愛についての考察~イーダ・ダルセルの場合~


美容サロンを経営する才女イーダの前に現れた一人の男、それは後にイタリア史に名を刻む唯一無二の独裁者となる若きベニート・ムッソリーニだった――

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『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』は、その名の通り、イタリアの独裁者ムッソリーニを生涯愛し続けたイーダ・ダルセルという一人の女性の物語だ。べロッキオにより映画化されるまで、イーダの生涯は本国イタリアでもあまり知られておらず、ムッソリーニと愛し合っていた事実、また彼女が実在したことさえ政治的圧力により隠され続けていた。それは、彼女の執拗なまでの“ムッソリーニへの愛”が招いた悲劇である。愛が生んだ悲劇… 誰もがそう思っていた。ラストシーンの彼女のなんとも誇らしげな表情を見るまでは。勝者の表情、それ以外の何物でもない。

イーダの言葉と共に、この愛の経緯を綴るとしよう。

 

靴ひもが解けてるわ 

初めて二人が結ばれたその夜、建物の外が騒めき、サラエボ事件の勃発を機に第一次世界大戦が始まったことを予感させる。その様子をバルコニーから裸で眺める彼に駆け寄り、真っ白なシーツで包み込むイーダ。そして、鬼気迫る表情で大急ぎで出ていく彼にかける最後の一言。今夜限りかもしれない相手、はたまた戦争に向かう男に対して発するこのセリフは、イーダの従順で献身的なキャラクターが強調されている。その後、「ポポロ・ディタリア」を創刊するというムッソリーニの新たな野望を聞く場面でも、イーダはとっさに彼の足元に跪き、靴ひもを整える。服従ともとれる行動だ。

愛する人の力になりたいのよ

イーダは、一糸纏わぬ姿で彼の帰りを待つ。そして、ムッソリーニの新聞発行のために自身のマンション、経営している店、宝石、何もかも売り払ったと打ち明ける。なんの躊躇いもなく借用書にサインし、金を受け取るムッソリーニ。愛する人のために、自分を犠牲にして全てを捧げた彼女の援助により、社会党を追われたムッソリーニは独自の戦論を展開し、次第にファシスト指導者としての力を付けていくことになる。そんな最中イーダの妊娠が発覚し、彼もその事実を受け入れる。しかし、いつも優先させれるのは後妻ラケーレと5歳になる娘エッダだった。家族にブラームスの『子守歌』を弾いて聴かせるヴァイオリンの優しい音色を、イーダはどんな心境で聴いていたのだろう。この頃からムッソリーニはイーダを遠ざけていく。

 

弾は一発だけ

あなたの父親を撃つの

ムッソリーニ内閣が発足した時、彼は既にニュース映画や新聞記事の中の存在。彼の妻と3人の子供たちとの幸せそうな写真を目にしたイーダは、息子の目の前で、うつろな表情でおもむろに銃を手にする。一人の女として、またこの子の母としてのプライドが決して彼を許すことはない。

 

私は彼の妻よ

今の彼がいるのは私のお陰よ

白いヴェールをまとったイーダとムッソリーニの結婚式。これは一体、彼女の夢なのだろうか、はたまた妄想なのだろうか。そもそも、イーダは終始「私は妻」と主張しているが、結婚したという事実を裏付ける描写がない。実際、その証拠は見つかっていないという。本当のところは誰も知る由もない。その後送還された精神病院では、「私はナポレオンの妻よ」と名乗る患者もいる。このような状況では、もはやイーダの発言や記憶の信ぴょう性も危うくなり、今や神のような存在の男との過去の恋愛関係など、当の本人でさえも事実を疑わざるを得ない状況だったのではないか。自らを信じ、発信しない限り、あっさりと闇に葬られたことだろう。

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もし私が死んだら事実は闇に葬られる

だから叫ぶの

愛した男に存在を否定された私は幽霊よ

精神病院に数年収容されても、ファシズムに染まる国中を敵に回してもなお、ただ一人、婚姻の事実を訴え続けるイーダ。精神科医に「まだ若い、未来を生きろ」と説得されるも耳を貸さず、意思を曲げない。しかし自らの現世には何も期待していない様子。ここまで来ると、イーダは何がしたいのだろうと疑問を抱く。その答えは、その後野外スクリーンで上映されている映画を見て涙を流すイーダの素直な表情が教えてくれる。母としての息子への愛が彼女の今の強さなのだ。

 

私を忘れないで

イーダの劇中最後のセリフだ。どういう状況でこの言葉を発したかは実際に見てもらいたい。これが、自らの悲劇を受け入れ、ある種の覚悟を持った女の強さと自信を意味する言葉だろう。それを実現させたのが、この映画だ。これは紛れもない事実なのだida2

 

狂気とも異常ともとれるほど愛に身を捧げたヒロインとして、『カミーユ・クローデル』と対比されがちだが、カミーユの愛はその大きさと同等の憎しみと化した。精神を病んだ彼女は、自分から若さと才能を奪ったロダンを悪の対象として亡くなるまで恨み続けた。それに対してイーダは、ムッソリーニという夫である、息子の父親である一人の男を愛している、という信念を曲げなかった。愛し、愛し合った過去を信じ続けた。

「愛している」と生涯を通して伝え、相手の脳裏から自分たちの存在を消させないことが、本来の目的だったのではないか、と私は思う。世の男性にとっては憎まれることより恐ろしいかもしれない。実際、ムッソリーニが晩年、一瞬でも彼らに思いを馳せることがあったなら、それはイーダの完全勝利である。

私はここにいる。嫌われるより、忘れられることの方が許せない。

Printベロッキオのレアな傑作2本が池袋新文芸坐で上映されます!
新文芸坐シネマテークVol.8 イタリアの怒れる巨匠/マルコ・ベロッキオ
3/18(金)『母の微笑』+講義(大寺眞輔)19:15開映
3/25(金)『エンリコ4世』+講義(大寺眞輔)19:15開映

第8回 新文芸坐シネマテーク

田中めぐみ

World News担当。在学中は演劇に没頭、その後フランスへ。TOHOシネマズで働くも、客室乗務員に転身。雲の上でも接客中も、頭の中は映画のこと。現在は字幕翻訳家を目指し勉強中。永遠のミューズはイザベル・アジャー二。