一人の人間が、接する相手や状況によって態度を変えることを心理学の言葉でペルソナという…と、どこかで聞きかじった話をふと思い出したのは、きっとこの映画の出演者たちが、役者のそのひとであるのか、あるいは劇中の登場人物であるのか、どのように見えるのかの境目がどんどん曖昧になっていったからだろう。
『王国(あるいはその家について)』は、フィクションとして展開される物語と、そのためになんども繰り返される本読みやリハーサルの記録で構成されることによって、映画に出演する役者たちが変化していく過程を捉えた映画だ。
(2017年に本編64分版が発表されており、ここでは第11回恵比寿映像祭などで上映される本編150分版について紹介。)

 映画の冒頭、ある夕方、部屋の中に一人の女性が座っている。そこへ男性が入ってきて向かいに座ると、「間違いがあったら言ってください、訂正します」と告げて、持っていた書類を読み始める。それは裁判のための調書で、彼女はこれから殺人の罪で裁かれるのだという。調書が読みあげられるのを、女性は他人事のような顔をして聞いている。
出版社の仕事を休職中の亜希は、帰省した先で、幼稚園から大学までを共に過ごした幼馴染の野土香を訪ねる。4年ぶりに会う彼女は、大学の先輩だった直人と結婚し、3歳になる娘の穂乃香と3人で暮らしている。一家の住まいは温度や湿度まで気の配られた、とても居心地の良い家で、一方で直人は家族を守ろうとするあまり他者を排除しようとするような節があり、また野土香には少し疲れているような印象があった。亜希が休職していることを知った直人は、その原因は完全に精神的な病気にあるから、友人の家ではなく病院に行ってくれ、さもないと妻や娘にまでそれがうつっておかしなことになってしまう、とまで言ったのだった。
亜希が東京に帰ろうとしていた日、街を台風が直撃する。突然外出の用事ができたという野土香から穂乃香の面倒を見るよう頼まれた亜希は、家の中で折り紙を教えていた。しかし台風の目の中に入り晴れ間が見えたとき、穂乃香にせがまれて二人で橋を見に行った亜希は、彼女を川に突き落として殺してしまう。

 この映画で展開される物語はフィクションではある一方で、リハーサルを重ねるにつれ俳優たちの演技が変化していくさまはドキュメンタリー映画とも言えるのかもしれない。現実にカメラを向けて映画が撮られるものである以上、それらを区別することにあまり大きな意味があるようには思えないけれど、この作品を観たとき、何度も脚本が読み上げられている『王国』という映画そのものではないのに、自分はその映画を観ているのではないかという感覚があった。
リハーサルの様子を記録したテイクによって人物の立ち位置やカメラのアングルが違っていて、役者が演技を変化させていくのと同じように、彼女たち以外の作り手もどのように映画を作るのかを模索しているようだった。語られる脚本を、調書が読み上げられることによって提示された物語を展開するものだと受け取り、いつしか自分の中で勝手に組み立てて、演じる役者たちと、少しずつ映される屋外の風景を通して、きっとこういう映画ができるのだろうと想像していた。それはまだ形が無く誰とも共有することのできない、この映画を通して自分だけが見ることのできるものだったように思う。

 タイトルにある「王国」とは何なのか。
 亜希と野土香は幼い頃、台風の日に二人で椅子とシーツでお城を作った思い出を語っている。二人はそれを「王国」と呼び、他の人が入れないよう合言葉を決めていた。
全ての後、亜希は野土香へ宛てた手紙の中で「王国」について話している。二人は言葉を交わすことによって、今いる場所とは全く別の時間、二人だけの場所を作り出すことができたのだと。亜希にとっての「王国」は、共に過ごした時間やコミュニケーションから起こる関係性のことを指しているのか、けれど一家の新居に突然現れた亜希を直人が部外者として見なしていたように、親しい相手であっても、自分以外との間に築かれた濃密な関係に簡単には立ち入ることができないという感覚は、たしかに土地や領土にたとえて腑に落ちるものがある。

 リハーサルが進むにつれ、脚本の場面番号と、ト書きの風景描写が読み上げられる一方で、役者たちは徐々に沈黙が多くなっていく。互いを見る視線や、ただ向かいあって座っているということ、言葉を語る以外の方法でひとつの場所を共有しあっているようでもある。脚本の中でも、直人は、亜希と野土香が、言葉に出さずにほかの人には何をやり取りしているのかわからない「暗号回線」で意思疎通をすることがあると指摘している。
私はあまりにも、亜希によって語られる手紙の文章や劇中の言葉、あるいは物語に支配されて映画を理解しようとしてしまっているような気もする。けれど「王国」が、語られる言葉によって立ち上がっていくものであるとするなら、初めて接するものに対して、それが発する言葉を受け取って、その意味することを探ってみたくなってしまう。

 冒頭で読み上げられた調書の内容と、リハーサルで読みあげられていた脚本の場面には細かなズレがある。もしかしたら表向きはこのように説明したというだけのことであって、最初に説明される出来事の一部始終ですら事実ではなく、他人の親密な関係性に立ち入ることができないように、そこで何が起こったのかという本当の真実はわからないものなのかもしれない。
映画に出演しているある人物に対して、冒頭の場面では取調べを受ける劇中の登場人物の亜希、本読みをしている場面では亜希を演じるための準備をしている俳優、と受け取ってしまうように、一つの事物にもいくつもの面があり、そのどれもが嘘ではない。
接する相手との目に見えない関係性によって、目に見えるものとして出てくる態度が変わることを、私は生活している中の実感として抱いている。その関係性は、たしかに誰かと共に過ごした時間の積み重ねから作り上げられていくものだ。
それは役者たちが何度も言葉を語り、自身の演じる役へと変身するまでの時間を共有するというこの映画の在りようと、ただ単に映画がフィクションなのかノンフィクションなのかというような枠を超えて通じ合っていて、そこには誰にとっても無関係なものではない切実さがあり、だからこそこの映画の2時間半は濃密なものなのだと思う。

『王国(あるいはその家について)』は、2月8日(金)より開催される第11回恵比寿映像祭にて上映されます。
恵比寿映像祭公式サイト

また、関西地区では2月9日(土)より出町座、元町映画館、シネ・ヌーヴォの3館で開催される特集「次世代映画ショーケース」にて上映されます。
「次世代映画ショーケース」公式サイト

『王国(あるいはその家について)』
(2017-2018年/カラー/スタンダード/150分)
監督:草野なつか
出演:澁谷麻美、笠島智、足立智充、龍健太
脚本:高橋知由
撮影:渡邉寿岳
音響:黄永昌
編集:鈴尾啓太、草野なつか
エグゼクティブ・プロデューサー:越後谷卓司
企画:愛知芸術文化センター
制作:愛知県立美術館

予告編

吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。大学は卒業したけれど英語と映画は勉強中。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感じが好きです。