8月29日、現在開催中の第76回ベネチア国際映画祭において、ジェームズ・グレイ監督最新作『アド・アストラ Ad Astra』[*1]がついにお披露目されました。オープニングを飾った是枝裕和監督『真実』をはじめ、スティーヴン・ソダーバーグ、オリヴィエ・アサイヤス、ロウ・イエ、ロマン・ポランスキー、アトム・エゴヤン、ノア・バームバックといった名だたる映画作家の最新作、さらにホアキン・フェニックス主演の『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督)、『彷徨える河』のシーロ・ゲーラ監督がジョニー・デップ、マーク・ライランスらハリウッドウスターを迎えて撮った『Waiting for the Barbarians』と、例年以上に豪華な顔ぶれとなったコンペティション部門の中でも『アド・アストラ』は映画祭の開幕前から特に注目を集めていた作品のひとつと言えるでしょう。
というのも本作はブラッド・ピットが主演・製作を務め、ジェームズ・グレイ監督が自身のキャリア史上最大のバジェット(約85億円)で撮った初のSF映画ということで、2017年の製作開始当初から話題を呼んでいました。もちろんそこにはアルフォンソ・キュアロンがワーナーと製作した『ゼロ・グラヴィティ』(2013)、パラマウント&ワーナーが配給したクリストファー・ノーランの『インターステラー』(2014)など、大手スタジオが作家性の強い監督と組んで作ったSF大作の前例を踏まえた期待もあったでしょう。しかし、当初この作品は今年の頭に公開される予定だったものの延期となり、カンヌ国際映画祭への出品&5月公開が目されていたもののさらに延期、そしてようやく6月になって9月20日からの劇場公開が決定と、度重なる公開延期の上に(その間に配給のFOXがディズニーに買収されるという大きな変化もあった中で)今回のベネチア国際映画祭でのお披露目にぎりぎりで完成が間にあったと伝えられていたからです。
日本でもあと3週間足らずで公開されるので作品の解説は省かせてもらって、ここではジェームズ・グレイ監督が本作の完成に至るまでの道程や、この映画に込めた思いについて語ったインタヴューでの発言を紹介したいと思います。

『アド・アストラ』では、宇宙飛行士の主人公ロイ・マクブライド(ブラッド・ピット)が、十何年も前に地球外生命体の探索中に宇宙で消息を絶った父親(トミー・リー・ジョーンズ)が実は生存しており、さらに太陽系を滅亡させる可能性のある実験に関与していたことを知らされ、父を探して海王星に旅立つ物語が描かれています。ジェームズ・グレイはこのSF映画を着想したきっかけについて、インタヴュアーの「自分自身の『2001年宇宙の旅』を作ろうという試みだったのか」という質問を踏まえつつこのように答えています。
「『2001年宇宙の旅』は他に類を見ない作品だと思うし、僕にとってベスト5に入るくらい大好きな作品だ。興味深いのはSF映画について考えるとき、スティーヴン・スピルバーグの映画とスタンリー・キューブリックの映画があって、このふたつはかなり異なるんだけど、共通点はどちらもエイリアン(地球外生命体)を扱っているということなんだ。『2001年』に登場するのは良いエイリアンでも悪いエイリアンでもない。彼らは黒い厚板、一枚岩のようなもので、我々はそれに自分の思い描くものを投影する。つまり実際にはエイリアンの実体を見ることができない。一方スピルバーグの映画は美しい寓話で、僕らがE.T.を見てエイリアンの実体や生活に探求心を呼び起こされることはない。『E.T.』で描かれているのは別離を経験する子供であり、彼の孤独であって、だからあの映画は美しいんだ。僕がやりたかったのはそうした映画とは反対のことだ。彼らの映画を愛しているからこそ、それを盗んだりコピーしたりすることはしたくない。僕がやろうとしたことは簡単に言えば、もしそこ(宇宙)に何もいなかったらどうなるだろう?ってことだね。助けが必要なときに擬人的な小さな生物を頼ることができなかったら? あるいは地球を滅ぼそうとする恐ろしいゴブリンみたいな生物がいなかったら? 事実としてもし知的生命体が宇宙にいたとしても僕らは彼らとコミュニケーションをとることはできない。SETI(地球外知的生命体探査)が始まった60年代からずっと信号を送り続けてきたのにいまだに応答はないわけだからね。つまり彼らは僕らと連絡をとることはできないし、僕らのほうからもできない。僕らは決してエイリアンのもとに辿り着けない。ということは、人類は宇宙のなかで孤立しているということになる。生物種にとってこれはどんな意味を持つのだろう? 僕にとってこれはほとんど形而上学的な問題だ」[*2] 「そしてある意味では、真に知られていない、本当の未知の場所というのは、人間の魂の風景だと思う。時々外に目を向けるかわりに(心の)内側を見なければならない。いくら外に目を向け続けても本当の答えは得られない。アーサー・C・クラーク(『2001年宇宙の旅』の原作者)は“我々が宇宙の中で孤立していないにせよ、孤立しているにせよ、どちらも等しく恐ろしいことだ”と言っている。この映画はこうした視点に貫かれ、またこの映画におけるアクションはこうしたアイデアを照射し拡張するための試みとしてあるんだ」[*3]。

ジェームズ・グレイはこれまで監督したすべての作品において脚本も自身で手掛けてきました。『アド・アストラ』だけでなく、これまでもある物語を着想し膨らませ、脚本を書き終えるまでに長時間を費やしてきたといいます。
「これまでの作品もかなり長い時間がかかっている。そうじゃなかったのは『トゥー・ラバーズ』(2008)ぐらいかな。あの作品の脚本だけはかなりはやく書けた。僕は脚本を書くときにまずフォルダーをひとつ作って、その中にあらゆる情報・素材を入れていくんだ。今回はまず火星探索について調べていった。それがどのように試みられて火星に行く人にどんな人材がリクルートされているのかとか。そこから統合失調症のパーソナリティ障害をもった人物というアイデアが生まれた。僕はそうしたあらゆる素材、事柄を調べていった。(中略)ニール・アームストロングとバズ・アルドリン、マイケル・コリンズが(宇宙から地球に帰還した後)隔離病棟から解放されて初めて行った記者会見にも興味をそそられたよ。他の天体を初めて歩いた人間についての話だからね、そこには深遠な形而上学的な意味を持つものがあった。そしてアームストロングは酸素圧とかスイッチの破損のことばかり話していた。彼は真からのエンジニアだったんだね。それがすごく逆説的というか奇妙なことに思えた。そういうタイプの人だからこそ宇宙に行って任務をやり遂げられるんだろうけど、その行動が意味することについて議論したり表現したりすることには不向きなんだ」[*2]。
マーズミッションやアポロ11号の月面着陸など実際に行われた調査やプロジェクトを詳細に調査し、そこに携わった人々について理解を深めることから、『アド・アストラ』の登場人物を構築していったとのことですが、この映画の物語から宇宙探査やSFとは関係のないある映画を思い出す人が多いようです。それはちょうど今年そのファイナルカット版が公開されたフランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』(1979)です。インタヴュアーの「ブラッド・ピットが演じるロイ・マクブライドというキャラクターには『地獄の黙示録』でマーティン・シーンが演じるウィラードの影が感じられる」という意見に対して、グレイはこのように応じています。
「『地獄の黙示録』は僕にとって間違いなく重要な作品だ。でもあの映画におけるマーティン・シーンが演じるウィラード大尉の旅と(『アド・アストラ』のロイ・マクブライドの旅)はかなり違っている。ウィラードはジャングルに戻りたがっているからね。映画の序盤で彼は鏡を殴る――実際にマーティン・シーンが鏡を割って本当に彼の手から血が流れたことで有名なシーンだ。彼はすでに深く傷ついていて、自分が深刻なトラウマを抱えていることに気付いている。でもこの映画のロイはそのことに全く気付いていない。彼は現実から目を逸らしている。それから『地獄の黙示録』ではウィラードは恐怖に立ち向かわなければならないけど、ロイが対峙するのは少し違うものだと思う。彼が立ち向かうのは実の父親で、隠喩としての(精神的な)父親ではない。つまり突き詰めると『アド・アストラ』のほうが楽観的なんだ。ロイは宇宙飛行士になりたかった。彼は宇宙に行ったけど、何もなかった。それが意味するものは何だろう? そのひとつが家に戻るということだった。そして他の人々とともにそこで何かを築こうとしていく」[*2]。
自分の実の父を探す旅とはいえ、主人公のロイは出向く先は何があるかわからない未知の広大な宇宙であり、そして彼はその旅の過程で内なる自分、自身が抱えてきた孤独と向き合うことになります。そのロイを演じたブラッド・ピットはグレイと長年の友人であり、前作『ロスト・シティZ』の製作を担っていましたが(当初の予定ではチャーリー・ハナムが演じた主人公パーシー・フォーセットをピットが演じる予定だったそうですが)、この2人が俳優と監督として共に仕事をするのは今回が初めてでした。グレイは撮影が始まる前にブラッド・ピットを主演に何作もの映画を撮ってきたデヴィッド・フィンチャーに連絡をとり、これまでピットをどのように演出してきたのか訊ねたりもしたとのこと。
「彼(ピット)は僕が思っていた以上に繊細な俳優だ。ものすごく知的で深い洞察力を持っているし、人間の行動をよく理解している。僕がこういうことを言うなんて信じられないことだけど、でもブラッドは過小評価されている俳優のひとりだよ。特に技術的なレベルにおいてね。彼のような役者と仕事ができることに喜びを感じるよ」[*3]。

本作の撮影は2017年8月~12月の約4か月の間で、ロサンゼルス周辺のスタジオ、かつてLAタイムズの印刷工場だった建物を含む様々な場所で行われました。グレイにとっては視覚効果のレベルにおいても新しい挑戦だったようです。
「僕にはたくさんの欠点があるが、そのひとつが難易度を見誤るということだと思う。『ロスト・シティZ』のジャングルでの撮影は本当にひどくて精神的にも辛かった。今回は撮影スタジオに行けばいいし、L.A.にいればいいのだからもっと簡単だと思っていたんだけど、それは大間違いだった。ジャングルよりも大変だった。なぜならあらゆる世界をゼロから作らなければならないからね。ショットを探してカメラを置く場所を決めるだけじゃだめなんだ。すべてを想像しなければならない」[*3]。
本作において多くの場面を占める宇宙船のシーンはもちろんセットを建設して撮影されたわけですが、無重力状態を演出するためにどのような方法を取ったかも明かされています。
「僕はアルフォンソ・キュアロンを心から称賛するよ。彼が『ゼロ・グラヴィティ』をどのように作ったのかはわからないけれど、今となってはそれがどれほど大変なことかはわかるからね。僕らもやれるだけのことはやったけど、かなりオールドスクールな方法になってしまった。無重力状態を描くために僕らはひとつの空間をふたつのセット、水平の(横向き)のセットと垂直の(縦向き)のセットを使って撮影した。水平のセットでは俳優に移動装置の上を動いてもらい、垂直のセットではワイヤーで俳優を吊って下から撮影した。ふたつのセットを使ってワイドショットとクロースアップを組み合わせることは非常に効果的だったよ。でも俳優にとっては愉快じゃなかったと思う。ブラッドや他の俳優たちに安全ベルトを着けさせて上に下に右に左にと引っ張り回すことは申し訳なく思った。垂直のセットでは1日にたったの3~4ショットしか撮影できなかったしね。でも説得力のある映像が撮れたと思う」[*2]。

2017年末に一旦撮影を終えたこのプロジェクトは、それから約1年半という長いポストプロダクションを経ることになります。その一因として明らかになっているのは、エンディングにあたる場面が当初グレイが構想していたものから差し替えられることになり、その変更シーンの追加撮影が今年の初めに行われたというものです。ブラッド・ピットはその変更について「僕はそれを変更ではなく進化ととらえている。このスクリプトに取り組み始めたときから基本的な構造は変わっていない。僕らは月に行こうとして、そのあと火星に行こうとして、さらに海王星に行こうとする。でもその多くが絶えず流動的なものだった。だから最後が変わったのも自然な流れの中での発展だと思う」[*3]と説明していますが、グレイはそれが「妥協」であったことを認めた上で、以下のように発言しています。
「確かに僕はこの映画の封筒に封をしたつもりだったし、昨今の映画の風潮の中でできるかぎり大胆なラストシーンを作れていたと思う。ただ自分が妥協することになっても、この映画を世に出すためならば僕はそれを喜んでやる。それは僕がこの映画でやりたかったことでもあるんだ。途中で妥協が必要とされるのは常にあることだ。こういう規模の映画では常に協調が求められる。映画というのは野生の馬のようなものだ。たとえひとつの部屋に2人の愚か者がいるだけのシンプルな映画であってもね。映画は常に自分から離れていこうとする。監督の仕事や脚本家の挑戦は馬を囲いに入れて手綱を握ることじゃないんだ。そんなことをしたって何も起こらない。この仕事は自分から逃げていく馬をより美しく見せるものを受け入れ、走り去っていく馬の美しさに影響を及ぼすものを取り除くということなんだ。自分の手には負えない。でもそれでいいんだ」[*3]。

*1
https://www.imdb.com/title/tt2935510/?ref_=ttmi_tt
*2
https://deadline.com/2019/08/ad-astra-james-gray-interview-sci-fi-future-fox-venice-1202705879/
*3
https://www.latimes.com/entertainment-arts/movies/story/2019-08-29/ad-astra-brad-pitt-james-gray-disney-fox

黒岩幹子
「boidマガジン」(https://magazine.boid-s.com/ )や「東京中日スポーツ」モータースポーツ面の編集に携わりつつ、雑誌「nobody」「映画芸術」などに寄稿させてもらってます。


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