Jacques_Rivette_Dreaming 2016年1月29日、外出先から帰宅した私はポストに海外からの小包が届いていることに気づいた。Arrow Filmsに注文していたジャック・リヴェットのボックスセットだった。すでに世界的巨匠となった彼のフィルモグラフィの中でも、新たに2K修復された『アウト・ワン』などいまだアクセス困難な多くの作品が収められた、きわめて価値の高いアイテムだ。その包みを手に喜びに包まれていた私は、そのわずか数分後、彼の死をネットで知ることになる。1928年3月1日に生まれたリヴェットはすでに87歳だった。そして、遺作となった『小さな山のまわりで』(のちに『ジェーン・バーキンのサーカス・ストーリー』という似つかわしくないタイトルでパッケージ化されている)以降は健康を害し、アルツハイマーを患っていたことも一部では知られていた。しかし、それでも彼の死は大きな衝撃だった。なぜなら、ジャック・リヴェットは私たちにとって特別な存在だったからだ。特別大きな存在なのではない。パリと東京との距離を隔てながら、スクリーンと観客席との距離を隔てながら、それでも彼は常に私たちにとって特別近い場所にいる存在だったからだ。そして、特別近くにいながら、それでもなお私たちに大きな謎を常に問いかける存在でもあったからだ。映画という謎を。

 私たちは常にリヴェットのことを考えていたわけではない。しかし、私たちが映画について考える時、その中心には常にリヴェットがいた。私が大学に進学し、上京してきたのは1984年。その前後にはアテネ・フランセでダニエル・シュミット映画祭が開催され、イタリア大使館でベルトルッチやベロッキオ、オルミが上映され、ドイツ文化センターではヴィム・ヴェンダースの特集上映が行われていた。その後いわゆるミニシアター文化として花開くこととなる、映画的・文化的な高揚が急速に整えられて行った時期だ。私たちは50年代後半から60年代の仏ヌーヴェル・ヴァーグを同時代として体験してはいない。しかし、80年代東京に生まれた熱狂的映画愛の高まりを通じて、ある意味でそれを仮想的に追体験していたのかもしれない。トリュフォーが亡くなったのは、まさにその最中のことだった。彼の名前は、私たちにとって後悔と喪失の感情と切り離すことができない。ゴダールは商業映画へと復帰したばかりであり、現在私たちが感じるような透明さは備えていなかった。ゴダールは混濁していた。だが、それでもなおこの二人の名前は誰にとっても大きなものだった。ロメールは少しずつ紹介されつつあった。彼の映画は私たちにとって今も昔も変わらずむずがゆい快楽の中にあった。シャブロルは逆に東京に住む私たちにとって見ることが困難な作家の一人となっていた。倒錯した欲望に貫かれた彼の映画の面白さは、アテネなどでの英語字幕上映によってごく一部の映画ファンには知られていたが、その重要性が十分認識されていたとは思わない。したがって、私は横浜でシネクラブを主催し、自らの手で上映作品を選ぶことができるようになって以降、彼の作品を何度も熱心に上映し続けた。しかし、シャブロルの映画が広く見られるようになったのは、彼が亡くなった2010年になってからのことだった。では、リヴェットはどうだったか。

 ジャック・リヴェットの名前は、ヌーヴェル・ヴァーグを支える中心人物の一人として、もちろん一部の映画ファンには知られていた。だが、その作品が上映される機会は殆どなかった。ヌーヴェル・ヴァーグ25周年を期に発行されたユリイカ特集号などでも、彼の名前は「呪われた映画作家」として記されていた。高名でありながら、その作品の実相にはおいそれと近づくことのできない映画作家という意味だ。事実、私たちに見ることができたのは、旧日仏学院でたまに上映されていた英語字幕版『狂気の愛』、そして『大地の愛』(当時はそのタイトルで呼ばれていた)くらいのものだった。まだ改装前の寒々とした白い壁に囲まれたその古びた上映施設で、数人の観客たちと一緒に染みの目立つスクリーンを見つめたことを今でもよく覚えている。上映前には映画評論家の梅本洋一が上映作品について手短に解説する時間も設けられていた。それが私にとって、シネクラブという場所との出会いだった。シネクラブは、私にとって映画への愛と情熱と渇望を掻き立てる場所になった。2013年に亡くなった梅本は、その頃演劇学の講師として早稲田に短期間勤めていた。そこで彼と知己を得た私は、はじめて紙に書いた映画評論-それはロバート・アルドリッチの『燃える戦場』についてのものだった-を梅本に読んでもらった。それがきっかけとなり、彼が創刊に携わった「カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」に私も関わることとなった。

 カイエ・デュ・シネマ・ジャポンは、名前の通り、ヌーヴェル・ヴァーグの発火点となったフランスの映画雑誌カイエ・デュ・シネマの日本版である。だからこそ、ヌーヴェル・ヴァーグの理念をこの雑誌は受け継ぐべきだ。それが梅本洋一の主張だった。しかし、ヌーヴェル・ヴァーグの思想とは、映画の理念とはなんだろう。そして、60年代のパリと90年代の東京はあまりにも離れているではないか。それが、当時感じた私たちの違和感だった。まだ若かった私たちにとって、最も重要なのは自分たちの現在でしかなかった。そして、カイエの哲学もまた現在という言葉で要約されている。であるならば、今ここにある私たちの現在に向き合い、そこから考えるべきなのではないか。しかし、その解釈はやや皮相的である。今ならよく分かるが、カイエの哲学の中心にあったのは二つの柱、現実主義と映画の倫理学という二つの柱であった。それらは共に今ここにある現在へと向かうベクトルを構成する。だが、現在という表層そのものではなく、そこにいかにして立ち向かうのかという私たちの姿勢、私たちの眼差し、私たちの過去と思想と情熱のすべてを問い直す契機こそ、カイエの現実主義であり、映画の倫理学のコアであったのだ。そして、その両者を強く唱えていた者こそが、批評家時代のジャック・リヴェットであった。

 ヌーヴェル・ヴァーグ以降のカイエを支えた高名な映画評論家セルジュ・ダネイが、リヴェットの批評に深く影響され、自らの言説を形成する土台にしたことはよく知られている。そして、それは私たちにとっても同じだった。一方にアンドレ・バザンの現実主義があった。しかし、バザンについて考える時、私たちはつねにリヴェットの言葉を参照した。たとえばホークスの透明さについて述べた「ハワード・ホークスの天才」、あるいは映画の倫理学が刻み込まれた「『カポ』のトラヴェリング」。それらはきわめて明晰な言葉で書かれている。それらは私たちが愛する映画について書かれている。そしてそれらは、確かに映画の本質に触れた言葉であると感じる。だが、それらが述べているのは実際のところどういう内容なのだろう。リヴェットの言葉は、絶対的な聡明さと、謎めいた混濁の両方を常に私たちに突きつけた。映画を見ることの容易さ、映画について考えることの困難さを同時に私たちに突きつけていた。スクリーンを見つめる時に私たちが感じる晴れやかな高揚、そしてどこかで感じていたある後ろめたさとを、それは同時に私たちに突きつけていたのだ。

 やがて東京でもリヴェットの映画が次々と上映される時代が訪れた。『美しき諍い女』がヒットした。だが、そこで見ることができた彼の映画にも、私たちは同じものを感じていた。リヴェットの映画は、常に謎と共にあった。ホークスを愛し、聡明さを愛し、誰よりもシネフィルとして知られたジャック・リヴェットは、なぜこのように迂回と反復と逸脱に満ちた長大で難解な映画ばかり撮ったのだろう。なぜ彼は、映画愛や引用にあふれた楽しい映画を撮らなかったのだろう。そこには確かに映画の面白さがあった。眩しい光があった。しかしそれは同時に、私たちが愛するアメリカ映画の中にあふれていたあの特別な高揚、単純明快な楽しさとはやはり違うものだった。しかし、その違いとは一体何だろう。リヴェットの映画を見るとは、常にこうした謎に直面することだったのだ。アメリカ映画に代表される華やかなスクリーンの中の楽しく美しい世界と、それを見つめる一人の観客でしかない私たちの現実。その間を何度も往還する終わりなき思考をドライブさせるための発火点、それこそが私たちにとってジャック・リヴェットの映画であり彼の言葉となった。リヴェットは常に謎だった。ゴダールが透明でありトリュフォーが情熱であったとするならば、リヴェットは私たちにとって心の逡巡であり引っかかりだった。白い紙に落ちたインクの染みであり、壁の穴であり、心の疼きであり、黒い十字架だった。そう。『美しき諍い女』で、ジェーン・バーキンがミシェル・ピッコリの絵の背面に密かに記したあの黒い十字架のように。ジャック・リヴェットは私たちのブラックスターだったのだ。

http://www.lemonde.fr/disparitions/article/2016/01/29/le-realisateur-jacques-rivette-est-mort_4856051_3382.html

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

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3 Comments
  1. リヴェットの追悼上映見に行きました。

    その後、追悼上映企画ってどうなってるのでしょう。
    ちょいちょいこちらを覗いてるのですが・・・。

    個人的には嵐が丘をスクリーンで見たいです。というのも、自分が持ってるDVDが字幕なしなものでして・・・。

    • コメント&リヴェット追悼上映会ありがとうございます!現在、幾つかの場所で追悼上映をすべく動いております。また、IndieTokyoとしても上映と、そのためのクラウドファンディングを行う予定ですので、引き続きどうぞよろしくお願いします。詳細は、近日発表できると思います!

  2. ご返信ありがとうございます。

    初夏にはセリーヌとジュリー〜を、晩秋には北の橋を。
    繰り返し繰り返し見ています。見れば見るほど好きになる映画を残してくれた
    リヴェットには感謝しかありません。

    日本語字幕付きのdvdは買い揃えてはいるのですが、それでも日本では観れる作品が限られており、
    上映会は心待ちにしております。発表楽しみにしていますね。

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