世界的な名撮影監督ロビー・ミューラーが亡くなった。78歳だった。血管性認知症による長い闘病生活のため、2002年の『24アワー・パーティ・ピープル』(マイケル・ウィンターボトム)以降、長編劇映画でカメラを手がけたことはなかった。ミューラーは、ヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュ、そしてラース・フォン・トリアーらの重要な作品を手がけ、彼らにとって最も重要なコラボレイターであった。「マスター・オブ・ライト」の異名でも知られ、出身地が同じオランダの偉大な画家ヨハネス・フェルメールと比較されることも多かった。ハリウッド作品も手がけたが、常に自由で身軽なインディペンデント映画での撮影を好み、その現代的なビジュアルスタイルを確立した巨匠として映画史に大きな足跡を残した。

ヴェンダースと共に

 ロビー・ミューラーは、カリブ海に浮かぶオランダ領キュラソー島で1940年に生まれた。十代の頃、家族と共にアムステルダムに移住。22歳の時に、アムステルダム映画アカデミーに入学する。ヤン・デ・ボンやポール・ヴァーホーヴェンを輩出した学校として知られるが、16ミリカメラが一台と壊れかけの35ミリカメラが一台あるだけだったとミューラーは後に回想している(#01)。学生時代にカメラを手がけた短編作品で、彼は既に自然光を中心とした撮影を行い、これは生涯にわたってミューラーの特徴的な撮影スタイルの一つとして知られた。当時、オランダで製作される映画があまりにも少なかったため、ミューラーはアシスタントを務めていた撮影監督ジェラルド・バンダーバーグと共にドイツに渡り、そこでまだ駆け出しの映画監督ヴィム・ヴェンダースに紹介された。

 ヴェンダースとミューラーは、二人にとって初めての長編作品『都市の夏』を1970年に撮影。その後、30年近い年月に20本近い映画を共に作ることになる。ヴェンダースとのコラボレーションによってミューラーもまた世界的賞賛を獲得し、このコンビは『都会のアリス』(1974)『まわり道』(1975)『さすらい』(1976)というロードムービー三部作、そして『アメリカの友人』(1977)を経た後、カンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した『パリ、テキサス』(1984)で頂点を迎えることとなった。

 ヴェンダースは、ミューラーについて次のように述べている(#02)。

「ロビーと僕は10本の映画を続けさまに一緒に作った。僕らは本当の意味で全てを一緒に学んだんだ。ロビーのデビュー作は僕の映画だし、僕は他の撮影監督と一緒に映画を作るなんて想像もできない程だった。10年間、僕らは全てを一緒にやった。最初から僕たちの間には一つのルールがあった。それは僕がショットを決め、ロビーはカメラを動かすと共に照明を自由に決めるというものだった。僕は照明に口出しをしなかったが、フレーミングは僕の仕事だった。僕らは素晴らしいコンビとなり、次第にあまり話す必要がなくなっていった。『パリ、テキサス』の多くのショットは、それまでに12年間積み重ねてきた共同作業の成果だった。僕らはまるで双子の兄弟のようだった。僕らはその後、別の相手と一緒に映画を作るようになったが、常に最も近い距離にいたのがロビーだった。物事を本当の意味で初めて一緒に発見した相手とはそうなるものだ。ロビーと僕は、多くの物事を一緒に発明した。僕らは自分たちで実際にやってみるまで、映画をどうやって作るか全く分からなかったんだから。」

ジャームッシュとの出会い

 1986年、ミューラーはジム・ジャームッシュと共に『ダウン・バイ・ロー』を作る。彼らはその後、『ミステリー・トレイン』(1989)『デッドマン』(1995)『ゴースト・ドッグ』(1999)『コーヒー&シガレッツ』(2003)などでコンビを組んだ。ジャームッシュにとって、ミューラーは単なる撮影監督である以上に映画の導師のような特別な存在であったとのことだ。ミューラーとの出会いについて、ジャームッシュは次のように語っている(#03)。

「僕はロビー・ミューラーの仕事を愛していて、1980年にヴェンダースにどうやったら彼と会えるか尋ねてみた。僕はその時、ロッテルダム国際映画祭に行って長編処女作『パーマネント・バケーション』を上映する予定だった。当時、その映画祭に参加する人は港に停泊された船に集まるのが習わしであり、その船にはバーがあった。ヴェンダースはこう言った。船のバーに行けば良いさ。ピーナッツマシンの側にある席にロビー・ミューラーがきっと座っているから。
そこで僕はロッテルダムに行って、船に乗り、バーに行ってみた。するとピーナッツマシンの側の席にロビー・ミューラーが座っていたんだ。本当さ。だから僕は彼の隣に座って話し始めた。僕らは映画祭で一緒に長い時間を過ごして、彼は僕の処女作を見てくれた。そしてあるとき、君が一緒に仕事したいと思ったら、いつでも連絡してくれって彼が言ったんだ。これは僕にとってすごく大きな出来事だった。僕は次の作品『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を友人のトム・ディチロと作ったけど、彼は撮影監督の仕事に興味を持っていなかった。だから『ダウン・バイ・ロー』の脚本を書いたとき、僕は直ちにロビー・ミューラーに電話したんだ。
彼は自分のことをある意味で職人だと考えていた。よく覚えているのが、とりわけ『デッドマン』を撮影していた頃、僕と撮影スタッフはよくこんな冗談を言ってたんだ。ほら、あれが有名なロビー・ミューラーだぜ!でも、彼にはそのことを言うなよ!って。彼はフェルメールやデ・ホーホのようなオランダの室内画家のような存在だ。生まれてきた時代を間違えたんだよ。」

新たなる挑戦『奇跡の海』

 1996年、「ドグマ95」(詳細は、私が書いたこちらの記事を参照のこと。#04)を設立し、そのムーブメントの中でドキュメンタリー的なドラマに新たなスタイルを確立しようとしていたラース・フォン・トリアーは、ミューラーに声をかけ『奇跡の海』の撮影を依頼した。全てのショットを手持ちカメラで撮影し、セットは作らず、自然光のみ用い、カメラのために特別な美学的造形を施さないというドグマ95の綱領は、ミューラーにとっても新たな挑戦を意味していた。

 さらに、トリアーはミューラーに特別な指示を出した。それは、あらかじめ映画のプロットを伝えず、俳優の周囲で自由に動き回って欲しいというものだった。撮影監督自身が物語の展開を知らない一人の観察者として、意味づけのためのフレームや照明を一切決めることができない状態に置かれることをトリアーは望んだのだ。「トリアーは、私が単なる一人の観察者として、その場で見たいものを何でも撮影することを望んでいた。彼は、カメラから出来事をジャッジする機能を奪い、まるで子供の目のような役割を与えたかったんだ」とミューラーは回想している(#05)。

 完成した作品は、しばしばショットの中で対象を見失い、意図的にフォーカスの外れた場面も多かった。世界中の多くの撮影監督がこの作品のカメラを批判し、大きなスキャンダルとなった。しかし、現在では『奇跡の海』は映画史において新たなスタイルを生み出した画期的な作品であるとしてきわめて高く評価されている。

デジタル時代の新たな美学

 ロビー・ミューラーは、ヴェンダースら巨匠たちのパートナーとしてのみ記憶されるべき撮影監督ではない。彼は、新しい時代の中で低予算のインディペンデント映画に新たな美学をもたらした重要なパイオニアの一人でもある。それは、デジタル撮影だ。家庭用に開発されたソニーのminiDVを使用し、劇場用作品ではじめて大がかりにデジタル撮影を導入したのは、『奇跡の海』と同じドグマ95の一本として撮られたトマス・ヴィンターベアの『セレブレーション』(1998)であり、その撮影監督アンソニー・ドッド・マントルであると言われている。トリアーとミューラーは、これをさらに発展させ、市販のデジタルカメラを100台同時に使用した『ダンサー・イン・ザ・ダーク』における映画史上例を見ない実験を行った。さらに英国の映画作家ドム・ロスローによる『マイ・ブラザー・トム』(2001)では、デジタル撮影を用いた低予算のインディペンデント映画に新たな美学を確立し、直接・間接を問わず後の世代に大きな影響を与えている。この映画の撮影について、ミューラーは次のように回想する(#06)。

「プロダクションがあらかじめ撮影フォーマットを決めておらず、そしてあまり予算がない場合、私はしばしばデジタル撮影を提案した。『マイ・ブラザー・トム』で使ったのはソニーのPD-100だった。その選択は私にとって実に快適なことだった。ハリウッド映画のような巨大なプロダクションでの面倒な介入を避けることができるからだ。つまり、私はメーキャップ係が常に目を光らせ、肩に何かが付いてないかブラシをかけ続けるのに耐えられないんだ。これは映画から身軽さを奪ってしまう。
私がトリアーと良い関係を続けられるのも同じ理由による。彼はあらゆる因習から解き放たれた、そして快適な方法で映画作りを進めるからだ。映画作りは無数の因習に縛られており、これは実に不快なことだ。デジタル撮影は、こうしたものから映画を遠ざけることに力を発揮する。
若い人たちは、映画学校で35ミリフィルムの優れた点についてあまりにも聞かされるので、何でもそれと比べるようになってしまう。私はこれが基本的に間違いだと思う。新しい道具を手にしたときは、それで何かできるかを追求すべきだからだ。デジタルで何かを撮影しながら、それが35ミリフィルムで撮ったように見せかけるのはあまりにも愚かなことだ。フィルターを使ったり「映画モード」のようなボタンを押したり。私には全く理解できない話だよ。」

映画の導師

 ロビー・ミューラーは、単なる撮影監督にとどまらず、パイオニアでありチャレンジャーであり、若い映画作家にとっては映画の導師でもあった。ミューラーから教わった映画の心得について、ジャームッシュは次のように回想している(#07)。

「一般的に、僕たちは実際に試すことで物事を考えて行く。どんなことにもチャレンジしてみるんだ。ロビーは色彩がどれほど僕らの感情に影響を及ぼすかについて教えてくれた。そしてマジックアワーの空が10秒ごとにどれほど変化し、どれほど異なる影を作るかについても彼から学んだ。彼から教わったのは、こういうことだ。例えば、スクリプトに今日は晴れだと書かれていたとする。でも実際に撮影を行う日が曇りで、雨が降りそうになっていることもある。そんな時に大抵の人は、仕方ない、今日は撮影を止めようと言うものだが、ロビーは違った。彼は、よし、もしかして雲や雨がこの場面により良い効果を及ぼすかも知れない、あらかじめ可能性を閉ざしてしまうのは止めよう、常にオープンでいようって言ったんだ。」

#01
“Robby Muller and Paris, Texas” American Cinematographer, March 1985
#02

The Road to Wim Wenders


#03
https://www.theguardian.com/film/1999/nov/15/guardianinterviewsatbfisouthbank2#c
#04

[211]ドグマ95:その20年間の功績


#05
http://www.anothermag.com/design-living/10040/the-man-who-changed-the-face-of-cinematography-forever
#06
“From Dogma to Dogville: Don’t Try This at Home”(2006)
#07

参照:
Robby Müller Dies: Cinematographer Of Classics From Wenders, Jarmusch, Von Trier Was 78
http://thecompleti.st/no3

Robby Müller, Cinematographer for Jim Jarmusch and Lars von Trier, Dead at 78


https://www.criterion.com/current/posts/4100-a-robby-m-ller-retrospective

“He’s Robby Müller, but don’t tell him that!”

‘Paris, Texas’: Wim Wenders’ Film of Extraordinary Beauty and Irresistibility

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

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