Oliveira

4月2日、世界はまたしても偉大な映画監督を失った。昨年の12月に106歳を迎えたばかりの、ポルトガル映画の巨匠、マノエル・デ・オリヴェイラが亡くなった。サイレント映画時代から現代に至るまで活躍した彼は、まさに映画史の移り変わりをも直に経験した生き証人でもあった。

彼は23歳の頃に短編ドキュメンタリー(サイレント)『ドウロ河』(1931年)で初監督を務めるが、それから60年代後半に至るまで、わずか2本の長編と11本もの短編と中編しか撮っていなかった。しかし、70年代から制作スタンスを変えはじめ、1990年にはほぼ1年に1本のペースで映画を撮るようになった。(*1)その裏には、オリヴェイラの映画制作の道のりが決して平坦ではなかったことも示唆している。そのことを彼の映画を25年に渡ってプロデュースした、名プロデューサーのパウロ・ブランコのインタビューから伺える。

「パリに映画館を持っていた頃、よく私がプロデュースしたと勘違いされる、『Amor de Perdição』(1979)をマノエルは制作したばかりだった。テレビ映画のために作られた本作は、ポルトガルで酷評された。しかし私個人にとっては傑作だった為、フランスで配給することを決意すると、好評を博し、特にセルジュ・ダネーなどからとても気に入られた。するとマノエルは自分の映画をプロデュースしないかと持ち掛けてきた。私は驚いた。それは信じられないことだった。何故なら私はもう30歳で、まだ制作のことについて何も知り得ていなかったからだ。(…)私が知り合った頃の彼は、批評を含め、ポルトガルでは好まれていなかった。彼の認知度はどちらかと言えば国際的な方面でのみだったからだ。そのため、彼にとって40年もの間、仕事をするには常に困難が伴った。」(*2)

また、同じポルトガル出身のジョアン・ペドロ・ロドリゲスは、ポルトガルにおけるオリヴェイラの立ち位置についてこう述べる:

「たとえ彼と個人的な接点が無かったとしても、ポルトガルの映画監督として、彼の作品からとても影響を受けています。彼は世界で偉大な映画監督の一人でした。そしてポルトガル人でもありました。彼は私たちの映画(ポルトガル映画)の為に多大な貢献を果たしました。一時期、彼がとても悪く見られていたというのは興味深いことです。支援するプロデューサーが居なくなり、そのせいで彼は当分の間、映画を撮れなくなりました。ポルトガルが彼をやっと偉人だと認めたのは、国際的な名声が高まるまで待たなければなりませんでした。それはあってはならないことですが、得てしてそういうものなのです。いつも天才たちが人々に認められるには、国境を超えなければならないものです。(…)個人的に、彼の初期の作品群、その中でも例えば『Amor de Perdição』(1979)などにとても影響を受けました。彼はごく僅かな映画監督たちが達することのできる、ある種のエモーションを放つことが出来るのです。」(*2)

オリヴェイラは例えどんなに困難な状況であっても、自分の撮りたい作品を自由に撮り続けるという姿勢を崩さなかった。彼が撮りたいと考える作品は何年掛かろうとも、その計画を実行に移している。彼の映画に対する情熱は時の経過をものともしない。その一つに、日本で今年の夏に公開予定の『アンジェリカ(仮題)』(2010年)という作品があり、その構想は第二次世界大戦直後にまで遡る。きっかけは彼が撮った一枚の写真だったという。

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「私の妻の従姉妹にあたる(ユダヤ系の)彼女は、とても若くして亡くなりました。彼女の死後、自宅を訪れた際に、彼女の両親から彼女を撮影するよう頼まれました。彼女を見たとき、私は彼女の微笑みに心を奪われました。激しい苦しみに耐え忍んだであろう彼女にとって、死は一種の大きな安らぎとなって訪れたのでしょう。私はカメラを構え、ピントを合わせるためにファインダーを覗きました。そして彼女に焦点を当てていると、彼女のイメージが二重に見えてきたのです。それは単にカメラの機械的な調整によるものでしたが、私にとっては精神が身体から離れて、他界していく瞬間を象徴しているかのようでした。」(*3)

『アンジェリカ(仮題)』は若い写真家の青年が、若くして亡くなった女性の霊に取り憑かれる狂気の愛の物語だが、なぜ60年も経ってから、結局作品を撮ろうと思い至ったのか?

「あの世の神秘について、また取り組みたいと思うようになったからです。トルストイの『戦争と平和』で、傷ついた兵士が突然、死のヴィジョンに取り憑かれます。そして彼はそれを扉として見るのです。私はそれを常にシンプルでいて、力強いイメージだと思っていました。そう、死とは扉なのです。しかし、それは特殊な扉で、一方方向にしか開くことが出来ません。また、反ユダヤ主義が徐々に高まってきていることや、公害と経済危機による危険が強まりつつあるという、現代の状況が私をこの企画に再度取り掛かるよう、駆り立てたのです。だからこそ、現代世界の状態を語るためにもシナリオを現代風にアレンジしたのです。」(*3)

オリヴェイラは世界大戦を2度も経験し、様々な時代を生きた。しかし、彼の人生はいつも映画と結びつけられたものだった。そして自分の見てきた時代を現代の私たちの眼差しへと紡ぐために、映画を撮ること、即ち映画とは彼にとって、青春の面影で在り続けたのかもしれない。そのせいか、彼の映画は歳を重ねるごとにますます鋭く、瑞々しい感性に貫かれていたように思う。そんな彼が最後に手掛けた19分の短編の一部がネットで垣間見られるが、まるでストローブ=ユイレの『歴史の授業』を彷彿とさせるかのような雰囲気を漂わせている。果たして日本で公開される日は来るのだろうか。

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O Velho Do Restelo / The Old Man Of Belem (2014)
https://vimeo.com/104030172 

「帰り際に、彼は私たちに最後の格言を授けた。「最も難しいことは、“シンプルさ”にたどり着くことです。しかし、それは人生においてなのか。それとも芸術においてなのだろうか?」すると彼はヨーダめいた、いたずらな笑みを浮かべて「もちろん2つの意味においてです。ご存知の通り、芸術とは“人生のなぞ”の表象に他ならないからです。」(*3)

参考資料、引用元:
http://next.liberation.fr/cinema/2015/04/02/manoel-de-oliveira-rentre-a-la-maison_1233752 (*1)
http://next.liberation.fr/cinema/2015/04/02/c-etait-l-un-des-plus-grands-cineastes-au-monde_1233793 (*2)
http://www.lesinrocks.com/2015/04/02/cinema/mort-du-cineaste-centenaire-manoel-de-oliveira-11696604/ (*3)
新作について: http://osomeafuria.com/films/3/61/

楠大史 World News担当。慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科修士1年、アンスティチュ・フランセ日本のメディア・コンテンツ文化産業部門のアシスタント、映画雑誌NOBODY編集部員。高校卒業までフランスで生まれ育ち、大学ではストローブ=ユイレ研究を行う。一見しっかりしていそうで、どこか抜けている。


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