犬の映画です『中国は近い』(1967)


次の選挙に出馬するヴィットリオとその姉エレナに対して、その下で会計士として働くカルロとジョヴァンナが二人に性的な関係を用いて取り入っていく。いわゆるブルジョワ批判として、いかにも“ベロッキオらしい”という一言で括られてしまいそうである。しかし、いつもベロッキオ映画を見てて思うのは、個々の作品のスタイルはバラバラで、ベロッキオ映画とは何かということが分からなくなってしまう。

『中国は近い』(1967)は「我々の生活には常に政治が存在している」「重要な問題から目を背けてきた…すなわちセックスだ」といった、ブルジョワ階級を批判する政治理論が語られる演説シーンから始まる。これからの展開をあらかじめ理論的に補強しつつ、予告するようなシーンに見えるが、それはヴィットリオの飼い犬が邪魔をすることで中断される。政治的な理論が犬の介入による滑稽さで宙に吊られる。ラストでは立派に(?)人を集めて演説をするヴィットリオの演説が猛犬の介入で中断され、場内は混乱に陥る。あるいは、カルロとヴィットリオの和解は犬と遊んでいるうちに生まれるものでもある。

この映画で重要なのは政治的な理論よりも、滑稽さではないか。実際にこの映画は思わず笑ってしまうようなシーンが多い。ヴィットリオは政治家としての威厳を見せるのとは反対に終始笑いを誘う。スーツというよりは、寝起きのだらしないガウン姿が印象的であるし、何処か間の抜けた彼は周りに振り回され続ける。新車は演説に失敗し聴衆の反感を買いボロボロにされる。滑稽なヴィットリオを見ていれば、ブルジョワ批判よりも、彼や彼の周りにいる人たちの成功を思わず夢見てしまう。だから、彼らが夢見ている理論に説得力があるように思えてくる。しかし重要なのは、むしろその理論が打算によって崩れることで、犬を含めた登場人物たちが他の関係、他の可能性に開かれていることだ。

初期の作品だから、単純にいろんなスタイルを取っているとも言える。しかし、それを考えても異質なこの作品から見えてくるのは、理論に収まらない複数のモノたちが入り乱れる関係性が問われているということだ。それが、ベロッキオ映画の良く分からなくなる過剰な瞬間であるし、そこからもう一度考えてみなければならない。そうした映画の基本を思い出させてくれるのが、ベロッキオの面白さでもあるのではないか。

 

Printベロッキオのレアな傑作2本が池袋新文芸坐で上映されます! 新文芸坐シネマテークVol.8 イタリアの怒れる巨匠/マルコ・ベロッキオ 3/18(金)『母の微笑』+講義(大寺眞輔)19:15開映 3/25(金)『エンリコ4世』+講義(大寺眞輔)19:15開映

 

 

 

 

第8回 新文芸坐シネマテーク

三浦翔
アーティクル部門担当、横浜国立大学人間文化課程4年、映画雑誌NOBODY編集部員、舞踏公演『グランヴァカンス』大橋可也&ダンサーズ(2013)出演、映画やインスタレーションアートなど思考するための芸術としてジャンルを定めずに制作活動を行う。