一頭の雄鹿が白く染められた木々の間から浮かび上がってくる。彼はときどき立ち止まって、冬の森にあまりにも大きく響き渡る雪の音に耳をすませながら、ゆっくりと歩いていく。少し歩くと小さな池がある。近くで足音がして、今度は雌鹿が姿をあらわす。二頭は水の対岸でとても長い間見つめ合っていた。

屠殺場の経理マネージャーのアンドレは人付き合いが苦手だ。片腕が不自由。仕事は淡々とこなすし、同僚からも評価されている。彼は孤独だ。職場を後にした彼の街を歩く後ろ姿。小さな食堂で夕食を食べる窓越しからの眺め。アパートの窓は開いていて、外から街の喧騒が流れ込んでくる。風が吹いてカーテンが揺れる。
新しく品質管理の為に外部から派遣されてきたマリアはさらに人付き合いが苦手だ。強迫性障害の傾向がある彼女は人との距離感に戸惑い、うまく世界を感じることができない。自分自身がなにを、どのように「感じている」のかがつかめない。

ある日、屠殺場での事件をきっかけに二人が同じ夢を見ているという事実が発覚する。お互いを現実世界で見つけたその瞬間から二人の世界との付き合い方が少しずつ変わっていく。

1989年のデビュー作品『私の20世紀』がカンヌ国際映画祭で新人監督に授与されるカメラ・ドールを受賞してから28年。今年度のベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞し映画界に復帰したハンガリー出身のイルディゴ・エンエディ監督は2000年代に入ってから様々な理由で映画をつくることができなかった。この18年間、彼女は何を思いそして今作にたどり着いたのだろうか。

“ブダペストの演劇アカデミーで教鞭をとっていましたが、その期間は精神的にとても辛いものでした。自分の現実がわからなくなり、迷っていました。それでもこの18年間、毎日映画に携わり続けてきました。”

“今回、ベルリン国際映画祭で会場に私のチームと座り、周りの観客たちがこのドラマに驚いたり泣いたり笑ったりしている生の反応を体験し、ああ生きていると感じました。自分にとって大切なことを作品を通して共有しようと思い、それらがちゃんと理解されたという感覚がありました。”

とても淡白な印象を与える映像は主人公二人の心情のキャンバスそのものであり、その真っ白な空間に飛び散るのは動物たちの血のように赤く、どす黒くて、そして無神経な言動たちだ。

リアルな屠殺のプロセスが何の前触れもなく展開されていくのにショックを受ける観客も少なくないだろう。これらの撮影はその現場の作業に邪魔にならないことを最優先して撮られたと話す。また、人物に注目して撮るシーンは業務時間の外で撮影された。

コンクリートの建物に静かに日が差し、影が浮かび上がってくる様子はさっきまで動物を殺していた場所とは思えないほどに端正で神秘的な雰囲気をつくりだす。

不器用な二人は現実から夜に見る夢の世界を心待ちにしている。夢から幕開けする今作は、しかし現実世界を中心に事が進んでいく。そして夢をきっかけに、現実で生きにくさを感じている二人が出会うことでまた違う種類の現実ができる。構造的に三つの組み立てになっていて、それは一見、時間の直線的な流れに見えるのだが夢と現実を行き来しながら徐々に次の現実ができていくようだ。夢のシーンが終わり、次の日に切り替わるごとに具体的にはなにと言い難い「なにか」が変化し、動いたのがわかる。

二人が共通した夢を見る、という設定について監督はユングの提唱した意識と無意識の関係性に影響されたと話す。
“夢の中で、私たちは自分の無意識にアクセスしています。ここでとても個人的な無意識と宇宙的な集合的無意識のふたつが出会います。私はある日突然にそれぞれ個人にとって大切な瞬間というのは(誕生、愛、死など)人類全員に共通したものであるという当たり前すぎる事実に気がつきました。現実世界でうまくつながることができなくても夢では皆すべてを共有している。夢のその瞬間だけに存在している、という意味では動物的な意識です。瞬間を体感するという至福を感じてほしい。”

日常の細やかさと屠殺場や夢の中など私たちが普段意識しない異次元的な世界との対比をフィルムと光を操りながら丁寧につくりあげていく。思うように映画をつくれなかった環境があるからこそ溢れてくる今作への映画愛はイルディゴ・エンエディ監督の新しい物語の幕開けである。

参考記事

http://www.theupcoming.co.uk/2017/02/13/ildiko-enyedi-an-interview-with-the-director-of-testrol-es-lelekrol-on-body-and-soul/

https://www.showroomworkstation.org.uk/on-body-and-soul-interview

http://www.popmatters.com/feature/ildiko-enyedi-interview-on-body-and-soul-defending-ourselves-limiting-ourse/

mugiho
好きな場所で好きなことを書く。南の果てでシェフ見習いの21歳。日々好奇心を糧に生きています。映画・読むこと書くこと・音楽と共に在り続けること、それは自由のある世界。


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