である。エイゼンシュテインやプドフキンなどを教授として起用し、タルコフスキーやパラジャーノフ、ソクーロフやロズニーツァなど、多くの偉大な映画監督を輩出している。

参考記事

https://www.lemonde.fr/disparitions/article/2019/03/20/le-cineaste-marlen-khoutsiev-est-mort_5438751_3382.html

https://toutelaculture.com/musique-musique/marlen-khoutsiev-le-pere-de-la-nouvelle-vague-russe-est-decede/

https://next.liberation.fr/cinema/2019/03/19/marlen-khoutsiev-le-pere-de-la-nouvelle-vague-russe-s-est-eteint_1716153

http://www.cinematheque.fr/cycle/marlen-khoutsiev-383.html

https://www.lexpress.fr/actualites/1/culture/russie-deces-de-marlen-khoutsiev-pere-de-la-nouvelle-vague-sovietique_2068164.html

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。


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