2018年2月9日、ベルリンのアパートでヨハン・ヨハンソンは、48歳の若さでこの世を去った。死因は心不全であった。ドイツのメディアは、2018年6月に彼の体内の器官からコカインが検出されこと、さらに、彼はインフルエンザの薬物治療をしていたことを報じた。この2つが死を引き起こしたと考えられている[#1]。

ヨハンソンにとって作曲家としての最後のプロジェクトとは、パノス・コスマトス監督の『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』の音楽であった。ヨハンソンは、このプロジェクト引き受けることを強く望んだ[#2]。彼は、コスマトス監督の熱狂的なファンであったからである[#3]。
ヨハンソンは、典型的な作業手順を踏まず、映画のフッテージを見る前に作曲を始めた。「彼は、脚本に基づいたアイデアやスケッチから作曲をしていました。プレプロダクションのプロセスの間、キャメラが回る前に、彼が表現をしていた少しの音楽、スケッチ、アイデアが存在しました。これは類まれなことです」と、プロデューサーを務めたイライジャ・ウッドは述べた[#4]。
ヨハンソンは、少しずつサウンドトラックを組み立てていき、メールでコスマトス監督にサンプルを送信した。ヨハンソンが優先する順番で、テンプスコアのまったく付いていないラフカットから作曲をした。映画が完成した後に、2人は一度お互いに顔を合わせた。コスマトス監督は、自分たちの電話の話し合いを、映画の波がうねるような音を反映させた独特の計画セッションであったと言い表す[#5]。

ヨハンソンとコスマトス監督は、シアトルを拠点とする実験的なメタルバンドSunn O)))に協力を求めた[#6][#7]。しかし、そのとき、ヨハンソンは、コスマトス監督が、ジム・ジャームッシュ監督の『リミッツ・オブ・コントロール』のサウンドトラックで同グループの音楽を称賛していたことを知らなかった。コスマトス監督は、前作Beyond the Black Rainbowに取り掛かる準備をしていた際に、その歌曲を聴いていたのである。すなわち、ヨハンソンは、コスマトス監督の考え方を理解していたことは明らかであった。「映画に利益をもたらし、もっと伝統的な映画のスコアに取り組んできた経験がある人物だと感じました。組み立てて変化させていく基本原理があったからです」とコスマトス監督は話した[#8]。

先にも述べたように、ヨハンソンとコスマトス監督は、地面が振動するようなギターの音を取り入れるために、Sunn O)))からステファン・オマリーを参加させた。また、ヨハンソンは、レコーディングセッションで、プロデューサーのランドール・ダン(ウルヴズ・イン・ザ・スローン・ルーム、Boris)と共に仕事をした。さらに、ヨハンソンの死去に伴い、サウンドトラックアルバムにおいて、ヨハンソンのハード・ドライヴからのほかの音源と共に、Kreng のPepjin Caudronと作曲家のYair Elazar Glotmanが映画の楽曲を整えた。

ダン、コスマトス監督、Caudron、長きにわたってヨハンソンのマネージャーを務めたTim Husomは、ヨハンソンの最後のスコアがどのように形作られていったのかを話している。

パノス・コスマトス:「私は、映画に(作曲家として)ヨハンをまったく考えてはいませんでした。彼の音楽が大好きで、偉大な作曲家のひとりであると思っていましたが、彼がこの映画の音楽を作曲したいと思ってはいなかったのです。自分たちが望むアプローチから彼のアプローチは少し離れていると考えていたからです。しかし、5分間、彼と話すと、彼にはそれまでには見せていなかった手法があり、それを目指していたことが分かったのです。」

Tim Husom:「大きな映画のスタジオではない環境の下で、新たなことに挑戦できるプロジェクトに参加している際に、ヨハンがどれほど夢中になっていたのかを覚えています。狂っていて、LSDによる幻覚状態の中でのホラー映画に取り組む中で、彼が最も好きな監督のひとりは、彼に居心地がよい環境を与えたのです。前年(2017年)における受賞の注目の後、彼にはある程度のバランスがもたらされることが必要だったのです。」

コスマトス:「私は、この映画を崩れたロック・オペラにしたかったのです。人々が歌って最低なことをするというのではなく、エモーショナルで音が際立ち、視覚的な経験を与えるのです。ヨハンにそのことを話すと、非常に興奮していました。」

ランドール・ダン:「ヨハンは、映画に適したチームをまとめようとしていたのだと思います。パノスが参照した多くは、ロックに感化されていました。だから、ヨハンはそれまで踏み込まなかった方向性に合わせたかったのです。つまり、その方向性とは、ロックやヘヴィメタルです。これは、私がよく知る分野ですので、彼は私にプロデュースを頼んできました。
私たちには、はじめに常軌を逸した荒々しいアイデアがありました。Sunn O)))とドラム奏者を含む9人編成のバンドを起用するというものです。ライヴシナリオの中でそれを行い、撮り終わった映画に即興で演奏をし、そこに飛び込みで誰かのシンセサイザーの演奏を取り入れるというものです。ほとんどがライヴスコアに近かったですが、スタジオで行った部分もあります。それには、予算や時間の制約を知る必要があります。ステファン・オマリーは、2つのトラックに関係し、それらの楽曲を書くことにも参加しました。それは、とても専門化された音楽で、『このようにしてみろ』と言われても真似ができません。オマリーは多くの創作的な余地を与えてくれました。」

(オマリーは、この楽曲に参加することを断った。)

コスマトス:「時折、私たちは曖昧な話し合いをしました。『僕はこんなシーンが欲しいんだ。自分の兄のトランザムの後部座席に彼女と一緒にいて、怖がってるんだ。マリファナを吸っているけど、車は皮革や爽やかな空気のような臭いがするんだ』という具合です。彼はいつもこのように言いました。『君が言っていることはよく分かるよ』と。ヨハンは、この映画が何に基づいているのかを本質的に理解しているようでした。そして、自分の担当部分を音楽で探ることに興奮していました。」

ダン:「どのアナログ・シンセサイザーが適しているかについて何度もコミュニケーションを取りました。多くのシンセのレコーディングを行ったイタリアのスタジオに決めました。そこは素晴らしかったです。私たちは型にはまったものから離れようとしました。まったく新しいスタイルの中で、それを覆したかったのです。」

コスマトス:「私たちは2人とも、同じ姿勢でした。自分たちの過去から探求や喚起を望みますが、同時に、単にノスタルジックにならないようにしたかったのです。過去を未来に変えたかったのです。クイーンの『フラッシュ・ゴードン』のサウンドトラック、ヴェノムやセルティック・フロストのようなバンドがきっかけとなりました。」

ダン:「パノスは、たくさんの初期のヴァン・ヘイレンも参考にしました。私の役割は、ロックに忠実でいることでした。ヨハンと私は、自分たちがインスパイアされたものに関係していました。“Children of the New Dawn”のギターとドラムのサウンドでは、マリリオンやアラン・パーソンズ・プロジェクトを参考にしました。70年代後期のプログレッシヴ・ロックです。私たちは、さらなる役割を担おうとしました。この映画は、1983年が舞台です。だから、その類の音楽を望みました。ただ、エレクトロのような音楽ではありません。」

Pepjin Caudron:「私は、もともと音楽エディターとして、ヨハンの音楽を細かくし、それらを映画に合わせるために雇われました。しかし、ポストプロダクションの進行がゆっくりだったので、私は数曲を書きました。ほとんど、ヨハンのサンプルに基づいていました。
それから、(2018年)1月のサンダンスでのプレミアの少し後に、ヨハンの死去を知りました。サウンドトラックの準備はまったくできていませんでした。映画用の楽曲は持っていましたが、サウンドトラックのアルバムをプロデュースする人材を必要としていました。ヨハンは、映画用の42曲を単にCDに書き出したくはないと考えていたからです。彼は、スタンドアローンで聴くという経験を求めていたのです。だから、私たち(CaudronとYair Elazar Glotman)はその方法を探りましたが、手強かったです。ヨハンのヴィジョンに忠実であらねばならなかったからです。」

ダン:「映画の中の音楽と、サウンドトラックのリリースは、非常に異なります。サウンドトラックのリリースをはじめて聞いて、『いいね』といった感じでした。しかし、映画を観たときに、ミキシングを加えたのを思い出した部分があったのです。サウンドトラックのリリースでは、ほとんどその行程における部分は余分であるのです。(サウンドトラックには含まれない)ほかの部分にはどのように繋がっていくのかを伝えるものが多くあるのです。」

Caudron:「ヨハンは、90パーセントの音楽を完成させていました。その音楽がどのようなサウンドになるのかというブループリントがあったのです。だから、自分のセンスを取り除き、ヨハンがしたであろうことを試みたのです。私は、ヨハンと個人的な関係を持つことなく、参加しました。彼が亡くなった日から2週間が経過した後に、彼とは会うはずでした。このことで、私には、センチメンタルなことの代わりに客観的なスタンスがありました。この音楽の制作を完遂するために、近い距離で一緒に仕事をしていたら、かなり動揺していたかもしれません。
私には、彼の完全なハード・ドライヴが送られてきました。それを使って仕事を行うことは、彼の頭の中の一部を覗き込んでいるようでした。どのように機能しているのか?ものごとをどのようにまとめているのか?ハード・ドライヴは、まったくの混沌でした。非常に個人的なもので、ハード・ドライヴを通して覗き見たものがこれほどまでにエモーショナルであるとは思ってもみませんでした。狂ったハード・ドライヴですが、その中に彼がいるのです。」

ダン:「ヨハンは、本当に様々なものを取り入れていました。その道を下っていくと、いつも珠玉を見つけられます。彼が好んだタイプのサウンドには、非常に心を動かす美学がありました。時々、彼の耳を通して聞くと、素晴らしかったのです。自分が思ったことが素晴らしいと理解するのではなく、最高の耳を通して自分の美学を再度聞くのです。」

Caudron:「ヨハンがサウンドを処理する方法は、非常に独創的でした。まったくの型破りな方法で圧縮されたサウンドは、驚くべきものでした。常にサウンドを乱用し、同時に美を追求し続けていたのです。彼は、それらの中で完璧なバランスを見つけ出していました。」

ダン:「彼の死後に、映画から一歩離れてみました。この映画の予告編が公開されたとき、泣いてしまいました。この映画を映画館で観たら、取り乱してしまうと思います。ずっと、泣き続けてしまうでしょう。私は、関わり、ヨハンと会うことができて本当に幸運です。」

Caudron:「ランドールと私は、ヨハンが亡くなってから数日後にスカイプで話しました。彼は大柄で、強く、髭を生やしていました。私たちは、15歳の子供のように泣きました。音楽に取り組むことは、最も困難を極めた部分ではありませんでした。それは、何かの乗り物に乗っているようでした。難しい問題から、誰かを除こうとしたのではないのです。単に音楽をプロデュースしたのではなかったのです。それは進み行く船に喩えられます。船内でキャプテンが亡くなり、それでもなお、無事に岸に船を着けなければならないのです。」

Husom:「私は、ヨハンが新たな何かを創り上げるために自分自身に挑戦をしていたことに感銘を受け続けました。新たなプロセス、新たなコラボレーター、新たな方法でのレコーディング。すべての作品へのアプローチは、異なる領域に着手するという考えから始まりました。何かを叩くこと、『ボーダーライン』のために創られた地殻からの邪悪な響き、『メッセージ』での非常に不気味で知性を感じさせるヴォーカルの技巧、『マンディ 地獄のロード・ウォリアー』のための未加工で暗いロックのスコア。
ヨハンの娘と私は、5年から6年をかけてたくさんの音楽をリリースするために、Deutsche Grammophonと話をすることになっています。まったく聞いたことがなく、よく分からないドキュメンタリーのスコアも含まれています。それから、私は、ダーレン・アロノフスキーの関係者と、使われなかった『マザー!』のために創られた音楽のリリースについて話す予定です。『ブレードランナー 2049』は、公にリリースするには不完全でしたので、リリースされる予定はありません。すべてのヨハンソンのハード・ドライヴを整理しています。そこには、知られていない隠された宝があります。私たちは、彼の遺産を生かしたいのです。しかし、クオリティのコントロールと、彼の作品に敬意を払うことに対して賢明でなければなりません。」[#9]

コスマトス監督は、ヨハンソンと共に仕事をする中で、ヨハンソンとの関係が少しずつ前進したと述べる。「おかしな方向性で近い関係を感じていました。彼は、少し自分の父(『ランボー/怒りの脱出』や『トゥームストーン』などで知られるジョージ・P・コスマトス監督)を思わせたのです。彼は無愛想ですが、一緒に時間を過ごすと、とてもセンシティヴで思慮深い人物であると分かるのです。私たちの友情は、始まったばかりでした。」[#10]

参考URL:

[#1]https://variety.com/2018/film/news/mandy-horror-movie-music-composer-johann-johannsson-heavy-metal-1202941577/

[#2][#3][#4][#5][#7][#8][#10]https://www.indiewire.com/2018/11/johann-johannsson-mandy-soundtrack-panos-cosmatos-1202018821/

[#6][#9]https://pitchfork.com/thepitch/how-johann-johannssons-final-film-score-was-made-mandy-oral-history/

宍戸明彦
World News部門担当。IndieKyoto暫定支部長。
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士課程(前期課程)。現在、京都から映画を広げるべく、IndieKyoto暫定支部長として活動中。日々、映画音楽を聴きつつ、作品へ思いを寄せる。


コメントを残す