11月26日、映画監督のベルナルド・ベルトルッチが亡くなりました。享年77歳。広報担当者によれば、ベルトルッチは癌を患っており、26日の午前7時にローマの自宅で家族に見守られながら息を引き取ったとのことです[*1]。その生涯にわたって手掛けた17本の鮮烈な作品が同時代かつ後世の映画に多大な影響を及ぼし、「20世紀最後のマエストロ」[*2]とも称されたイタリアの映画作家の訃報を受け、数多くのメディアが追悼記事を掲載。全世界でその死を悼む声が広がっています。

ベルトルッチは1941年3月16日に、イタリアのパルマで詩人/作家のアッティリオ・ベルトルッチと教師だった母ニネッタの第一子として誕生しました(1947年生まれの弟・ジュゼッペも映画監督に)。ローマ大学に在籍していた1961年に、父アッティリオの友人だったピエル・パオロ・パゾリーニの処女長編『アッカトーネ』の助監督に就いたことから映画界でのキャリアをスタート。翌年、弱冠21歳でパゾリーニの原案を元にした長編第1作『殺し』を監督します。そしてコミュニストを自称する中産階級出身の青年の葛藤を描いた1964年の『革命前夜』でカンヌ国際映画祭の新評論家賞を受賞し、ヌーヴェルヴァーグと並ぶ新時代の映画の旗手として脚光を浴びます。ベルトルッチは自身を反映した同作の主人公について、1965年の「カイエ・デュ・シネマ」のインタヴューで「私はマルクス主義者だった。マルクス主義を選んだブルジョアが望んだもの、それはすべての愛、すべての情熱、そしてすべての絶望だった」と語っていたといいます[*3]。
ドフトエスキーの『分身』に大胆な解釈を加えた第3作を経て、1969年にボルヘスの短編「裏切り者と英雄のテーマ」を下敷きにしてイタリアの戦後史を繙いた『暗殺のオペラ』を、翌1970年には第二次世界大戦前夜のファシズムの席巻と崩壊を描いた『暗殺の森』を制作。この2本はベルトルッチの映像世界の構築において欠かせない存在となるヴィットリオ・ストラーロが撮影監督として初めて彼と組んだ作品(『革命前夜』ではカメラオペレーターを担当)でもあります。ストラーロはベルトルッチの作品について「彼のスタイルはピリオドがないまま30ページが続くようなウィリアム・フォークナーのスタイルとは違います。ベルナルドはただ一文を伝えるためだけにカメラを使うのではありません。すべてのものがその他のすべてへと流転するのです」と表現しています[*4]。

ここでベルトルッチはひとつの転換期を迎えます。それは「商業的な状況で政治的な映画を作ることはできない。映画が革新的であればあるほど、大衆はそれを受け入れにくくなる」(1973年の「ニューヨーク・タイムズ」のインタヴューより)という問題に直面したからです。そうして彼が取り組んだのが、「いまなお真実である唯一のもの」である性愛を「新しい種類の言語」として扱った『ラストタンゴ・イン・パリ』でした[*3]。パリのアパートの空室でのレイプから始まる中年男(マーロン・ブランド)と若い女性(マリア・シュナイダー)の情事を介した関係性の変化を描いた同作は、1972年のニューヨーク映画祭でお披露目されるやいないやセンセーションを巻き起こします。「ワシントンポスト」の追悼記事では、プレミア上映直後に「ニューヨーカー」の映画欄に掲載されたポーリン・ケイルの有名な評論が引用することで当時の衝撃を紹介しています。いわく「これまでで最もパワフルでエロティックな映画であり、同時に最も解放的な映画であるかもしれない。『暗殺の森』を作った男に官能的な饗宴を期待していた観客が、その予期せぬセクシュアリティと俳優に必要な新しいリアリズムを突き付けられ、ショックを受けるのは当然のことだろう。ベルトルッチとブランドはひとつの芸術形態の表出に変革をもたらした」[*5]。こうした称賛の声が上がる一方で、同作はベルトルッチにとって最も糾弾された作品にもなりました。特にイタリアではポルノ映画を作ったとして裁判にかけられ、10年以上もの間上映禁止となったばかりか、ベルトルッチの市民権が5年にわたって剥奪される事態に。近年ではマリア・シュナイダーの了承を得ぬままレイプシーンが撮影されていたという疑惑が持ち上がり、さらなる論争も起こっていました [*6]。

しかし『ラストタンゴ・イン・パリ』の興行的成功は、ベルトルッチに長年温めてきた企画を実現する資金をもたらします。同じ日に大農場主と小作人の息子として生まれた2人の男の友情を通して20世紀前半のイタリア史を語った『1900年』はアメリカの大手スタジオが900万ドルもの製作費を出資した5時間を超える大作として完成しました。ベルトルッチ=ストラーロの映像表現のひとつの到達点ともなったこの作品で助監督を務めていたクレア・ペプローと1978年に結婚したベルトルッチは、翌79年に彼女と弟のジュゼッペと3人で脚本を書いた『ルナ』を発表。父親が不在の母と息子の関係をヴェルディのオペラ「仮面舞踏会」と交錯させて描いた同作の次に手掛けたのは、『ある愚か者の悲劇』(1981)。『革命前夜』以来初めて同時代のイタリアを舞台に、父親が誘拐された左翼活動家の息子の行方を捜すという『暗殺のオペラ』の父子関係を逆転させたともいえるそのサスペンス映画を最後にベルトルッチは長らくイタリア映画界から離れることになります。

その後ダシール・ハメットの『血の収穫』をアメリカのスタジオで撮ることを画策したというベルトルッチですが、結局は中国で英語を言語とした映画『ラスト・エンペラー』を撮影。4年の歳月と2100万ドルの製作費、1万9000人のエキストラ、9000着の衣装、(イタリア人スタッフのために)2000キロのパスタが費やされて[*6]完成した同作が、1987年のアカデミー賞で作品賞をはじめとする9部門を席巻したことは皆さんもご存知の通りです。以降、アフリカを舞台にした『シェルタリング・スカイ』(1990)、ブータンとネパールで撮影された『リトル・ブッタ』(1993)と“東方三部作(eastern trilogy)”を完成させたベルトルッチは約15年ぶりにイタリアに戻って、異国の地で“性の目覚め”を体験するアメリカ人の少女を主人公にした『魅せられて』(1996)と、単身ローマに渡って家政婦をしながら医学の勉強をするアフリカ人の既婚女性と彼女の雇用主であるイギリス人音楽家の“言葉を超える愛”を描いた『シャンドライの恋』(1999)を監督。そして2003年にはジミ・ヘンドリックスの「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」をバックにしたエッフェル塔のパンダウンから始まる、パリの五月革命を背景に若者たちの性愛と倦怠を描いた『ドリーマーズ』を発表しました。
その後、腰を痛めて車椅子生活を余儀なくされたベルトルッチは映画の現場を離れ、一時は引退も覚悟したと言われましたが、2012年に『孤独な天使たち』でカムバック。妖艶な義姉とともに自宅の地下室に1週間籠って過ごすはめになった14歳の少年を主人公にした同作を彼は車椅子のまま撮影しました(自身を投影したと思われる車椅子の精神科医も登場)。映画評論家のロジャー・エバートは「『ラストタンゴ』や『ドリーマーズ』と似通ったシチュエーションではあるものの、ベルトルッチは決して過去に固執し続けたりはしない。ここにあるエロス、超越への衝動は性的なものではなく心理的なものである。ここで語られているのは過去の境界を越え、困難を癒し自己を再生させる道を見つけることであり、それはこの巨匠が『孤独な天使たち』を作ることによって行ったことでもある」と評しました [*7]。そしてこの作品がベルトルッチの遺作となったのです。

最後にベルトルッチの訃報を受けて発表された関係者のコメントをいくつかご紹介したいと思います。『ラスト・エンペラー』や『ドリーマーズ』など5本の作品でプロデューサーを務めたジェレミー・トーマスはDeadlineの取材に対して「彼は私にとって兄弟のようなものでした。(中略)彼は素晴らしい男で、偉大な作家であり共同作業者でした。そして比類なき功績を残した、インスピレーションを与えてくれる存在であり、イタリア映画の黄金時代を築いた映画作家の最後のひとりでした」とのコメントを寄せています [*8]。また同じ記事内ではアルフォンソ・キュアロン監督による「さようならベルナルド・ベルトルッチ。あなたは常にシネマという台地に楡の木のように立ち続けた反逆者でした。ありがとう!」というツイートや、ギレルモ・デル・トロ監督が「我がベルトルッチ映画トップ3。1位:暗殺の森、2位:1900年、3位:ラスト・エンペラー」と記したツイートも紹介されています。
『暗殺の森』や『1900年』に出演した女優のステファニア・サンドレッリは「さようなら私のラスト・エンペラー。(中略)本当に特別なあなたの映画に感謝しています。あなたにもう一度出会い、また一緒に別の映画を作れることを願っています」とベルトルッチに宛てた手紙を発表しました[*9]。
そして長年ともにイタリア映画を牽引してきた盟友のマルコ・ベロッキオ監督は伊紙「Il Messaggero」の取材に応じ、ベルトルッチと数か月前に食事をともにしたこと、その際に彼は病に苦しんでいたもののたくさんの新しい企画について考えており、「彼の粘り強さに衝撃を受けた」と明かしています。「ベルトルッチの死は私たちの世代の死でもある」と語るベロッキオは、記者の「ベルトルッチがいなくなったことによって世界は何を失うのでしょうか?」という質問に対して以下のように答えています。
「私たちの世代にリンクする総括的な映画を作る方法でしょうか。あらゆる芸術は時代とともに変わり、テレビシリーズが映画を崩壊させる可能性もありうる今日では、映画を守ることが重要です。私たちはベルナルドのためにも仕事に戻る必要があります。それ以外に何ができますか? 私たちはまだ自らに残された活力が尽きるまで生き続けなければならないのです」[*10]

2011年ベネチア国際映画祭で名誉金獅子賞を受賞したベロッキオにトロフィーを手渡したベルトルッチ

*1
https://variety.com/2018/film/global/bernardo-bertolucci-dead-dies-director-the-last-emperor-1203036077/
*2
https://www.lastampa.it/2018/11/26/spettacoli/il-coraggio-e-lo-stile-di-un-eterno-ragazzo-1kmCEtIhNFvAeYb3FU4rAJ/pagina.html
*3
https://www.nytimes.com/2018/11/26/obituaries/bernardo-bertolucci-dead.html
*4https://www.nytimes.com/aponline/2018/11/26/world/europe/ap-eu-italy-obit-bertolucci.html
*5
https://www.washingtonpost.com/local/obituaries/bernardo-bertolucci-italian-director-of-last-tango-in-paris-dies-at-77/2018/11/26/35b6e5f6-f18d-11e8-aeea-b85fd44449f5_story.html?utm_term=.62f39a5455a1
*6
https://www.theguardian.com/film/2018/nov/26/bernardo-bertolucci-obituary
*7
https://www.rogerebert.com/reviews/me-and-you-2014
*8
https://deadline.com/2018/11/bernardo-bertolucci-the-last-emperor-the-dreamers-producer-jeremy-thomas-1202508646/
*9
http://www.ansa.it/english/news/lifestyle/arts/2018/11/26/farewell-my-last-emperor-sandrelli_4b6bc1eb-30dd-453d-b3a3-e8642f6205fc.html
*10
https://www.ilmessaggero.it/spettacoli/cinema/bellocchio_bertolucci_morto-4133598.html

黒岩幹子
「boidマガジン」(http://boid-mag.publishers.fm/)や「東京中日スポーツ」モータースポーツ面の編集に携わりつつ、雑誌「nobody」「映画芸術」などに寄稿させてもらってます。


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