kiyoshi kurosawa

 今年の第68回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門で『岸辺の旅』が上映され、注目を集めている黒沢清監督だが、現在フランスで制作中の 『La Femme de la plaque argentique』(『銀板の女』)をLibération(リベラシオン誌)のジュリア ン・ゲステール氏が撮影風景をルポルタージュしているので、その内容に触れていきたいと思う。(*1)黒沢監督は日本の映画監督として、フランスの現場でどのように演出を行っていたのか。そして周りのフランス人スタッフはそれをどう受け止めていたのか。

 『銀板の女』はダゲレオタイプ(銀板写真)に強迫観念を抱いている、未亡人の写真家の娘と若い青年アシスタントとの愛と死を巡る物語らしく、フランスと日本の共同制作作品で予算見積額は350万ユーロ(約4億7千万円)となっている。キャスティングにはタハール・ラヒム(ロウ・イエの『パリ、ただよう花』)、オリヴィエ・グルメ(ダルデンヌ兄弟の『少年と自転車』)とコンスタンス・ルソー(ミア・ハンセン=ラヴの『すべてが許される』、ギヨーム・ブラックの『女っ気なし』)を主演に迎えている。そして偶然なのか、面白いことに、オリヴィエ・グルメは黒沢監督のことを実際に会うまで全く知らなかったというのに対し、タハール・ラヒムは大学で監督の作品について研究しており、コンスタンス・ルソーに至っては卒論が監督自身についてだったようで、奇しくも、主演二人にとっては研究対象だった人物から、実際に手ほどきを受ける事態となっている。(*1)

「本番に入る前、どのようにカメラが役者に寄り添うのかを調整するため、何度もシーンのリハーサルを繰り返し、フレーム内に映るすべての事物の在り方を問いつつ、被写界深度がどのように背景の舞台セットに影響を与えるのか探っていく。黒沢監督はカメラのモニターの後ろに座り、一歩後ろに、常に彼を支える妻と彼の指示をフランス人のみで構成されたスタッフへとスムーズに伝える通訳者がいる。その日、最初のリハーサルには満足がいかなかったようで、カメラの構図がラヒムを中心に据えすぎていたようだ。彼は撮影監督のアレクシ・カヴィルシンに、場面での俳優の動きに合わせて、奥にちらっと見える階段が常に見えるよう、フレームの端に俳優を維持し続けるよう言いつけた。「観客が背景のなるべく多くの場所で何かが出現するのに気づく必要があります。そのようにして、奇妙で不安な気持ちにさせるのです」と監督は断言する」(*1)

 こうしたやり取りを重ねるうちに、フランス人スタッフのほうも黒沢監督の演出方法を徐々に理解していく。

「黒沢監督が話すフランス語は2つの言葉、「Coupez!」(カット!)と「Parfait!」(完璧です!)に限られ、この2つの言葉はよくセットで使われる。というのも、彼はごく少ないテイクで撮影するからだ(時に1回、3回以上は絶対に行わない)。「彼はあまり機械的になるのを好まず、色んなアクシデントが起こる最初のテイクの不安定さを気に入っていて、それは演出の精確さが場面を成り立たせているからこそだ。」と音響スタッフのエルヴァン・ケルザネットは説明する。」(*1)

「フランス側の本作のプロデューサーである、ジェローム・ドプファーは感嘆が入り混じった様子でこう指摘する:「黒沢監督は撮影現場で自分が望むものを瞬時に見極める知性をもっている。彼の頭の中ではすべてが出来上がっていて、現場ではそれほど模索せず、役者にはその場でごく僅かなことしか言わない。彼らとは夕方話し合い、夜のあいだにカット割りを考える。しかし、それにはとてつもない十全な準備を必要とし、彼の幻想的なヴィジョンに応える現実をつくり上げるための舞台セットを入念に仕上げなければならない。彼の仕事は熟練した技術と役者に与えられた限りない自由の融合の上に成り立っている。とても驚くべきことだ。」」(*1)

 こういった証言から、黒沢監督の演出や仕事ぶりに対して、フランス人スタッフが敬意を持って制作にあたっていることが伺える。

「その日、最後のシーンを撮り終えた直後、黒沢監督がまるで魅了されたように述べる:「僕にとって、今のシーンは良かったのですが、ここで撮影をやめてしまうのは勿体無い気がします。別に誰も間違ったわけではありませんが、撮りなおすための何か良い口実はありませんか?」すると撮影監督がもしかするとシーンの始まりでフレームが少し低かったかもしれないと喜んで認め、さぁ、もう一回撮影を試みようという流れとなった。その後、テイクを2回ほど重ねたあとに、その日の撮影が完了した。タハール・ラヒムが直接監督へ尋ねた:「監督、奇妙さの度合いはいかがでしたか?」すると黒沢監督は真面目な通訳者を介して、「c’était pile-poil」(意味:一寸の狂いもない、バッチリ)だということを伝えた。すると誰かが驚いたように:「本当に「一寸の狂いもない」って言ったのか?」」(*1)

 シーンの撮影で「カット!」と「完璧です!」という黒沢監督のフランス語を聞き慣れていたフランス人スタッフにとって「一寸の狂いもない」という言葉は意外だったのか、逆に問題があったかのように聞こえてしまったと思われる。フランスの制作スタッフがいかに黒沢監督の演出を理解し、彼に対して気を使っているのかが伺えるエピソードだ。いまだ編集作業中だという『銀板の女』は来年公開予定とのこと。(*2)また、10月にはフランスの映画雑誌で大変な評判となっている『岸辺の旅』が公開予定となっているので、首を長くして両作品の出現を待つとしよう。

vers l'autre rive

Les inrocksのJean-Baptiste Morainによる『岸辺の旅』の批評:
「何とも傑出した映画で、すべてが映画における演出の上に成り立っている。完全に抽象的な映画、幽霊映画であり、始まりもなければ終わりもない物語。何故だか分からないが私たちに涙を流させる登場人物たち。バイオリンのような雲が急にスクリーンを闇へと包み、一瞬にして生者を死者に変え、またその逆も然り。何故ならこれらはすべて揺らめき合い、またとても儚いからだ。魂は揺れ動き、その形を変える。しかし、その誰一人として、とくにカンヌで見た多くの映画のように、演出家や登場人物がすすり泣くような声で何を理解すべきか説明することなど決してない。すべてはフレーム内で引き起こる。光、反射、静止、運動、様々なイメージの変化を見比べ、ただ注意深く見るだけで良い。黒沢清はまるでクラシック音楽作曲家のように自分の映画を作る。私たちに映画が芸術たりえることを想い出させてくれた彼に感謝を」(*3)

 どうやら黒沢清の眼差しで息づく幽霊たちに、彼らはすでに取り憑かれてしまったようだ。

参考資料、引用元:
http://next.liberation.fr/cinema/2015/03/31/kurosawa-un-visage-francais_1232330 (*1)
http://cinema.arte.tv/fr/article/vers-lautre-rive-de-kiyoshi-kurosawa-0 (*2)
http://cannes2015.lesinrocks.com/2015/05/18/vers-lautre-rive-grand-film-de-fantomes-signe-kiyoshi-kurosawa/ (*3)
写真:ジェローム・ボネ

楠大史
World News担当。慶応義塾大学大学院メディアデザイン研究科修士2年、アンスティチュ・フランセ日本のメディア・コンテンツ文化産業部門アシスタント、映画雑誌NOBODY編集部員。高校卒業までフランスで生まれ育ち、大学ではストローブ=ユイレ研究を行う。一見しっかりしていそうで、どこか抜けている。


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