本記事では、ドキュメンタリー監督であり、女性と男性の平等、映画産業の多様性促進を目的としたCollectif 50/50のメンバー[1]でもあるアリス・ディオップの新作『私たちNous』を紹介する。

 パリを南北に走り、フランス郊外、いわゆるバンリューへと乗客を導くRER(イル=ド=フランス地域圏急行鉄道網)B線を舞台としたフランソワ・マスペロの著作『ロワシー・エクスプレスの乗客』(1990)[2]は、彼が写真家アナイク・フランツとともにRERのB線沿いを旅した1ヶ月間の旅行記である。本作でマスペロが目的としたのは、「一見混沌としたバンリューに隠されたイメージ、色彩、存在に豊さを与えること、この地理を理解し、この土地とそこに住む人々の歴史を見出すこと」[3]であった。

 2021年ベルリン国際映画祭エンカウンターズ部門[4|に出品されたアリス・ディオップのドキュメンタリー『私たち』は、このマスペロの著作に捧げられているという。「彼の本は私に、目の前にあるものを見て、愛することを教えてくれました」[5]Africulturesによれば、『私たち』は、バンリューのオルネー=スー=ボアで生まれ育ったディオップのこれまでの作品の集大成であり、彼女の家族が関わっている、彼女曰く「非常に個人的な映画」であるという[3]。マスペロの作品が影響を与えているとしても、映画は社会学的な方向へと向かうのではなく、個人的なものを映し出していくのだという。ディオップは、映画がどのように形成されていったのか、その制作過程について語っている。

フランソワ・マスペロのテクスト『ロワシー・エクスプレスの乗客』(1990)が私の道(=線路)を開いたにせよ、私の映画はいくつかの事柄が結びついて形成されたものです。私は20年前、大学卒業後にこの本を発見しました(アリス・ディオップは、歴史学と社会学を専攻していた)。文学の言葉でバンリューを見たのは初めてでした。フランソワ・マスペロは、[RER B線沿いあるいはバンリューを]予備知識によって前もって決定づけることà prioriも、言説を通して見ることもせず、また解決するための問いも持たず、ここを旅しています。彼は観察し、語るのです。バンリューはしばしば、ステレオタイプや、非常に差し迫った現実との関係に閉じ込められています…ルポルタージュは、現在の出来事や、社会的および経済的な暴力の報告を行っています。『ロワシー・エクスプレスの乗客』は、私の子ども時代の領域を再定義し、そのうえで私に文学への接近を与えていると感じました。そこには、非合法行為、政治的行為、革命的行為がありました。この本が私に与えた影響を測り、今度は映画によって同様の所作gesteをなすことができることを自分に言い聞かせるため、何度も[この本を]読み直す必要がありました。したがって、この[本の]所作が、映画全体の考えとなりました。[6]

 ここでディオップは、タイトルに付されたこの「私たち」という言葉が、2015年1月7日に起こったシャルリー・エブド襲撃事件後に行われた1月11日の「共和国の大行進」というスペクタクルと関わっていることについて語っている。

 

すべては2015年1月のテロ攻撃と、同じ痛みをめぐって全国が連帯した1月11日のデモの直後に始まりました。フランス社会は突然動揺し、理解しなければならない現実に巻き込まれました。そのとき、いくつかの問いが生じたのです。「人々peupleを定義するものは何だろう?」「フランス人であるということは、どういう意味なのだろう?」旗印として掲げられた「私たち」は、まったく非常に謎のままでした。[6]

 

 はじめ、シャルリー・エブド襲撃事件への市民的な抗議として企図されたこの「共和国の大行進」は、連帯の合言葉となった「私はシャルリー」というスローガンや、オランド大統領やその他EUの政治家たちの参加表明によって「テロリズムへの戦い」として国家儀礼的なものと化していった。上記のディオップの言葉は、それによって国民的団結の様相を帯びてゆく「私」あるいは「私たち」という言葉への問いあるいは疑念が、この映画の出発点となったことを示唆している。ディオップは問いかける。「私たちとは誰だろう?」[6]と。「私はオルネー=スー=ボワの3000都市で育ちました。周辺地域で生まれ、社会的境界を超えてフランス社会を構成するさまざまな世界を知ることができるのは幸運なことです」。だからこそディオップは、「非常に個人的な映画」を撮影することで、「私たち」[7]という言葉のうちにあって不可視化されたものたちを映し、見て、語ろうとするのである。

 

映画を作りはじめてから、強迫的にいつも同じ場所にカメラを置いてきました。私は、不可視化された人々の生活について語りたいのです。この映画で個人のアーカイヴを通じて検討されている私の両親を例にとると、彼女/彼らの歴史は刻印されておらず、彼女/彼らが残した痕跡は見られていないのです。[6]

 ディオップは、個人的なことを通じて、「不可視化された人々」、特権的な国民のイメージによって覆い隠され、もはや不在とされている民衆の姿を映し出そうと試みている。しかし彼女は、たんに表象するだけではなく、それをいかなる「ア・プリオリ」にも、いかなる「言説」にも回収されることのない方法でおこなおうとする。

 

『私たち』は、一連の主観ショットで構成されています。したがって、私もこの映画全体の不可欠な一部です。私のプライヴェートを持ち込むことは、自分自身を他の登場人物と同じ領域に置く方法なのです。両親の物語histoireを介した私の個人的な物語-それは忌々しく、苦痛で、さらには途方もないものである以上のことなのですが-は、フランスの歴史histoireや移民の歴史、フランス社会がどのようにクレオール化されているかを説明しています…ですから、私がどこから来たのかを示すことが重要でした。[6]

 

 これまで、バンリューを舞台にした映画、たとえばマチュー・カソヴィッツ『憎しみ』(1995)やジャック・オディアール『ディーパンの闘い』(2015)、ラジ・リ『レ・ミゼラブル』(2019)などでは、暴力に関するテーマを中心に描かれてきた。しかし『私たち』では、暴力をはじめ、薬物、イスラームに関して語られることはないという。ディオップは他の言説に依拠することなく、「個人的な映画」を撮影することによって、これまで自分自身の主体性を構成してきたものを見つめ捉えようとし、それによって「私たち」の現実社会を撮影しようと試みているのではないだろうか。

 

[1]https://www.cnc.fr/cinema/actualites/cannes-2019–entretien-avec-alice-diop-realisatrice-et-membre-du-collectif-5050_994327

[2] この本は、日本では訳されていないが、堀江敏幸『郊外へ』(1995)において詳しく紹介されている。

[3] http://africultures.com/nous-dalice-diop-15080/

[4]2020年から新設されたコンペティション部門である。金熊賞を競うのではなく、インディペンデント作品や新人監督の発掘を目的としており、独自の才能を持った作品が選出される。

[5]https://www.seuil.com/ouvrage/les-passagers-du-roissy-express-francois-maspero/9782020124676

[6]https://www.cnc.fr/cinema/actualites/alice-diop—supprimer-les-places-assignees-dejouer-les-imaginaires_1435673?fbclid=IwAR1NU-AYp13MoWvbLU2OrNq2dqG0HjCqgf2WKA_zkWDdQQq8_2g1nzUJdfg

[7]エティエンヌ・バリバールは、シャルリー・エブド襲撃事件に寄せた文章において、こう書いている。「そう、われわれは共同体を必要としている。追悼のため、連帯のため、保護のため、反省のために。この共同体は排他的ではない。この共同体は、フランス市民や移住市民のなかでも、とりわけ侵略やテロの犯人と同一視されようとしている人々を排除しない」エティエンヌ・バリバール「死者たちのための、そして生者たちのための三つの語」松葉祥一訳『現代思想 総特集シャルリ・エブド襲撃/イスラム国人質事件の衝撃』2015年3月、青土社。https://www.liberation.fr/debats/2015/01/09/trois-mots-pour-les-morts-et-pour-les-vivants_1177315/

 

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。


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