8月31日、ニューヨークを拠点とし、アメリカを代表するオルト・ウィークリーとして知られた「ヴィレッジ・ヴォイス」が廃刊された(#01)。プリント版の刊行は既に昨年8月に停止されていたが、現在のオーナーであるピーター・バービーはデジタル版で刊行を続けることを約束していた。だが、主としてインターネット・メディアの台頭による読者数の低迷と資金繰りの悪化により、18人いた編集者のうち8人を即日解雇、残りの10人もプリント版記事をデジタル・アーカイブに移す業務に専念し、それが終了次第役目を終えると発表された。バービーがパブリッシャーとなった3年間の間に3人の編集長がトップを務めたが、最後の編集長となったスティーヴン・ムーレムも5月にヴォイスを去り、後任がいない状態だった。

 ヴィレッジ・ヴォイスは、1955年にエド・ファンチャーとダン・ウルフ、そして『裸者と死者』などアメリカを代表するノンフィクション作家であったノーマン・メイラーらによって創刊された(#02)。アメリカで最初に刊行されたオルト・ウィークリーの一紙として、ヴォイスはニューヨークのタウン情報や映画館、画廊、コンサート、テレビ、そしてデモや集会の案内など、ありとあらゆる情報を取り上げ、そこに生活と文化の息吹を吹き込んだ。日々のニュース全体をカバーすることはなく、広告主やエスタブリッシュメントなどへの配慮から大手メディアが取り上げない情報こそ独自の視点から深く掘り下げたコラムや批評などで読者の思考を促すことに特徴があった。

 ヴォイスは創刊時より演劇評論家ジェリー・タルマーを擁し、彼はオフ・ブロードウェイを対象としたオビー賞創設にも関わったが(#03)、映画のレギュラーコラムは存在していなかった。1958年、ヴォイスのオフィスへと赴き、タルマーに直接その件について質問したのがジョナス・メカスだった。なぜヴォイスには映画コラムがないか、それはこの雑誌に映画に詳しい人間がいないからだと答えたタルマーは、少し考えた後、君がやってみないかとメカスに尋ねた。メカスは二つ返事でそれを引き受け、ここから60年に及ぶヴォイスの映画批評の歴史がスタートすることとなった(#04)。

 ジョナス・メカスは、リトアニア出身の詩人であり映画作家、批評家、キュレーター、オーガナイザーである。『リトアニアへの旅の追憶』(72)などの日記映画を手がけるほか、アンダーグラウンド映画や実験映画の守護者として知られ、アンソロジー・フィルム・アーカイヴスの創設などにも関わった。1949年、弟のアドルファスと共にメカスはアメリカに移住し、友人からお金を借りてボレックスの16ミリフィルムカメラを購入、周囲にいる人々を日記代わりに撮影するようになった。彼はまた、1954年には「フィルム・カルチャー」誌を創刊。ニュー・アメリカン・シネマと呼ばれるアンダーグラウンド・シーンの中核的存在となっていた。

 メカスがヴィレッジ・ヴォイスで連載した「ムーヴィー・ジャーナル」は、サタジット・レイの『大地のうた』(55)を論じた記事によって始められた。その後、1974年に同紙を買収したクレイ・フェルカー(「ニューヨーク・マガジン」創刊者として知られる)によって大きく編集方針が変更されたことに伴いメカスはヴォイスを去ることになるが、その間に書かれた記事の一部は「メカスの映画日記 ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959-1971」として日本でも翻訳出版されている(#05)。

 メカスが映画コラムを開始した頃、フランスではまさにゴダールやトリュフォーらが登場し、ヌーヴェル・ヴァーグが産声を上げていた。当初、メカスはこうした外国映画や商業映画を数多く取り上げてコラムを書いていたが、やがてジョン・カサヴェテスやロバート・フランク、スタン・ブラッケージ、マヤ・デレン、グレゴリー・マーカプロス、ピーター・クーベルカといった自らの周囲で生まれつつあった新しい映画、映画作家、そしてアンダーグラウンド・シーンの紹介者であり守護者の役割に徹するようになる(#06)。こうした態度変更について、メカスは「映画日記」序文で次のように述べている。

「私が「ムーヴィー・ジャーナル」を書き始めた頃、ニュー・アメリカン・シネマはまさに創生期だった。ジョン・カサヴェテスが『アメリカの影』を完成したばかりだったし、ロバート・フランクとアルフレッド・レスリーが『ひな菊を摘め』を撮影中だった。映画の虫はすでにわれわれを食っており、全体の空気はどんどんエネルギーと期待感に満ちてくるのだった。映画はいま始まったばかりだ--われわれと共に!誰もがそう感じていた。そういうわけで、第一回目のコラムを書いた時は“真面目な”批評家になって“真面目に”ハリウッド映画を取り上げようと考えていた私も、すぐに自分の掲げている批評家の肩書きなど、何の足しにもならないことに気付いた。その代わりに剣を取り、私はすすんでニューシネマの防衛・宣伝大使の役をひきうけた。新しい映画作家を真面目に取り上げる者など一人もいなかった。非劇映画は、映画とはみなされていなかった。(中略)私は批評家の肩書きをはずし、事実上、産婆の役をひきうけることになった。映画の世界に美しい芽が出かかっていて、しかもそれが私の同業者にも一般の人にも叩かれたり黙殺されたりしているのを見ると、私はそれを引き出し、抱き上げ、保護せずにはいられなかった。」(#07)

 商業映画を扱わなくなったメカスに代わり、ヴォイスでそれを担当するため呼び寄せられたのがアンドリュー・サリスだった。サリスはギリシャ系移民の両親のもとブルックリンで1928年に生まれたが、50年代初頭にパリで一年間過ごし、映画館通いを続ける中、ゴダールやトリュフォーらとも友達になっていた。後にヌーヴェル・ヴァーグへとつながる映画愛好の台頭を間近で目撃したサリスは、ニューヨークに戻り、メカスが発刊した「フィルム・カルチャー」第2号で映画批評家としてデビューする。取り上げた作品は、ジョージ・シートンの『喝采』(54)だった。また、ヴォイスで最初に執筆した評論は、ヒッチコックの『サイコ』(60)に対する熱狂的な賛辞であった。当時のアメリカでヒッチコックは真面目な映画作家であるとみなされておらず、この記事はニューヨークに住む若者たちに多大な衝撃を与えたとのことだ。

 フランスで作家主義とヒッチコック=ホークス主義を吸収したサリスは、そのアイディアを独自に体系化し、作家理論(フランス語と英語が混合した「auteur theory」と呼ばれる)として一般性獲得に寄与した。彼がヴォイスで発表した記事は、後に「The American Cinema: Directors and Directions 1929-1968」としてまとめられ、アメリカの映画ジャーナリズムに大きな影響を及ぼした(#08)。同書の中で、サリスはサイレント期以降60年代までにアメリカで映画を撮った監督たちの中から14人を選び、最も偉大なアメリカ映画作家たちとして殿堂入りさせている。その監督たちの名前は、以下の通りである。ロバート・フラハティ、ジョン・フォード、デヴィッド・ウォーク・グリフィス、ハワード・ホークス、バスター・キートン、オーソン・ウェルズ、フリッツ・ラング、エルンスト・ルビッチ、フリードリヒ・ムルナウ、マックス・オフュルス、ジョセフ・フォン・スタンバーグ、チャールズ・チャップリン、アルフレッド・ヒッチコック、ジャン・ルノワール。

 メカスとサリスは、ニュー・アメリカン・シネマの評価を巡ってしばしば激しく対立し、派手な論争を繰り広げたことでも知られている。性格的にも、対照的な二人だったようだ。だが、にもかかわらず二人は互いに良きライバルであり、それぞれが欠落した部分を補いつつ映画文化の両翼を支え合う友人同士であった。70年代に入り、新しい編集部によってメカスの映画コラムを雑誌から排除しようとする圧力が強まる中、最後まで擁護し続けたのがサリスだった。一度も編集会議に出席しなかったメカスに代わって、サリスは執拗に彼のコラムを守ろうとしたとのことだ。二人を継いでヴィレッジ・ヴォイスの映画コーナーを担当したジェームズ・ホバーマンは、二人の関係を次のように回想している(#09)。

「メカスが完全に新しい映画へとコミットしていた一方で、アンドリュー・サリスは、現在の作品を映画史のコンテクストの中に一貫して回収する試みを続けたはじめての映画レビュアーだった。メカスがアンダーグラウンド・シーンに光を当てたなら、サリスはハリウッドの過去を作家理論によって詳細に解き明かした。彼は映画をレビューしたのではない。英雄的監督たちの生きる伝説を語り続けたのだ。メカスが天才的な扇動者だったとするならば、サリスもまた才能ある映画の教師だった。」

 かつて、映画批評家としてメカスとサリスを擁し、ジェームズ・ホバーマンを輩出したヴィレッジ・ヴォイスは、その後もアメリカで最初にフェミニスト視点からレギュラー映画コラムを寄稿したモリー・ハスケルやエイミー・トービン、ジョージア・ブラウン(ノア・バームバックの母親)、そして現在ではリンカーン・センターのプログラマーを務めるデニス・リンなどを映画の世界に送り出してきた(#10)。60年以上に及ぶヴィレッジ・ヴォイスの歴史は、そのまま映画史と映画文化の重要な一側面であったのだ。

#01

#02
https://www.thenation.com/article/the-lives-and-deaths-of-the-village-voice/
#03

#04
http://jonasmekas.com/diary/?p=1238
#05

メカスの映画日記 – ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959-1971


#06

A Raving Maniac of the Cinema


#07
『メカスの映画日記』p7-8
#08
https://www.amazon.co.jp/American-Cinema-Directors-Directions-1929-1968/dp/0306807289
#09
https://www.jukolart.us/cult-hits/a-history-of-film-criticism-at-the-village-voice.html
#10
https://www.criterion.com/current/posts/5900-the-village-voice-ends-its-sixty-three-year-run

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

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