11月23日からシアター・イメージフォーラムにて始まるアラン・ロブ=グリエ特集に先駆け、IndieTokyoではロブ=グリエの連続作品レビュー企画が進行中。第2弾の今回は、ロブ=グリエ監督による長編第二作目『ヨーロッパ横断特急』(1966)のレビューをお届けします。

 この映画において最も特筆すべき点は、その物語の奇妙な構成だ。いや、「物語」とフィクションめいて表現することも間違っているかもしれない。というのも、この映画は冒頭から、アラン・ロブ=グリエ自身がジャンと呼ばれる映画監督役で登場し、西ヨーロッパで運行される国際列車「ヨーロッパ横断特急(TEE)」に乗り込み、ロブ=グリエの妻カトリーヌ演じるリュセットという助手たちと映画の構想を練る場面で始まるのだ。ジャンは、TEEに乗り込むまでに官能的なポーズを取る女性の写真が載る雑誌を眺めたり、スーツケースを地面に置く怪しげな男に視線を向ける。これらはそのまま彼が撮ろうとする映画の素材となる。その映画もまた『ヨーロッパ横断特急』。つまり、この作品は『ヨーロッパ横断特急』を撮影する映画『ヨーロッパ横断特急』であることが示されるのである。

 では、その「映画内映画」では、一体どんな物語が展開されるのだろうか。ジャンはリュセットが持つ録音機に物語を語り始める。「麻薬の運び屋の男は麻薬を入れるカバンを持ってTEEに乗り、ベルギーのアントワープへ。そこに刑事が乗り込んできて…」。タイトルバックの後、劇中劇へと移行する。ジャン・ルイ=トランティニャンが麻薬の運び屋エリアスを演じる。エリアスは、雑誌を眺め購入し、怪しい男とスーツケースを交換するという冒頭のジャン(ロブ=グリエ)の行動を反復する。が、映画内映画は直線的には進まない。彼がTEEへ乗り込むと、なんとジャンたちが同じ列車に乗っていて、しかも彼らが座るボックス席で相席してしまうのだ。ジャンたちにじろじろと見られ、それを恐れたのか、エリアスは逃げ出す。ジャンと助手たちは話し合う。「トランティニャンを映画に出せよ」「悪くないな」と。

 このように枠組みとなる映画と、映画内映画とが交錯しながら進んでいく。ときに、ジャンたちはそのB級エンタテインメント物語の整合性やサスペンス性という点において失敗し、中断して、そして語り直す。ゆえに、麻薬密輸を題材とするサスペンス映画に通常伴うようなシリアスさはあまりない。この映画の虚構性はすっかり暴かれてしまった状態なのだ。その代わりに、物語がどう転ぶか誰も知らず、また、いつまでちゃんと物語を語り続けられるかわからないという奇妙な印象が与えられる。

 TEEがアントワープに到着しても、その入れ子構造が示唆されることは止まない。たとえば、エリアスがカフェの店長に対し「店長に扮した俳優だよ」と言及したり。しかし一方で、一度その虚構性が暴かれたこの映画に、いつのまにか別の緊張感がもたらされているということがわかる。というのは、エリアスが麻薬の密輸のために他者の視線を気にするが、この視線はこの映画を撮っている監督の視線でもあると既に示されているため、これらを同時に気にしながら演じているように思われるからだ。加えて、カメラの視線は『ヨーロッパ横断特急』を観ている私たち観客の視線にも重なる。つまり、エリアスが「劇中の登場人物たち(ジャンを含む)」「(この映画自体の監督としての)アラン・ロブ=グリエ」「観客である私たち」の3つの視線から隠れて行動しているような緊張感が漂ってくるのである。実際に、中盤にエリアスがカメラに銃を向け、逃げていく場面があるが、自分を常に見続けるカメラに対して、強い怖れを感じているように思える。私たちが「見ていること」、映画内の人物は「見られていること」が強く意識され続けられるのだ。

 だが、映画の重要な要素はこれだけではない。マリー=フランス・ピジェ演じる娼婦エヴァ(麻薬組織の手先であると言及される)が登場すると、また映画の様相は変化する。エリアスと彼女の、いわば「SMプレイ」が繰り広げられるのである。だが、ここにはただ官能的と表すだけでは収まらない、強烈な「快楽」が感じられる。なぜだろうか。この映画には、誰に見られているか、一体誰が見ているのかという緊張感が漲っているというのは上述した通りだ。さらに、エリアスがエヴァに対しジャンと名乗ったりと、虚構と現実の区別がわからない、誰が誰を演じているのか、そもそも演じていないのかわからないという不気味で不安定な雰囲気が漂う。その中で、エヴァはカメラに向かって、もしくは私たちに向かって誘惑するような視線を投げ、エリアスとの「SMプレイ」が画面で繰り広げる。ここにためらいや戸惑いはなく、ただ純粋なエロスが充満している。メタによる不安定さや誰が物語を操っているのかという緊張感とは距離が置かれた、ただただ凛然と快楽だけが聳え立っているのだ。ということはつまり、この映画においては、快楽だけが確かな、安定したものに感じられるのである。また、このような場面にはジャンやリュセットのコメントは入らず、数少ない自律した場面であるようにも思える。これが、『ヨーロッパ横断特急』のもうひとつの顔である。

 ジャンらがコミカルに試行錯誤する虚構の麻薬密輸の物語と、強烈な快楽の場面とが交差しながら、ときに連関しながら映画は進んでいく。この劇中劇において、エリアスは麻薬組織の監視と警察の監視との間で踊らされることとなり、ますます「見られている」という緊張感は高まっていく。また、快楽の場面もしばしば訪れ、エリアスを、ロブ=グリエを、私たちを魅了する。そして、前者の緊張感と後者の背徳的な緊張感とが同期して、私たちはめくるめく快楽の螺旋階段を登っていくことになるのだ。

 この階段を登り着いた先の合流地点である帰結を書くことは避けるが、なぜロブ=グリエはこうした不安定な虚構と、圧倒的な強度を持つ快楽の現実とを行き来させるのだろうか。ロブ=グリエによる「生成装置の選択について」というエッセイからそのヒントが得られるように思える。

 「私の生成装置となるテーマは(…)しだいに、同時代の大衆的なイメージの総体から選ばれるようになってきています。(…)駅頭で売られている小説のイラストを駆使した表紙、巨大なポスター、セックス・ショップのポルノ雑誌、モード雑誌のつるつるした広告、のっぺりと描かれた漫画の人物もそうですが、これを別のことばで言えば、私のいわゆる深層に取って代わったすべてのものであり、私の内面から狩りだされ、今日ではショーウィンドウの煌々たる照明の下とか都市の壁じたいに張り付けられてしまったこの自我に取って代わったすべてのもの、ということです。」(アラン・ロブ=グリエ「生成装置の選択について」芳川泰久・山崎敦訳、『早稲田文学1』2008年、太田出版)

 つまり、B級的なイメージから作られた虚構も、強い性的な快楽も同時に作品の生成装置=作品の駆動力であり、かつ、ロブ=グリエの自我を代替した「同時代の大衆的なイメージ」なのである。思えば、二つの要素のどちらも、キッチュさという点で共通していると言えよう。ゆえに、このイメージを起点としてアラン・ロブ=グリエという作家を考えたときに、彼の作家像が見えてくるのではないだろうか。だが、この仮説の証明には彼の他の映画や小説による検討が必要だろう。実際に、ロブ=グリエのそれらには共通する主題やアイテムが多いこと、また、そもそも対象の描写についてロブ=グリエの小説と映画の連関は強い結びつきのもとにあるということは多く論じられているようである。

 さて、以上のことから考えると、『ヨーロッパ横断特急』含む6作品が上映される「アラン・ロブ=グリエ特集」、必見であることは間違いなさそうだ。そこではアラン・ロブ=グリエという作家の姿が垣間見えるだけでなく、彼が活躍した時代のイメージが迸る様を鮮烈に受け取れるのだろう。IndieTokyoでは他の作品のレビューもアップされていくので、それを読みながら、ぜひシアター・イメージフォーラムへ。特急に乗って。


『ヨーロッパ横断特急』
監督・脚本:アラン・ロブ=グリエ
編集:ボブ・ウェイド
出演:ジャン=ルイ・トランティニャン(『男と女』『狼は天使の匂い』)、マリー=フランス・ピジェ(『アントワーヌとコレット/二十歳の恋』『さよならの微笑』)、クリスチャン・バルビエール(『影の軍隊』)

1966年/フランス=ベルギー/モノクロ/ヴィスタ/95分/DCP
原題:TRANS-EUROP-EXPRESS  日本後字幕:金澤壮子
(c)1966 IMEC

アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティブ公式HP
http://www.zaziefilms.com/arg2018/index.html
シアター・イメージフォーラム
http://www.imageforum.co.jp/theatre/

川本瑠
96年生まれ。大学で演劇に没頭し、俳優活動などを行う。現在は文化の豊かさのための場を作ることを模索中。映画における身体性に興味があります。会社員として働きながら、知識を摂取する時間を日々なんとか確保するために奮闘しています。