復讐の残酷なまでの公平さ『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』レビュー


『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』

 監督:
ヨルゴス・ランティモス

 出演:
コリン・ファレル(スティーブン)
 ニコール・キッドマン(スティーブンの妻アナ)
 バリー・コーガン(マーティン)
ラフィー・キャシディ(娘のキム)
サニー・スリッチ(息子ボブ)

復讐の残酷なまでの公平さ

アメリカ中西部の最先端医療施設の手術室。開胸された患者の心臓が剥き出しになったまま鼓動を繰り返している。心臓外科医のスティーブンは以前彼の執刀した手術で父親を亡くした少年マーティンへの負い目から、時折会う約束をしていた。腕時計を見繕ってマーティンに贈り、友人がいないという彼を子供たちに会わせようと自宅へ招待した。しかし…この来訪をきっかけにスティーブンの家族には奇妙なことが起こり始める。子供たちは突然歩けなくなり、這ってしか移動できなくなるのだ。そしてマーティンはこの先に起こるいくつかの悲劇をスティーブンに宣告する。

ヨルゴス・ランティモスの最新作『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』は『ケープ・フィアー』(1991、マーティン・スコセッシ)や『シャイニング』(1980、スタンリー・キューブリック)のような身の毛のよだつ逆恨みのサイコスリラー、超自然的な現象に追いつめられる不条理劇のようだ。しかし、父親を殺された少年マーティンの復讐物語はそれよりももっと憂鬱で居心地の悪い気分にさせられる。

復讐とは端的に言ってしまえば先に殺した相手を殺し返す行為だ。だが、殺された者は相手を殺すことができないのだから報復は代理行為でしか果たすことができない。それゆえに復讐とは正義の問題へと発展する。この映画は誰にとっての正義か、誰が不条理に巻き込まれるのかということがほとんどすべての者に公平に分配されていくのだ。ランティモス監督は加害者と被害者の二者択一に陥ることなく両者の問題を慎重に取り扱うことで、安全地帯に身を隠すことに慣れ、他人に無関心な中産階級の家庭を脅かし、その特権意識と欺瞞で築かれた生活を暴きながら、自分も誰かの身代わり(代替え物)になってしまうという公平性の恐怖を描き出す。それはもはや倫理というよりも自然界に近い残酷さだ。

スティーブンにはいくつかの選択肢が用意されていた。一つは、マーティンと父親と息子のように親密にふるまい続けること。父親を奪ったのだから彼はマーティンの父親になればいい。それは単なる馬鹿げた代替えにすぎず、もちろんスティーブンにとって狂気じみたことにしか思えないだろう。しかしランティモスの世界のシステムはそのシンプルさゆえに恐ろしい。マーティンはこの出来事の落とし前をつけずにはいられないのだ。スティーブンはマーティンと母親の暮らすこぢんまりとした家に招かれ、食事をして亡き父親が好きだったという映画『恋はデジャ・ブ』を観る。まるでおままごとのようなおもてなし、ついには彼の母親まで執拗にアプローチをしてくる。罪悪感を抱えたものにとってのひどい居心地の悪さ。その結果、翌日からも続くマーティンからの連絡を彼は遠ざけるようになってしまう。

ついには息子のボブに続いて、マーティンに恋心をよせていた娘のキムまで歩けなくなってしまう。原因はわからないが、いよいよマーティンが宣告したとおりになってきた以上、彼の仕業としか思えない。この神とも悪魔ともつかない超自然的な力にスティーブンは追いつめられて、ついには究極の選択を迫られるのだ

テオ・アンゲロプロス、コスタ=ガヴラス以降、ギリシャで最も成功し国際的な注目を集めていると言われるランティモス監督は、2004年のアテネオリンピックのクリエイティブメンバーであった。その同僚である『ストロングマン』の監督アティナ・ラシェル・ツァンガリと共にお互いを支えながら、インディペンデント映画製作を続けた。(※この詳細は大寺眞輔氏が過去に書いた記事を参照したい。 グリーク・ウィアード・ウェーブ:前編  :後編)そしてランティモスは父親が強制した風変りなルールで子供たちを外部の世界に接触させずに育てることで楽園を形成する家族たちの姿を描くことで、家父長制ひいてはギリシャという国家体制をブラックユーモア交りに批判した『籠の中の乙女』(2009)を発表する。ギリシャに経済危機が訪れるのはその直後だ。

ランティモスの映画ではギリシャの問題から発展した社会コミュニティへの政治的アプローチと、哲学的に構築された空想的な物語が描かれる。『籠の中の乙女』からはじまる作品群において、隠された家と外に広がる広大な世界との明確な緊張感は一つのコミュニティ、国の内部と外部を描くことで共通していると言っても過言ではないだろう。体の一部を引き換えにしてでも外の世界へ飛び出そうとするランティモス映画の女性たちの姿は、娘のキムが家を這い出す姿をして、アメリカの画家アンドリュー・ワイエスが身体に障害を抱えた女性を描いた有名な絵画「クリスティーナの世界」のように感動的な力強さを感じさせる。そして彼女たちは外部の世界を夢見るものにとっての内通者となるのだ。

突発的な暴力をきっかけに欺瞞や理想で固められた内壁が崩れ始めたとき、作品中に散りばめられたテーマが連鎖的に反応して膨らんでいく面白さがランティモスの映画にはある。そこには時に臆病で夢見がちな、また欲望に塗れて自分が生き残るための選択をする人間たちの姿が窺える。しかし残酷さが際立ってみえるランティモスの映画でさえ、それらの人々が断罪されることはない。彼はその立場をとらない。一つのメッセージに作品を収束させることを徹底的に避けようとしている。そしてその徹底ぶりによって、未だ正体を捕まえられないことに成功し続けたまま、その語りはますます力強くなっている。

3月3日(土)より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか公開

映画公式HP:http://www.finefilms.co.jp/deer 

c2017 EP Sacred Deer Limited, Channel Four Television Corporation, New Sparta Films Limited

上田真之 イベント・上映部。早稲田松竹番組担当、ニコニコフィルム。『祖谷物語~おくのひと~』脚本・制作。短編『携帯電話はつながらない』監督。2018年春、スタッフとして参加した『泳ぎすぎた夜』公開します。是非!