サミュエル・フラー監督作『裸のキッス』が暴き出すアメリカの偽善社会(フラー男子)


naked-kiss1この映画は、激しく疾走するようなジャズ音楽のリズムに合わせるかのように、コンスタンス・タワーズ演じる売春婦ケリーが、その元締めの男性をハンドバッグで何度も殴打するシーンで幕を開ける。キャメラが真正面から捉えるその見開かれた瞳からは、心の奥から燃え上がるような怒りが伝わってくる。また、激しく身体を動かす際にウィッグがずり落ち、坊主頭が露になるというシークエンスは観客に衝撃的な印象を与える。そして、元締めの男性を打ちのめした後、雰囲気は一変し、まさにラブロマンスの始まりを予感させる壮大で美しいポール・ダンラップの音楽が流れ始める。その音楽を背景に、ケリーは鏡の前で、その暴力的な行動を上塗りするかのように、ウィッグを整え、化粧をするのである。このオープニングは、作品全体の物語を表すだけでなく、この作品が主題とするアメリカの「暗」と「明」の中で展開される偽善を象徴的に暴き出している。

小さな町の警部であるグリフは、その職業ゆえに町では信頼を獲得して生活しているが、裏ではその権力を利用して売春宿と通じている。その警部は、自分の統括する町を清潔な町であると主張するが、裏の顔を持つ彼の言葉からは偽善的な響きを感じずにはいられない。ケリーはその警部と一夜を共にしたが、売春婦から足を洗うことを決意し、障害者の子供たちが入院する病院で働き始める。夜の暗闇の中にいた売春婦が、看護婦となり、母親のように太陽光あふれる病院で子供たちの面倒を見るシーンは、希望に満ちている。しかし、彼女の売春婦という過去は、彼女の存在を卑しいものとして貶め続けるのである。ゲイル・ルービンが論じたように、性的なカーストでは、売春婦とは下位に位置づけられる。一方で、その売春婦と通じている警部グリフは、映画内では糾弾されることがない。ここには、明らかな職業やジェンダーの差別が潜んでいる。人々は潜在的に序列や階層を生み出し、社会的な地位や名誉を利用することでその虚構のヒエラルキーの下位の人々を蔑むのである。サミュエル・フラー監督は、冒頭のシーンにおける売春婦ケリーの存在を次のように語っている。

「大切なのは、女が淫売屋の主人を殴るところだ。女は彼から、彼が女から盗んだ分の金だけを奪う。彼は女を騙していたんだ。…彼女には訴える手段がない。娼婦としてストを打つことができない。これは不公平だとわたしは思うんだ。」(サミュエル・フラー著 『映画は戦場だ!』より抜粋)

病院に入院している子供たちによって形成されている空間では、様々な宗教や人種の人間が混じり合っている。これは非常に意図的なことである。この映画内においては子供は唯一の純粋な存在であり、ケリーの夢の中で子供たちが自由に走り回るシーンは、幻想的である。アメリカにおける腐敗した道徳とは対照的な世界である。そして、それ故に、その理想化された夢の空間が美しければ美しいほど、現実における差別の影はその色の濃さを増しているようにも感じられる。

the-naked-kissオープニングのタイトルバックに流れるラブロマンスを彷彿とさせる音楽の背景には、ケリーとグラントの関係が中心にある。ケリーとグラントがソファでベートーヴェンの『月光ソナタ』を聴きながら、その情景を語り合うシーンは想像力に訴えかける。詩人のレルシュタープがこの第一楽章を形容した言葉「スイスのルツェルン湖の月光に波にゆらぐ小舟のように」を題材として2人は自分の姿をそこに重ねる。月光は月影でもあり、その表裏一体性は、2人の関係から映画全体を暗示する。また、2人の会話はベートーヴェンの恋人にまで及ぶ。『月光ソナタ』は、当時、ベートーヴェンが恋をした伯爵令嬢ジュリエッタ・グィチアルディに献呈されている。しかし、ベートーヴェンは、彼女とは身分の違いにより結婚を諦めたことを手紙に記しているのである。かつて売春婦であり、現在は看護婦のケリーと、富豪のグラントもまた身分が異なる存在である。ケリーにとって、その時のグラントはあたかもおとぎ話の王子様のように映っている。しかし、そのグラントの姿が虚像であったことをケリーが知ることで、ベートーヴェンの『月光ソナタ』がケリーとグラントの関係や行く末を暗示していたかのように、2人は結ばれることはなかった。グラントは小児性愛者であり、彼はその性的倒錯を売春婦であったケリーならば理解してくれると考えたが、そのことでケリーは怒りを露にし、オープニングシーンを繰り返すかのようにグラントを電話で殴り、そして死に至らしめてしまうのである。

ケリーは、殺人を犯して警察に捕まる。この作品では子供が唯一純粋無垢な存在であるがゆえに真実を語り、留置所で追い詰められたケリーを究極的に救い出すことができるのは、グラントにいたずらをされた当事者の少女だけなのである。ラストシーンにおける大衆は、小児性愛者を殺したことで英雄となったケリーに敬意の眼差しを向けるが、ケリーは盲目的に偽善に注ぎ込まれる大衆の視線をもはや信じることはできない。
この映画には、何度かの子供が縄跳びをするシーン、地球儀が回転するシーン、ケリーと障害者の子供たちが世界は回るという歌詞を歌ったシーンが登場する。これは反復を象徴しているのであろう。子供は大人になることで偽善が蔓延する世界へと踏み出さなければならない。世代が受け継がれる中で、子供から大人へという反復の過程における終わりなき倫理や道徳の腐敗からは絶望すら感じる。しかし、ケリーが偽善に満ちた町を去る際に乳母車の中の赤子に微笑みかけるシークエンス、また身体障害児ピクニック会を宣伝する幕からは少しばかりの希望を読み取ることができるかもしれない。物語の後半で、ケリーはグラントの邸宅でベートーヴェンの『運命』を聴くシーンがある。これは、まだグラントのことを立派な尊敬すべき人間として慕っていたケリーが、彼と結ばれることを文字通り「運命」のように信じているのである。しかし、映画におけるこの楽曲の意味とは、本当にそれだけであろうか。ベートーヴェンの『運命』は、4楽章から構成されており、「暗から明へ」と展開していくことで知られている。もし、このベートーヴェンの『運命』が反復を脱し、アメリカ社会が「暗」から「明」へと戸を叩く可能性を願ったものであるならば、そこに子供に託された新たな希望を見出すことができるのである。
nakedkiss2bigboid presents 『サミュエル・フラー自伝 わたしはいかに書き、闘い、映画をつくってきたか』刊行記念
「サミュエル・フラー連続上映!」

上映作品
予定されているのは、サミュエル・フラーが手掛けた『チャイナ・ゲイト』、『ショック集団』、『裸のキッス』、『ベートーヴェン通りの死んだ鳩<ディレクターズ・カット版>』、『フラーライフ』、『ストリート・オブ・ノーリターン』、『ホワイト・ドッグ』、『最前線物語』の8作品です。全国で開催予定ですが、各劇場によって上映作品が異なりますのでご注意ください。

劇場情報(※ 劇場により上映作品が異なります。詳細は各劇場のウェブサイトなどでご確認ください。)
札幌:札幌プラザ2・5地下劇場メッセホール 1/31(日)
東京:ユーロスペース 2/20(土)~3/4(金)
山口:YCAM 3/19(土)~21(月), 3/26(土)
仙台:桜井薬局セントラルホール 4/3(日)~4/15(金)
名古屋:名古屋シネマテーク 4月予定
広島:横川シネマ 4月中旬, 5月予定
京都:同志社大学寒梅館 4/28(木)
京都:京都シネマ 4/30(土)~5/6(金)
大阪:第七藝術劇場 4月下旬予定
神戸:神戸アートビレッジセンター 4月下旬予定

公式URL
http://www.fuller2016.com/

宍戸明彦
World News部門担当。IndieKyoto暫定支部長。
同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科博士課程(前期課程)。現在、京都から映画を広げるべく、IndieKyoto暫定支部長として活動中。日々、映画音楽を聴きつつ、作品へ思いを寄せる。