その他のインタビュー

lily_portrait_tub■デジタル時代にインディペンデント映画作家が立ち向かうべき問題とは?

「私にとって、映画製作とは発明家になるようなものよ。どんな時代にも、その時既にあった物を土台として様々に異なる何かが発明された。私たちは私たちの時間と空間に属している。私たちは、私たちの時間と空間が生みだしたものでもあるの。私は、「ちくしょう、35ミリフィルムで撮らなくちゃならないんだ!」とかそんなこと言うタイプじゃない。私たちは私たちがすべきことをする。そして私には私の美学がある。(「スリラー」メイキングのVHSテープを指さして)これが私にとっての映画学校よ。毎日、何ヶ月も続けて見直したわ。何千回もこれを見直す必要が私にはあったの。映画製作には様々な問題があるんじゃなくて、すべては一つの問題なの。問題を解決し続けること、ただそれだけがあるの。」

■インディペンデント映画作家にとっての未来とは?

「映画の未来に起こり得ること、それは、どれだけ大量の映画が作られるようになっても、結局良い作品の割合は変わらないだろうってことね。良い映画を作ることは簡単じゃない。そして、たとえ良い作品を作っても、それがすなわち誰もが興味を持つってことにはならない。保証なんてないの。誰もあなたに借りがある訳じゃない。他人の興味を勝ち取らなくちゃいけないのよ。どれだけ沢山のアイディアに溢れた発明家がかつて存在して、そしてどれだけの発明が実際に生まれたか?それを左右するのは、まるで事前に予測することもコントロールすることもできない時代精神みたいなものね。発明家はただ自分の発明を信じて、自分のアイディアに魅了されているべきだし、そうすることしかできない。そのうち、他の誰かも同じように信じてくれるかも知れない。でも、それを予測することはできないのよ。」

■映画学校は本当に役に立つのか?

 以前、こう言ったわね。「映画作りというのはセックスみたいなものよ。やり方は一つじゃないの。そしてそれを学ぶには、自分でやってみるしかない」。今でもこの通りだと思うし、付け加えるなら、他のアーティストの作品作りを手伝うための場所は道具として使えるってことね。私はUCLAの映画学校で脚本を学んだけど、それがLAに引っ越す格好の理由になった。そこで何人かの良い友達と会ったし、その一人は私の映画編集者になったわ。あそこでは2年間で5本の長編映画脚本を書いた。でも、私は映画学校で映画作りの方法を学んだり、物語を語る方法を学べるなんて期待してなかった。だって、そんなことできないから。

 映画学校は道具であって、道具はそれ自体では役に立たないものだと思う。道具が目的を持つには、他に沢山のものが必要なのよ。それは、他の何かを作るためにあるものなの。でも、道具になるのは映画学校ばかりじゃない。映画を見ることだってそうだし、好きな作品の脚本を読むこと、好きな監督のDVD特典を見てその舞台裏を学ぶこと、カメラを手にして作品作ってみること、世界を旅して回ること、本を読むこと、音楽を聴くこと。自分がクリエイティブになれて、自分がやってることや人生そのものに魅了されることであれば、何でも道具にするべきなの。映画というのはまさに人生を生きることであって、これは映画学校で得られるものじゃないわ。ヘルツォークがまさにそれを言い当ててたけど、彼はこう言ったの。「アフリカで生きるボクサーは、彼が世界で最高の映画学校を卒業するよりもフィルムメイカーとして相応しい訓練を受けている」。

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。