歴史は常に動いています。世界では様々な出来事が起こる。同じように、映画の世界でもたくさんの事件が起こり、多くの映画作家がその才能を発揮した作品を発表しています。しかし、日本に住み主に日本語で情報を遣り取りしている私たちは、ともすればそうした世界の新しい動きから切り離され、置いてきぼりにされてしまっていることも実は多いのです。日本が保守的になっているとするならば、それはまず日本語に訳される情報の量と質に於いて指摘される現象なのではないでしょうか。
 たとえば、少し前に私が翻訳したジム・ジャームッシュのインタビュー(#1)の中で、彼は素晴らしいインディペンデントな出来事がギリシャでは起こっていると話していました。これはしかし、テン年代前後に世界的に話題になったグリーク・ウィアード・ウェーブについてあらかじめ知っていないと意味をなさない言葉かも知れません。そこで、今回はこの最新の映画潮流に関して、「Mapping Contemporary Cinema」に掲載された「Short guide to the Greek weird wave」(#2)という文章を訳すことで紹介したいと思います。今回は、その前編になります。
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 アテネ、現在、小さな集団の大人達が肉親に先立たれた遺族にあるサービスを提供している。彼らは故人の役を演じ、そのふるまいを真似たり、人生で起こった出来事を再現してみせる。これが、ヨルゴス・ランティモスによる4作目の長編『アルプス』(Alpeis, 2011)のシンプルだが、奇妙なあらすじだ。この作品は、第68回ヴェネチア国際映画祭で脚本賞を受賞しており、ギリシャ映画の隆盛のただ中で公開された。『籠の中の乙女』(Kynodontas, 2008)がカンヌ国際映画祭である視点部門グランプリを獲得して以来、国際映画祭に於けるギリシャ映画の存在には揺らぎがない。批評家やシネフィル達は、今やギリシャ映画を現代のアヴァンギャルドとして認識しており、少なくともメディアの中では、グリーク・ウィアード・ウェーブとして語られている。
 おそらく、この流派の最も奇妙な点は、国内に先例が存在しないことだろう。実際、1950年代と60年代の黄金時代、そしてテオ・アンゲロプロスやコスタ・ガヴラスといった個人的な成功を除いて、ギリシャ映画が国際的な評価を獲得したことは殆どない。しかし2010年9月には、ヴェネチア国際映画祭に4本ものギリシャ映画が並び、そのちょうど1年後には、30本ものギリシャ映画がリリースされると発表されたのだ。この数字にはインパクトがある。と言うのは、この国が比較的小国であり、そして不景気後の騒乱の最中にあるギリシャで生み出された映画だからだ。2009年には第50回テッサロニキ国際映画祭が開催され、世界中から250本もの映画が集められた。しかし、議論を呼ぶべき事だが、『籠の中の乙女』は含まれなかった。それは、その代わりアテネから300マイルも離れた場所で上映されたのだ。この作品の欠落は、新しい映画法の制定を求めたギリシャ映画労働者と国との間の大きな騒乱の結果である。200人ものフィルムメイカーたちが政府による支援のあり方を巡って、ギリシャ国家映画賞を含むテッサロニキ映画祭をボイコットしたのだ。
 世界的な経済危機に先立つギリシャ政府の経済的失敗は、既に様々な形で論じられており、芸術省を含む政府の腐敗や身内びいき、無能といった指摘が為されている。テレビの収入のうち1.5%を映画業界に投資すべきと規定した法律は1989年に成立していたが、その法に準じなかったテレビ局に対する罰則は存在しなかった。なにより、政府の助成金を独占していたギリシャフィルムセンター、そして、金で賞を決めていたギリシャ国家映画賞の問題が大きく、その偏向に対して批判を集めていたのだ。したがって、新しい政権が誕生すると、プロデューサーや映画監督、フィルムメイカー達は「霧の中のフィルムメイカーたち」の旗印の下に団結し、長らく待望されていたギリシャ映画産業の変革を求めて行動した。そしてこの結果、ギリシャ国家映画賞は廃止され、1.5%のテレビ税と高額なタックスリターンによるアート映画に対する奨励金を規定した新たな映画法が制定されたのである。これらは高く評価された。しかし、いずれにせよ経済危機はギリシャの映画業界を停滞させた。多くの映画が製作されているにも関わらず、それらの予算は低く(一作品あたり平均1億円)、約束された助成金を実際に手にするにも苦労が伴う。こうした問題はあるものの、ギリシャ国家映画賞に代わって成立した、フィルムメイカーによるフィルムメイカーのための組織を目指したヘレニック・フィルムアカデミーの創設は印象深いものである。
 話されている言葉、撮影地、そして監督の国籍を除いて、(グリーク・ウィアード・ウェーブの作品には)ギリシャ特有の要素は殆どない。これは、ギリシャ国家映画賞がその終焉に先立って賞を与えた作品、『ブライズ』(Nyfes, 2004)や『エル・グレコ』(El Greco, 2007)と明確な対照をなしている。これらの作品は、典型的なギリシャ映画としての伝統を引きずった映画であるのだ。あのように劇的な破滅が国を襲った後であるだけに、国家アイデンティティが希薄になったとしても不思議ではないかも知れない。しかしそれ以上に、『アテンバーグ』(Attenberg, 2010)では、主人公マリナが父親の差し迫った死を前にアイデンティティの刷新を求められている。ギリシャ国外で生きる者として、この国の社会的な空気への寓意をここから読み取らずにいることは難しい。だが、これもまた常に明白ではない。たとえば『アルプス』のような作品では、喪失や困難な求人市場を扱っているが、その多くの部分は謎めいている。
 興味深いことに、デヴィッド・アッテンボローの自然ドキュメンタリーがマリナの人格に大きな影響を及ぼすように、『籠の中の乙女』でも同様の事態が起きる。マーク・フィッシャーの言葉を借りれば、「それは子供の自足した島国根性(閉鎖性)を破壊する映画」なのだ。これは、VHSやDVD、そしてなによりインターネットの世界的な普及に促された近年の現象である。国家アイデンティティの欠落にとどまらず、私たちは国際的な映画カルチャーの出現を目にしつつあるのだ。実際、ドイツ・ベルリン派への影響について触れたエッセイの中で、映画監督クリストフ・ホーホホイスラーは、それが1960年代や70年代のジャーマン・ニューウェーブの再生であるという意見を否定している。彼が言うには、「ベルリン派の誕生は、DVDの普及などによって時代や国境を越えた国際的な可能性抜きに考えることは出来ない」。こうした新しいドイツ映画は、映画史に対する成熟した知識を持ち合わせたギリシャの新しい映画作家たちの登場とも呼応しているのだ。
Written by Oliver Westlake, (2014); Queen Mary, University of London
(後編に続きます)
大寺眞輔(映画批評家、早稲田大学講師、その他)
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