クリスマスに全米で公開予定の映画『Phantom Thread』が、11月24日~30日にロサンゼルスとニューヨークで行われた特別試写会で初上映されました[*1]。
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』以来となる、ポール・トーマス・アンダーソン(監督)×ダニエル・デイ=ルイス(主演)×ジョニー・グリーンウッド(音楽)の3人が再集結した作品ということで、製作が発表された時点から注目を集めていた同作ですが、米アカデミー賞などの賞レース候補となる作品のプレミア上映の場となることが多い秋の映画祭(ヴェネチア、トロント、ニューヨークetc.)には参加せず、これまで10月に公開された予告編を含むわずかな情報しか明らかになっていませんでした。しかし公開まで1ヶ月を切ったこのタイミングでようやくそのベールを脱いだのです(お披露目がここまで遅れた理由について、アンダーソン監督は賞レースに向けての戦略ではなく、4月までロンドンで撮影をしていて、その後すぐに編集に入ったものの、秋の映画祭までには到底間に合わなかったのだと説明しています[*2])。

本作は1950年代のロンドンを舞台に、オートクチュールのファッションデザイナーであり、服作りに全ての情熱を傾けてきたレイノルズ・ウッドクック(デイ=ルイス)が、彼のミューズであり恋人となる女性アルマ(ヴィッキー・クリープス)と出会ったことで、人生の歯車を狂わせていく様を描いています。アンダーソン監督によれば、ウッドクックという登場人物を発明する源となったのは、実在のファッションデザイナー、クリストバル・バレンシアガ(1895-1972)だったといいます。
「僕はバレンシアガについて調べ始めるまで、ファッション業界について知識も興味もあまり持っていなかったんだ。バレンシアガは禁欲的な生活を送り、自らの仕事に完全に打ち込んでいた。時に仕事以外の人生を犠牲にしてね。ただウッドクックというキャラクターはバレンシアガとはだいぶ違うものになった。この物語はそうした人物が、何によって自分の人生を混乱させられてしまうかに焦点を当てている。大抵の場合、それは愛だ」「これまでたくさんの映画監督が『レベッカ』(アルフレッド・ヒッチコック監督)を作ろうとして失敗してきたが、たぶん僕もその列に加わったということになるだろう。まあここで語っているのは異なる物語だけどね。僕はゴシックロマンス映画の熱狂的なファンだけれど、僕がそうした映画が好きなのは、サスペンスに満ちているからなんだ。ラヴストーリーに少々のサスペンスというのは、とてもいい組み合わせなんだよ」[*2]。
アンダーソン監督にとっては珍しくこの映画はウッドクックというキャラクターを探し求めるところから物語を生み出していったのだそうですが、その時に必要となったのがもちろんダニエル・デイ=ルイスという俳優の存在です。実際、脚本を執筆する過程でデイ=ルイスと何度も意見を交わし合い、ほとんど二人で一緒に脚本を作ったと言えると断言しています。

本作に欠かせない存在であり、また、この作品によって俳優活動からの引退を表明しているダニエル・デイ=ルイスのインタヴューが、『Phantom Thread』のお披露目と同じタイミングでファッション誌「Wマガジン」に掲載されました[*3]。デイ=ルイスが代理人を通して引退を表明したのは今年の6月、『Phantom Thread』の撮影が終わった直後のことでしたが [*4]、その理由はこれまで明かされていませんでした。「W」のインタヴューでは、彼自身が初めて引退について言及するとともに、『Phantom Thread』について語っています。
ダニエル・デイ=ルイスという俳優の徹底的な役作りについては、例えば脳性麻痺の画家を演じた『マイ・レフトフット』(ジム・シェリダン監督)では撮影中ずっと車椅子生活を続け、食事も人に介助してもらって食べていたとか、『ボクサー』(同)では3年にわたってプロボクサーとトレーニングを積み、その間に鼻の骨を折ったとか、様々な逸話が伝わっていますが[*5]、今度の作品も例外ではなかったようです。まずは1940~50年代のファッションショーの記録映像を見て、ヴィクトリア&アルバート博物館でバレンシアガ展を企画したキュレーターに話を聞き、さらには数ヶ月に渡ってニューヨーク・シティ・バレエ団のコスチューム部門主任を務めるマーク・ハペルの見習いとなって衣装づくりを学び、マルク・シャガールのバレエ作品『Firebird』のコスチュームの再現を手伝うなどしたといいます。その次に彼がやったのは、バレンシアガがデザインしたドレスを一から自分で作ることでした。バレンシアガが実際に作った服を見せてもらい、そのデザインをスケッチ、妻のレベッカ・ミラーの体に合わせて布を採寸し、縫製していったのです。彼はその体験についてこう語っています。
「バレンシアガのドレスはとてもシンプルだ。少なくともその作り方を知るまではすごく単純に見えるんだけど、実際に作ろうとすると何とまあ驚くほど複雑なんだよ。あらゆるアートにおいてシンプルに見えるものほど美しいものはない。そして忌々しい作業を経験することによって初めて、一見簡単に作られているように見えるシンプルなものを作ることがいかに難しいかを知ることができるんだ。(実際に服を作って)一番難しかったのは袖下のガゼット(まち)の部分で、それがどうなっているかを解読する必要があった。写真ではガゼットがどうデザインされてるかわからないからね。マルク(ハペル)と僕は試行錯誤を繰り返しながら、どのガゼットが適しているかを探っていったんだ。そうして出来上がったドレスをレベッカが着てくれた。とても美しかった」
また、デイ=ルイスは劇中で自分が身に着ける衣装も靴下にいたるまで全てオーダーメイドもしくは老舗のテーラーで購入し、ウッドクックの家の調度品や彼が使うペンやスケッチ帳まで自ら吟味した上で選んだのだといいます。

では、ポール・トーマス・アンダーソンとともに物語を生み出し、そこまで徹底した役作りで臨んだ『Phantom Thread』を最後に彼が引退を決めたのは何故なのでしょうか? アンダーソン監督は別のインタヴューで撮影中に引退の話は出なかったし、ずっと以前から考えたことなのではないかと推測していましたが [*2]、どうやらそれは間違いで、デイ=ルイスに引退を促したのは『Phantom Thread』の撮影時に起こった気持ちの変化だったようです。
「映画を作る前、自分が演じるのを止めることになるとは思っていなかった。撮影に入るまでポールと僕はよく笑っていたと思う。それから僕らは笑わなくなった。悲しみの感情に打ちのめされたんだ。それは不意打ちだった。僕らは自分たちが何を生み出したのかに気づいていなかったんだ。この映画と共に生きるのは辛かった。そしてそれは今も続いている」
「自分でもよく理解できていない。でも僕にとって引退は決まったことだ。この映画を観たくないことは僕が俳優としての仕事をやめる決断をしたことに関係している。ただ悲しみを抱え続けている理由は説明できない。その感情はこの物語が語られる最中で生まれたものだけれど、本当にその理由はわからないんだ。僕の息子の一人が作曲に興味を持っているから、フランスの作曲家のサント=コロンブについての映画『めぐり逢う朝』(アラン・コルノー監督)を見せたんだが、息子はそこで描かれるサント=コロンブの曲作りに対する真摯さや、誰にとっても特別であるもの以外は拒絶する姿勢に感動していた。乱用されている“アーティスト”という言葉を使いたくはないが、でもそこにはアーティストの責任のようなものが存在し、僕にとってそれが重荷になっている。僕は自分のやっていることの価値を信じたいし、その仕事は重要なものになり得るとも思う。もし観客がその価値を信じてくれるなら、僕はそれで十分だと思っていた。でも、最近、そうは思えなくなったんだ」
デイ=ルイスはこれまでにも何度か引退をほのめかしたことがあります。実際、90年代後半には俳優としての活動をストップし、イタリアの靴職人に師事して靴づくりに専念していたものの、マーティン・スコセッシの説得によって『ギャング・オブ・ニューヨーク』で復帰したのは有名な話です。ただ、彼が正式に引退を発表したのは今回が初めてのことで、その理由は「声明を出すなんてらしくないのはわかっている。でもはっきり線を引きたかったんだ。もう他のプロジェクトに飲み込まれたくない」からだと言います。
「(引退を決めて)気分が良くなったかって? 悲しいままだよ。そしてその感じ方は間違ってないように思うんだ。この感情が新しい人生への喜ばしい一歩となるとしたら奇妙なものだ。僕は12歳から演技に興味を持ち、それからは光の箱である劇場以外の全てが影に隠れてしまった。はじめは演じることが一種の救済だったんだね。これからは違う方法で世界を探究したい」

*1
http://www.focusfeatures.com/phantom-thread/screenings

*2
http://ew.com/movies/2017/11/02/phantom-thread-paul-thomas-anderson-interview/?utm_campaign=entertainmentweekly&utm_source=twitter.com&utm_medium=social&xid=entertainment-weekly_socialflow_twitter

*3
https://www.wmagazine.com/story/exclusive-daniel-day-lewis-giving-up-acting-phantom-thread

*4
https://www.nytimes.com/2017/06/20/arts/daniel-day-lewis-announces-retirement-from-acting.html

*5
https://www.theguardian.com/film/2008/jan/13/awardsandprizes.danieldaylewis

黒岩幹子
「boidマガジン」(http://boid-mag.publishers.fm/)や「東京中日スポーツ」モータースポーツ面の編集に携わりつつ、雑誌「nobody」「映画芸術」などに寄稿させてもらってます。


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