「今日も 眠って 生きていく」──舞台は北区。床ずれができるほどよく眠ってしまう主人公の静かな日常が少しずつ揺らいでいく。映画『ふゆうするさかいめ』が、6月18日(金)まで池袋シネマ・ロサ「インディーズ・フィルムショウ」にて公開されています。
IndieTokyoメンバーとしても活動していた住本尚子監督にインタビューを行い、長編デビュー作である本作の背景や制作の過程についてなどのたくさんの質問に応じて頂きました。
描きたいものを描くなら自分の身近な場所でやりたい
ーまずはタイトルにもなっている「さかいめ」というアイデアのきっかけを教えてください。
もともと眠ることがすごく好きだったので、眠りについての映画を作ろうと思いました。睡眠ってなんなんだろうかと考えた時に、今日と明日の間にある、はっきりとしていないあやふやなものだと思ったんです。でも、眠らなかったら眠らなかったでいつ「明日」が来るんだろうとか、いつからが「今日」だったんだろうと思ったりしますよね。睡眠によってそれが決まっているのかもしれない、睡眠がテーマということは境があやふやなものについてなんだな、と気づいて、そこから自分が描きたいのはそういうもの──白黒はっきりしない世界に憧れがあるというか、物事をはっきりさせたくないみたいなところが少しあるので、それが物語になっていきました。
ー当初は全て十条の街で撮影しようと考えていたそうですが、どのようにロケ地を決めていったのでしょうか。撮影当時は十条に住んでいらっしゃったそうですね。
十条の街が、当時私が住んでいたっていうのもあって自分の日常に近い風景だったんです。どこかのロケ地を選ぶという感覚があんまりなくて、自分の描きたいものを描くなら自分の身近な場所でやりたい、みたいなこともあって十条で撮ろうと思いました。実際に十条も開発が進んでいたりしていて、昔ながらの街並みとか商店街はもちろんあるんですけど、だんだん変化していくっていうところにも、「さかいめ」があるかなってちょっと思っています。今の十条とか、そういう街の姿を残すために撮っているわけではないので、実際はそんなに「街」っていう風には実際は写ってはいないんですけど、何か残しておきたいなという気持ちがあって選びました。
ー「生活と地続きな映画」についてのウェブマガジン「filmground」などでイラストやエッセイを書かれているイメージも強いのですが、そういった活動とこの映画の関係を教えてください。それらがこの映画に影響を与えたり、逆にこの映画がそれらに影響を与えたりしたことはありましたか?
私が映画を観るときは、どちらかというと作品を分析するとか背景を考えるよりも、まずは映画を自分にどう落とし込もうかという風に見るのが好きで、主人公と自分を重ね合わせることも勿論あるんですけど…大抵映画には、自分とは全く違う世界に生きている人が出てきますよね。それでも自分と共通のところもあるっていうことが映画を観ているときの発見で、そこから学べることもすごく多いと思います。映画というものは、エンターテイメントだとか、ある「作品」というよりは、何か自分の生活に落とし込むようなひとつのものというイメージがあります。自分が映画を作る時も、観た時に自分の生活に馴染むというか、生活が変わらなくても、何かちょっと良かったな、みたいな…例えるなら「お薬」じゃないですけど、観たらああ良かったな、と何か思える安心感みたいなもののある作品を作れたらいいなと常に思っていて…絵を描く時もそうだし、文章を書く時も、映画を撮る時もそういう気持ちが根本的にあるかな、と思います。
ー2019年の12月に谷中にあるギャラリー「トタン」で行われたこの映画の上映について教えて下さい。1階でくつろいだ後、2階に上がって布団の敷いてある部屋で寝ながら見て下さい、というあの空間も含めてこの映画の完成形のひとつのようで印象に残っています。あの展示はどのように計画されましたか?
もともと「トタン」の方に何かやりましょうと言って頂いたのが、ちょうどこの映画を完成させなければ!と感じていた時期で、ちょうどいいタイミングということで、トタンで上映をしようということになったんです。部屋が1階と2階に分かれているし、「自分の映画館」みたいなものが作れるような気がしていて。絵を描いているのでそれを飾ったり、映画に関係するものも飾りつつ…でも、寝ながら映画を観るっていうのが私の憧れだったんですよね。タイムスケジュールも決めていなかったので、人が集まったら上映を始める、みたいな感じで遅れてくる人になるべく合わせる時間もあって、待ち時間はお菓子を食べたりお酒を飲んだり、そういう自分が大好きな快楽に溺れるような空間にしたくて(笑)。それでああいう空間になったんです。ただ、私は場所を作るのが好きなんだろうな、とは思います。誰かが来てくれて楽しそうにしているのを見ると、やって良かったなと思えたし、すごく貴重な機会でした。
いつもそばにいるものに注目した映画
ー劇中の布団の描写がとても面白くて、布団を台車に括り付けたり一緒にダンスを踊ったり、まるでもう一人の登場人物のような存在感があって印象に残っています。布団をどのように描こうと考えていましたか。
この映画のテーマを「睡眠」にした時に、どういう映画にしようかな、と思って…布団が注目されるような映画ってあんまりないということに気がついて。映画に寝ているシーンは基本的にあるんですよ。人の生活を描いているから、寝るとか起き上がるとかの描写はあるんですけど、布団を買ってそれを選んだり、布団によって人と出会うとか、そういう映画はあんまり見たことがないな、と。私自身もすごく寝てしまうので、長い時間寝ていると腰が痛くなっちゃうこととかがやっぱり多くて(笑)、布団のことを調べていた時期があったんです。布団を選ぶのも面白いな、と思ったり、布団を切るところはやっぱりやってみたいっていうのがあったんですけど。ただ、布団自体は私たちのそばにいるじゃないですか、寝ている時に。そういう普段からそばにいるものというか、私はものに対しても思い入れが強くて、なかなかものが捨てられないとかもあるんです──例えばボールペンとか、色んなものが大好きで。布団も好きだから、もっとそばにいてほしいなって(笑)。最後は切られちゃうんですけど、もっと一緒にいる、そばにいるっていうような映画を自分も見てみたいなと思ったのもきっかけのひとつでした。
ーマリノの両親やマモルが布団販売の営業の仕事で尋ねた家の奥さんのように、もうこの世にはいない人の姿も登場しますね。この映画の中では「死」というのもひとつの眠りのかたちのように描いているのかもしれないと思ったのですが。
それは私の中では、過去の記憶を忘れていってしまうとかそういう感覚かな…もともと私も過去のことを忘れがちなんですけど、寝ている時って「無」なんですよね。夢は見ていると思うんですけど、この世に存在しているようでしていないような感覚の時間だと思っていて。何というか、私はそんなに「よし、生きるぞ!」という気持ちでは生きていなくて、生きているから何かやろうというか…だから寝ている間は何も考えなくて済んでいるっていうのは幸福なんです。それが幸せだから、記憶というものに対してあまりこだわりたくない。過去のこととか、もちろん未来とかも…もともと、なんで寝てしまうのかって考えると、過去にこういうことすれば良かったとか、未来のことが心配でごちゃごちゃ考えてしまうのがしんどくて、そういうことを考えなくて良いのが睡眠だなぁって思います。なので、記憶とか過去に関してはそういう気持ちもあるんですけど…「死」に関しては自分の中ではあんまりこの映画で眠りとは繋げていない気がします。
「うまく生きられないけど良い日だったな、という一日の終わりのような」エンディング
ーマリノは「過去は自分の捉えようでいくらでも変えられる」と言います。喫茶店でマリノがマモルの伝票を燃やして「ほら、もうないよ」という場面も彼女の考え方が表れているように思えるのですが、手品のように消したはずの伝票の切れ端がきっかけでミノリと再会しますよね。やっぱりすでにある物事は、自分の捉えようには関係なく「なかったこと」にはできないと思いますか。
「過去のことは自分の捉えようでいくらでも変えられる」とマリノが言うように、基本的には私も同じように思っていたんです。始めからないと思えばないし、例えば服についている染みも、とれなければそれは最初から染みではない!みたいに考えたり(笑)。自分の捉え方で世界は変えられるというふうに思っていて、普段からそういう考え方をしていることはあると思います。ただ、映画を見て自分の考え方が変わることもあるんですけど、根本的には人はガラッとは変われないなって思って。マリノも結局は両親の面影を見てしまったりしますけど、記憶も──急に記憶って思い出したりしますよね。ボーっとしてたらすごく嫌なことを言われたことを急に思い出したりとかあるじゃないですか(笑)。私は妄想癖もあるので、思い出したらそこから頭の中でその人と会話が始まってしまうんです。あの時もっとこういうふうに言えば良かったんじゃないかとか、そういうことがすごく多くて。結局、捉え方で変われると思いつつ、ふと現れる記憶に打ち勝てなくて、それが悔しいと思うこともあって。だからこそ、寝ている時はそんなことに邪魔されたくないというか──夢にまで現れたらすごくショックですけどね(笑)。ただ、そういう生きていると突発的に甦ってきてしまう記憶にはなかなか打ち勝てないな、とは正直思っています。最終的にはそれなりに折り合いをつけて生きていかなくてはいけないな、ということで、映画は私にとっては楽観的に終わらせたんです。でもまあ、「踊ろう」って。解決はできていないし、そんなに変わっていないし、でもちょっとすっきりしたかも、みたいに。何かよくわからないけど気持ちよく終わりたいな、というところがあって、そこが私の希望というか…うまく生きられないけど、良い日もあったな、という一日の終わりのような感じで映画を終わらせたかったんです。ーうまくは生きられないけど、「踊ろう」っていうあの着地だったんですね。
踊ることによって何も解決はしないんですよね。「それで何?この映画は」って言われてしまったらそれでおしまいなんですけど、「踊る」っていうのは「眠る」とは正反対なところがあって、生きていて、起きていて、動いている。その二つは全然違っていて静と動みたいな感じではあるんですけど、踊っているときはすごく楽しくてそれも忘れられるし、ああいう楽しさみたいなもので絶対に映画を終わらせたいなって思っていたんです。アピチャッポンの作品でも、最後急に踊って終わる、とかあるじゃないですか。ああいうのにすごく憧れていて、「ああ、踊って終わるなんて最高だよな」って思って、それでやりたいなって(笑)。
ーでも、喫茶店でエキストラの人たちが踊っている姿を見るだけで、何か良かったな、と思えました。
集まってくれたエキストラの人たちには、あんまりしっかり踊ることは説明していなかったかな…一応伝えてはいたんですけど、振り付けがあることを言っていなかったので、みんなびっくりしていました。「踊るんですか?」「踊ります!」みたいな感じで(笑)。「そうなんだ!」という感じだったんですが、みんな踊って下さったので本当に有り難かったです。
一応エキストラの方のスケジュールを作って、この日はあの人、みたいな感じで、服装とかも一応お願いして。ランニングスーツを着てきてくださいとか、職場っぽい感じでこの人にはこれを着てくださいとか。一人一人にお願いして、何となくそんな雰囲気でやって頂いたんですけど。「最後はみんなもいるよ」っていう感じでエンディングは絶対に踊って終わらせたいというのは決めていたことなので、やって頂きました(笑)。
「ずっと変わり続けていく」渋谷の街
ーマリノとミノリが再会して渋谷に遊びに出かける場面について教えてください。あの渋谷の風景が今となっては少し懐かしい感じがするというか…。流れている流行の歌だったり、インバウンドの観光客で盛り上がっている雰囲気とか、今とは全然違うなと感じたのですが、撮ったのは3年前ですか?
そうです。
ー「これが今なんだよ」って言って見せられるものが私にとっては少し懐かしくて、不思議な感じがしました。十条の話をされた時に、街の変化を残すために撮っているわけではないとおっしゃいましたが、結果的にはそういった変化が映画に残っていますね。
もともとこの映画は、過去とか未来とかの概念的な話にしようかとも考えていて、マリノが「過去」でミノリが「未来」みたいな名前で最初は考えていたりもしていたんです。その時は十条がそんなに開発されるとは思っていなかったんですけど、だからこそ古い町並みでずっと残っていく場所、みたいな意識があって。でも渋谷はいつも変わり続けている「未来」みたいな場所というか、いつが「今」なのかわからない、ずっと変わり続けていく街みたいな感じで、「未来」と「過去」のイメージも持っていました。渋谷って本当に定まっていないというか、こういう街だ、みたいなものがないと思っていて、だからこそ撮っておきたかったですね。あの開発中の状態というか、まさに「今」だっていう状況を──渋谷は今もそういう感じですけど。だから工事中の風景というか、警備員さんの姿とか重機とかのショットを撮っておいたんです。撮っておくことによっていつか渋谷の開発が終わったりしたときに、渋谷ってこういうところだったなって思えるんじゃないかな、と。それは職場が渋谷にあったことも大きかったです。よく行く場所でもあったんですけど、小学生の時にはマンガを読んでギャルの街だ!とか思っていたけど、毎日行くようになると意外と日常なんですよね。地元にいた頃は「渋谷すげえ!」みたいなテンションもあったんですけど(笑)、いざ行ってみたら普通に歩いて、どんどん変わっていく街というのが普通の日常になっていったので、そういう気持ちで撮ろうかな、と。でもマリノみたいに、本当に久しぶりに行ったら全く違う街だと思うからこそ、その感覚の違いも描けるな、と思って撮りました。
ーあの渋谷のシーンだけ、他の場面と少し撮り方というか、雰囲気が違うような気がします。
それは意図していないところもあるんですけど…撮影を担当してくれていた小川くんが来られなくなってしまって、あの場面ではカメラを私が回さなくちゃいけなくなったんです。渋谷の場面だけは私が撮っているので、不慣れながらも本当に自分が撮りたい画を撮ったみたいなところがあって…でも、それはそれで良かったかもと思うところもあります。すごく人混みの多い中で撮ったので…カメラは3人で回していて、それぞれにカメラマンの個性も出ているみたいで、渋谷は完全に私が撮っていました。
ー監督と役者さんと録音のスタッフさんだけ、みたいな感じだったんですか?
そうです。だから「待って、ちょっと待って!」みたいな感じでピントを合わせたりして、かなり焦っていたと思います。絶対自分ではカメラ回せないな、と思いました(笑)。
「好き」という気持ちが何かに発展しなくても良い
ーマリノとミノリ、マモルの三人の関係について教えてください。ある意味、恋人同士であるミノリとマモルの元にマリノが現れたようにも思えますが、この三人の関係は映画の中では恋愛の三角関係のような感じには描いていないですよね。
大体の映画って男性2人に女性が1人とか、あるいは逆だったり男性3人かもしれませんが、3人の関係って結構ありますよね。どうしても恋愛が絡むことが多くて、私はそれがちょっと嫌というわけではないんですけど、そうじゃない映画が観たいと思っていて。登場人物の人間関係で、どうしてもお互いに惹かれあって事が起きなくてはいけない感じがあるんですよ。それは勿論そういうことが実際の人生でも起こるからこそそうなっているとは思うんですけど、でもそうじゃない人間も一方ではいるというか。恋愛じゃなくても人に惹かれるということは必ずあると思うんですけど、そういう人間関係をもっとふわっと描きたかったなというのがあります。ミノリとマモルは恋人同士なんですけど、あんまりそんなに付き合っている感じにも見えないというか(笑)。
ー面倒を見るお姉ちゃんと弟、みたいに見えるところもありますよね。
でもそういう恋人関係も絶対ありますよね。マリノとミノリも、友人関係ではあるけれどミノリは本当にマリノのことが好きで、ではそれは友情の感情なのか恋愛の感情なのか、みたいなことも特に定める必要もないと思っていて。本当に「好き」という気持ちですよね。マモルもマリノに対して、あるいはマリノもマモルに対して「好きだな」とは思っているけれども、そこから何かに発展しなくてはいけないというわけではないと思っていて。「好きだな」と思ったその時に一緒にいられたらそれで人生良いじゃないか、と。「恋人」とか「好き」とか「好きじゃない」という物語じゃなくて、本当にその人と一緒にいたい、みたいなことだけでも人生は成り立つなと思っていて、そういう環境を描きたかったんです。
ー2人ではなくて3人の関係、つまり2人で成り立っている関係のバランスを崩すことが映画を面白くする要素だという話を聞いたことがあるのですが、たしかにこの映画はそういうふうには描いていませんね。
ミノリが最後、マリノとマモルが一緒にいるのを見ているのを少し心配そうな表情だけで描いたんですけれども、それは私も「ミノリは複雑なんだろうな…」と思っていたからです。でも特にミノリがどうしたいかとまでは描いていなくて。マリノとマモル、どっちのことも好きだから、どうして良いかわからないっていうのをそのままで描いたんです。観ている人からすれば「マリノはマモルを奪ってるのかな、マモルと一緒に寝てるし」みたいに思われることもありますが、私はそんな感覚では全く描いていないです。あれってワープしているし、本当に一緒に寝ているのかどうかもよくわからないじゃないですか。ああいう時に一緒にいて、「おはようございます」って言えるっていうのが良いなって。寝ている時って記憶がないので、本当に一緒にいたのかどうかもお互いによくわかっていないんじゃないかと思います。でも「じゃあ、行きましょうか」って言って出ていける、また次に会った時もそういう風に会えるんじゃないかな、みたいな関係──次にはもう会いづらいとかじゃなくて、たまたま会って一緒にいて、もしかしたら次もたまたま会うかもしれないね、という偶然によって関係が成り立つ世界が良いな、とは思っています。
「仕事をする」という現実的な世界
ーマモルが布団販売の営業をする場面がありますが、マモルの気持ちに共感する人もいれば、上司の棚田の言っていることもごもっともというか、見る人によって受け止め方が違うところのような気がします。あまり欲しがっていそうにも見えない老人に高価な布団を売るような、他人の意に沿わないことはあまりやりたくない、とマモルは感じているように見えたのですが、どういった理由であの場面を描いたのでしょうか。
もともとあのシーンを描いたのは、例えば私が映画を作ったり絵を描いたりした時に値段をつけるというのがとても難しいからです。自分が何かを作り出したとしても、それをどんな人にどうやって届けるのかっていうところがなかなか考えられないなって思った時に、ひとつの会社の中の営業と作る人の存在が浮かんで。マモルの葛藤は私の葛藤で、そんなに欲しがっていない人に対して高いものを売るってどうなんだろうとは思うけど、でも自分で価値を作り出さなくてはいけないっていうのが棚田さんの言っていることですよね。ただ、棚田さんを悪者にはしたくなかったんです。本当に仕事熱心で、営業ってこういうものじゃないかっていうのを私自身もすごく思っているし、ああいうふうに物に価値をつけてそれを宣伝できる人をすごく尊敬しているので、そういう人の意見も入れながら自分の葛藤も入れて描きたかったというか…あとは仕事をしている人の仕事風景が好きなんですよね。それを映画の一要素にするんじゃなくて、本当にそういう仕事場の雰囲気を見るのが好きで、──東十条にどら焼き屋さんがあるんですけど、そのお店のみんなの動きがエキスパートなんですよ。一人一人の担当が決まっていて、すごく並ぶお店なんですけど、誰が何をするかとか、どういうふうに動くかの所作だけですごく画になっていて。この営業の場面については画にはなっていないかもしれないですけど、そういう人の仕事風景みたいなものを見るのが好きだったんです。なんでこんなに時間をかけて描いているのかと言われたりもしたんですけど、でもああいうのってずっと見ていられるし聞いていられるというか、あの時間は一番「現実」ですよね。亡くなった奥さんが見えてますけど(笑)。ただ、私たちは仕事をしながらそういう現実的な世界にいて、でもうまくいかない(笑)。…というのを描けたらなと。
ーちなみに棚田を演じた南波俊介さんは実際に営業のお仕事をされている方とのことですが、撮影はいかがでしたか。
南波さんは十条の飲み仲間で、本当に映画とかには全く出たことのない方だったので、最初の読み合わせの時はすごく緊張されていて(笑)。でも「南波さんが普段営業をされている時の感じで良いですよ」って言ったら本当に普段の感じでやって下さって、「それです!」と。なので南波さんの普段のお仕事の雰囲気がそのまま出ているというか…本当に好演ですよね。
ー南波さん以外にも、本編全体に普段は俳優ではない人がたくさん出演されていますね。
マモル役の尾上貴宏くんは舞台の俳優をされているんですが、あとはみんな私が出て欲しいって言って──もともとの友達や知り合いに声をかけて。マリノちゃんも友達だったし、美乃里ちゃんも同じ職場で働いていたし、あとは布団の営業を受けるおじさんも、今は閉店してしまったんですけど十条の「G1ラーメン」の元店主です。その奥さん役も十条の「扉明日」というスナックのママで、実際にご夫婦です。マリノちゃんの両親役も、十条で「Kitchen&Bar ひ」というお店をやっているひぃママがお母さん役で、お父さん役は十条で銀細工をやっていて「銀さん」って呼ばれているんですけど、そのお二人もご夫婦です。十条に住んでいる方に出てもらいたい!と思ってお願いして出演してもらいました。
「自分がやりたいから集めているんでしょ、私!」
ー準備段階では、撮影のロケ地を探すのが大変だったと聞きました。なかなか撮影の許可が出なかったということでしょうか。
喫茶店と布団工場を探すのが難しくて。喫茶店は十条にある喫茶店で最初は当て書きしていたくらいだったんですけどダメで、赤羽の方まで広く調べてみたら大丈夫かもしれないよ、って言ってくださって実際にご協力いただけたりとか、布団工場は高崎まで行ったり…本当に、脚本を書く段階で色々考えておけば良かったんですけど、まさかこんなに大変だとは思っていなかったです。一番大変だったかもしれないです。脚本を書いてお願いするというのを全部一人でやっていたので…制作で関わっている人もいないしプロデューサーもいないし、自分がやりたいから集めているんでしょ、私!みたいな感じで自分に言い聞かせて(笑)。
ー制作部のような存在はいなくて、全部ご自身でされていたんですね。
撮影のスケジュールとかも自分で組んでいたのですが、もともとそういうことが苦手だったので──みんな苦手かもしれないですけど、それが一番大変でしたね。撮影は色んな人が手伝ってくれて、色んな知識を教えてもらったり現場で協力してもらっていたんですけど、制作は本当に自分でやるしかなくて。でも、私が作りたいから私がちゃんと熱意を持ってお願いしないと伝わらないなとも思っていたので、そこは自分でやりたいとも思っていました。本当に色んな場所に企画書を渡したりとか電話をかけたり…すごくやりましたね。あとは協力してもらえそうな人にどこかありませんかっていうことで教えてもらったりもしました。
撮影のスタッフはそれこそIndieTokyoにいた人だったり、同じ職場で知り合った人だったり、あとは当時住んでいた十条の人にお願いして…なので自分に関わりのある人全員にお願いしたというか。本当に自分の持ちうる全ての人間関係を駆使したという感じです(笑)。
「色んなことの許される」世界を描きたい
ー日常を生きていく中での辛いことや難しいことによって立ち止まってしまうことを許してくれるような、優しさのある映画のように思います。穿ったような見方かもしれませんが、それは映画の世界でも議論になることの多いハラスメントの問題に対する姿勢も表れているのかもしれないと私個人は思ったのですが、この映画についてそういったことを意識されたことはありましたか。
脚本を書き始めたのは2017年で、撮影したのは2018年だったので、撮影などの最初の段階では、映画を作る上でどういうことがハラスメントだとか搾取だとかは正直考えられていなくて。最近は考えるようになってきた分、宣伝の時はちゃんとお支払いしたいな、とかそういう意識は変わったような気がします。ただ、自分もなかなか配慮が行き届いていないことが多くて、それに悩みつつやっているような感じではあるんですけど…。うーん…この映画の内容に関しては何というか…なるべく出来ない人に合わせたいな、みたいなことは思っています。社会に対して順応しきれないというか、例えばマリノも仕事中にすぐどこかに出て行ってしまったり、現実だと絶対許されないはずなんですけど、そんなに言及されない。あの映画の中では色んなことが許されているんですね。映画の中ではなるべくそういう世界を描きたいし、自分もそういうふうに生きたいなとは思っています。自分も許されたいし他人のことも許したい。なるべく、何か出来ないとかそういうことに対して強い言葉で言うとかではなくて「出来ないなら私ができるところはやろう」みたいな、助け合うみたいなことは常に──まあ、自分が出来ないところも多いんですけど、自分ができることが何かあればやりたいとは思うし、そういうふうに人間関係を作れたらいいな、という考えは映画に影響していると思います。
ー最後に、公開に向けての意気込みを教えてください。
コロナ禍で家にいることが多くなった人も、それが辛い人も多分いると思うんですけど、「眠る」っていうことに関して以前より身近になった人が増えたのかなとも思っています。勿論変わらない人もいるとは思うんですけど、ちょっと何かを見直そうという時間を作る人もいるのかな、と思うと、そういう時期にこの映画が公開できたのはもしかしたら良い機会なのかも、と思えてきて。本当に休み休みでいいと思うので、タイミングが合えば是非みなさんに観にきてもらいたいな、と思っています。
たくさん眠りすぎてしまう主人公は、パジャマ姿のまま仕事に行き、布団を抱えながら歩く。公園の砂場には過去の記憶のように携帯電話が埋まっていて、もうこの世にはいない人も一緒にダンスを踊りだす。この映画が描いているのは少し不思議で可愛らしい世界のようだが、ただしそれは、ただふわふわとした夢の中のような世界ではない。主人公たちは私たちと同じようにその中で寝て起きて仕事をして、どうにか生きていかなくてはならない。「前だけ見ているから突然襲われるんだよ」とは劇中のマリノの台詞だが、どうにか生きていかなくてはならない世界の中で生きていくには、時には振り返り立ち止まって、眠って休んでも良い。この映画の中の「睡眠」とは、ひとつの切実な生き方でもある一方で、映画そのものは「前向きに生きなくてはいけない」「眠って休まなくてはいけない」といったひとつの強烈なメッセージから許された世界を描いているのだと感じたインタビューでした。
なお、『ふゆうするさかいめ』については作品レビューや、監督と空族・相澤虎之助さんによる対談などでもご紹介しています。こちらもぜひご覧ください。
『ふゆうするさかいめ』
監督・脚本・撮影・編集:住本尚子
出演:カワシママリノ 鈴木美乃里 尾上貴宏 ハマダチヒロ 南波俊介 笠井和夫 笠井正子 小島博子 小島信一 横井心梛 伊藤はな
2020年|日本|カラー|ビスタ|65分|英題:Floating Borderline
公式サイト
©︎NAOKO SUMIMOTO
6月12日(土)~18日(金)池袋シネマ・ロサにて一週間限定レイトショー
連日19時20分より上映中
吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感じが好きです。