[728]『バスターのバラード』コーエン兄弟インタビュー


 Netflixが配給権を取得したジョエル&イーサン・コーエン兄弟の最新作『バスターのバラード』(The Ballad of Buster Scruggs)は、ニューヨークとロサンジェルス、サンフランシスコの3つの映画館でごく小規模に四日間上映された後(#01)、彼らのサービスを通じて世界配信された。日本でも同時期から視聴可能となっている。

 世界的話題作をリアルタイムで海外とほぼ同時期に鑑賞できることは大きなメリットだが、Netflixには作品の製作背景や監督インタビューといった映画マニア受けする情報を平行して提供するサービス(ないし文化)が存在せず、また映画館での映画興行と手を携えて発展してきた日本の映画ジャーナリズムもまた、新しいシステムで届けられる作品に対していまだ対応が進んでいないように見える。

 こうした状況から、コーエン兄弟にとってはじめてのデジタル撮影作品であり、短編オムニバスという野心的形式で作られたこの作品について日本語での詳細な情報が不足するのであれば、それはあまりにも残念なことだと言うべきだろう。この記事では、『バスターのバラード』について、コーエン兄弟の幾つかのインタビューから抜粋することで、同作への理解を深める一助となることを目指している。

 まず、同一作家による短編オムニバスという『バスターのバラード』の構想は、どのようにして生まれたのか。(#02)

イーサン:20年前に、このオムニバスのスタートとなる短編を書いたんだ。それは実際の所、映画の冒頭に入れられたティム・ブレイク・ネルソンが出演しているエピソードだった。僕たちはややふざけた気持ちでそれを書いた。実際に映画を作ろうという構想もなしに。と言うのは、短編映画のためのマーケットなんて殆ど存在していないからだ。そしてこれは、シリーズにはならない単独の短編だったんだ。その後、数年間に僕たちはさらに幾つかの短編を書いた。そして突然、これらを一緒にするアイディアを思いついた。あと何本か書けば、まとめて長編になるだろうと考えた。短編集のアンソロジーになると思ったんだ。

ジョエル:はじまりは、だからとても純粋なものだったんだ。それを映画にしたいという実質的な予測や期待もなかったからね。マーケットに汚されてない着想だったんだよ(笑)。

イーサン:ヴィンセント・ギャロは、自己資金で作った最後の長編監督作を劇場公開しなかった。何故なら、そうしたくなかったからだ。彼はその作品を大衆の暗いエネルギーに晒したくなかったんだ。(#03)

 西部劇というジャンルについて。

イーサン:僕たちのように60年代のアメリカ中西部で思春期を過ごすと、西部劇とは縁遠くなるものだ。とりわけ書物としてはね。映画の西部劇も同じだ。ジョン・ウェインでさえ、僕らにはちょっと堅苦しいものだったんだ。

ジョエル:そうだね。セルジオ・レオーネだけは、ガキの頃に見たけど。あの大仰なマカロニ・ウェスタンは僕たちが子供の頃に大喜びで見に行ったし、『ウェスタン』にはひっくり返ったものだ。あれは素晴らしい作品で、同時にとても奇妙なところがある。何か心に引っかかりを感じて考えさせられる作品だと思うよ。

 「死」といったテーマの統一性は、最初から意識的に考えられていたものだろうか。(#04)

イーサン:3つか4つ短編を書いて、これらをまとめれば長編映画になると思った頃、僕たちはそれらの共通点についても考え始めた。それは勿論「死」だ。とりわけ最後のエピソードで明らかだろう。執筆の順番としても、それは実際に最後に書かれたものだったが、僕らはこう考えたんだ。つまり、アンソロジーの最後にこの話が置かれていたら、観客はどう感じるだろうかってね。

 「死」を描いた作品集の最後には、ブレンダン・グリーソンが歌うアイルランドのフォークソング「The Unfortunate Lad」が置かれ、さらにエンドクレジットでもインストゥルメンタルで繰り返されている。

イーサン:あの曲は、死について歌われたとても美しく悲しみを帯びた歌だ。そして殆ど誰もが知っている。少なくともメロディだけは。だから、僕たちとしては、人々に余り知られていない歌詞を付けて、この歌を映画の中で流すのは面白いことだと思えたんだ。この作品の締めくくりとしても、おそらく相応しいだろう。

 1本の映画を6つの短編集として作るには、それぞれ全く違う俳優や衣装、音楽、編集などを準備する必要がある。

イーサン:分裂症になりそうだった。とてつもないストレスだったよ。僕たちが新人監督の頃には、こうした映画を作ることができなかっただろう。

ジョエル:僕たちは何十年も同じ連中と一緒に映画を作ってきた。彼らはとても良い奴らで、映画作りのためのマシーンのように機能している。こうしたおかげで、僕たちは6本の短編からなるアンソロジーを作ることができたわけだ。新人の頃には確かに難しかっただろう。チームを作るには時間がかかるからだ。

 Netflixを通じて作品を公開することについて。

イーサン:僕たちは最初(製作会社の)アンナプルナに話を持って行った。彼らは製作を引き受けて、そのすぐ後に彼らがNetflixと話をまとめたんだ。

ジョエル:Netflixと組むのはとても嬉しかった。彼らは、こうした作品を製作する現在では数少ない会社の一つだからね。もちろん、映画はどのように見られるべきかという問題について様々な議論があることは知っている。劇場公開すべきか、あるいはネット配信だけで良いのか。僕たち自身もこの問題に大きな関心があるし、意見も持っている。でも、より重要なのは、大スタジオのビジネスがマーベル作品や有名なシリーズ物のアクション映画ばかりに注力している現在の状況で、彼らはこうした作品に投資しているってことなんだ。これには議論の余地がない。

 Netflix作品となることで、ドラマシリーズとして作ることは検討したか?

ジョエル:どのような形式の作品にするかは議論したけど、全てのエピソードが一気に見られるものとすることが前提だった。この作品が最初ドラマシリーズとして構想され、後に長編映画として再構築されたという報道があったけど、それは違う。最初から全体のスクリプトが出来ていて、それはアンナプルナに見せたものだし、実際に撮影されたものだ。そこに変化は加えていない。

 Netflixが映画のエコシステムに対する脅威だという意見については?

ジョエル:たぶんその通りだろう(笑)。

イーサン:みんなと同じように、僕たちの中にも矛盾があるんだ。人々が映画館に映画を見に行けば良いと思うけど、同時に僕たちは家のテレビで映画を見たりする。
僕たちが映画の仕事を始めた頃、映画業界はホームビデオをリリースし始めた。多くの観客たちが僕たちの映画をホームビデオで見てきた。僕たちにとっては、これこそが現実なんだ。だからこそ、僕たちはキャリアを築くことができたわけだし、今になってそのことに文句を付けても始まらないんだ。

ジョエル:たぶん、映画館とストリーミングの両者が共存するのが望ましい形だろう。そうなることを願っているよ。映画を作るには膨大な時間がかかる。僕たちは何時間も、何日も、何年もかけてあらゆるディテールやサウンドや全てを作り上げている。それらは映画館の大きなスクリーンで見ることによって全く違う形で体験されるものだ。
もう一つ、とても重要な問題がある。映画館では、見知らぬ人たちの間で映画を見ることになる。リビングルームで友達と一緒に見るんじゃなくてね。こうした経験は決して手放して良いものじゃない。この意味では、映画が家のテレビで見られるだけのものになることは、僕にとって嬉しいことじゃないね。

#01

#02
https://www.npr.org/programs/fresh-air/2018/11/19/669152874
#03
ヴィンセント・ギャロの『Promises Written in Water』(2010)は、ヴェネチアとトロントの2つの映画祭で上映された以外、現在まで配給公開されていない。
#04
https://www.latimes.com/entertainment/movies/la-ca-mn-ballad-of-buster-scruggs-coen-brothers-20181114-story.html

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

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