50年代のこと、
80年代のこと、
そして10年代に現れた、
ちょっと特別な映画作家アナ・リリ・アミリプールのこと

GirlNightThroat 『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』は新鮮な、生気に満ちた作品である。そして、これは異例なことだ。何故なら、この作品はヴァンパイア=生気を失った孤独な都市生活者のシンボルを描いた作品であるからだ。そしてまた、この映画を撮った女性映画監督アナ・リリ・アミリプールは、明白なシネフィルであり、『ザ・ヴァンパイア』自体、その本質は「映画のための映画」という部分にあるからだ。

 彼女は、この作品を撮るときに影響を受けた映画作家として、次の5人の名前を挙げている。つまり、デヴィッド・リンチ、ラース・フォン・トリアー、ロバート・ゼメキス、スティーヴン・ソダーバーグ、クェンティン・タランティーノだ(#1)。(このリストは、彼女の気分によって多少変動する。)そして、『ザ・ヴァンパイア』を見る誰もが、そこに初期ジム・ジャームッシュを付け加えることが出来るだろう。もちろん、これらは偉大な映画作家たちに違いない。しかしその後、彼らの後を追う多くのフォロワーたちによって「映画のための映画」のテーゼの元に作り上げられてきたのは、もはや使い尽くされ、飽きられてしまった古臭いジャンルの荒廃した風景に過ぎなかった。

 だから、リンチ作品への熱烈な愛を語るのがこのアミリプールという実に不思議な映画作家でなければ、私たちはさほど関心を抱かなかったかもしれない。ジャームッシュのように50年代クールを大がかりに作品に取り込んだのが、この『ザ・ヴァンパイア』という奇妙に魅力的な映画でなければ、それは私たちにとってどうでもいい単なる一つの事実に過ぎなかっただろう。逆に言えば、『ザ・ヴァンパイア』はその意味でちょっと特別な映画なのだ。

 『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』が語るのは、石油採掘機が立ち並ぶ砂漠の中の小さな街バッドシティの物語だ。そこで、麻薬中毒者の父親と一匹の猫を養う青年アラシュと、一人の「少女」が出会う。「少女」は、真っ黒なチャードル(イランの女性用伝統衣装)をスッポリと頭からかぶり、その下にはボーダー柄のTシャツを着込んで、スケートボードに乗り夜の街を滑っていく。おそらく、このイメージ一つでこの作品は既に勝利を収めたと言って良いだろう。

a_girl_photo3 青年アラシュのキャラクターは、明らかに1950年代のジェームズ・ディーンを想起させる。あるいは、その50年代クールを80年代に再生させたジム・ジャームッシュだ。一方、少女が着るボーダー柄のTシャツは50年代のジーン・セバーグだが、その衣装を引用した80年代のマドンナ「パパ・ドント・プリーチ」も同時に思い出させるだろう。このように、50年代と80年代の反響が幾重にも相互に参照し合いながら、この2010年代半ばに撮られた作品へと折り重ねられている。それはやがて、「少女」が孤独に暮らす街外れの小さな部屋の壁に飾られた無数のポスターへと集約されていくだろう。

 「少女」が愛する主に80年代ポップスターたちの肖像は、同時にそれをフェイクとして演じる現代の人々の肖像でもある。例えば、マドンナに扮しているのはカナダの女流作家マーガレット・アトウッドだ。これはIndiegogoで『ザ・ヴァンパイア』への増資を募ったクラウドファンディングキャンペーンに彼女が多額の支援をした事へのキックバックだが(#2)、同時にこの作品において決して表面には現れてこない何か、つまり、常にスクリーンの背後から潜在的なエネルギーを私たちに感じさせる何かへと繋がっているように思われるのだ。

MA2 2012年、ComicConに参加したアトウッドは、そこでイラン出身でアメリカに住む無名の女性アーティストと出会う。彼女はアーティストであり映画作家でありDJでありダンサーでもあると名乗った。そして、ポールダンスをしながら初めての長編映画のために製作資金を貯めている。それは、チャードルをかぶった女性ヴァンパイアが男たちに復讐する映画である。これを聞いたアトウッドは、すぐさまそのアーティスト、つまりアマポアーへの投資を決めたとのことだ。

 「少女」の部屋のポスターには、このようにしてこの作品へと集まってきた女性たちの姿が見られる。そしてその中央には、アマポアー自身のポスターも貼られている。それはあたかも、この映画の全てが彼女の個人的な夢であり妄想であり野心であり復讐であり宣言であることを一切隠すつもりがないという証明でもあるかのようだ。(彼女自身は、パーティ場面でも扮装姿で出演している。)

 確かに、「フェミニスト・イラニアン・ヴァンパイア・ウェスタン」と銘打たれたこの作品は、決してフェミニズムのメッセージを表明するために作られた作品ではない(#3)。中東に暮らす抑圧された女性の声を代弁する映画でもない。だが、それは同時に単なるホラー映画でなければ、映画のための映画でもない。逆に言えば、その全てである。その全てを同時に含んだアナ・リリ・アミリプールという実に魅力的な存在、アーティストであり映画作家でありDJでありダンサーであり、同時にイラン出身のアメリカ人女性でありシネフィルでありデヴィッド・リンチを心から愛している彼女が全身から表出するエネルギーが結晶したような作品であるのだ。

 そしてそのエネルギーは、必ずしも動的なものとして表出されているわけではない。『ザ・ヴァンパイア』は、時折激しい暴力が横切るものの、全体として静かでテンポの緩慢な、まるで夢のような作品である。通りを挟んで、犠牲者の男とヴァンパイアの「少女」が無言で相手を見つめ合う。ただそれだけで、どんな言葉よりも雄弁に観客へと語りかけてくるのがこの作品であるのだ。

 そして、まるでサイレント映画のように美しく、同時に視覚的スペクタクルに満ちあふれた場面の数々。とりわけ、アラシュと「少女」が発電所の力強い光を背景に語り合う夜の場面や、彼女の部屋のミラーボールに照明を当てられながら、ゆっくりと近づいていく、まるで『ノスフェラトゥ』のように美しい場面。こうした心震わせる見事な場面の数々を通じて、『ザ・ヴァンパイア』はあたかも夜の帳が降りるかのように、私たちの皮膚の下へと静かに入り込んでくるのだ。

#1
http://filmmakermagazine.com/83652-interview-with-a-girl-walks-home-alone-at-night-director-ana-lily-amirpour/#.VTyw0iHtlBd
#2
http://www.retreatbyrandomhouse.ca/2012/10/margaret-atwood-gets-madonna-fied/
#3
http://bloody-disgusting.com/news/3278098/sundance-14-ana-lily-armirpour-interview/

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。