母性でなぐりあう女たちの狂気――『母という名の女』レビュー


カンヌの申し子、ミシェル・フランコ監督が、またもやすばらしいキャラクターを創りだした。過去作『父の秘密』では、娘への陰湿ないじめを知り衝撃的な行動にはしる父親を、『或る終焉』では、心に矛盾をかかえる献身的な看護師を描いた。そうして、観客に混じりっけない人間の本性を突きつけ、ステロタイプな人物像や善悪の価値基準をあっけなくぶち壊してみせてきた。6月16日より公開される最新作『母という名の女』では、母と娘がひとりの若い男の「所有」をめぐって、血もきずなもない争いをくりひろげる。と書くと、いかにもメロドラマティックな展開に聞こえるかもしれないが、そんな生やさしいものではない。

美しくきゃしゃで臨月のおなかを抱えた17歳の快活なヴァレリアと、その姉でやや太りぎみのもの静かなクララ。二人が暮らすプエルト・バジャルタのあか抜けたコテージに、長く離れて暮らしていた母エイプリルがやって来る。初めての出産をひかえ不安を隠せないヴァレリアのために、クララが呼び寄せたのだ。観客は、姉妹の少ない会話から、「子に無関心で無責任な母親」を期待するが、エイプリルはいわゆる「毒親」には見えない。なんだ、と拍子抜けする。ほんの少し過保護かもしれない。だが、あけひろげで明るく、何でも打ち明けられる友人みたいじゃないか。

これは、フランコ監督が冒頭のシークエンスでしかけたわなである。さわやかな朝の光が差し込むキッチン、無表情で野菜をきざむ姉の背後の部屋からは、妹が彼とセックスにいそしむあえぎ声が聞こえてくる。ひと仕事終え汗をふきながら部屋を出てきた妹は、照れも悪びれたそぶりも見せない。姉は感覚が死んでしまった目でひとり朝食を食べはじめる。固定カメラが彼女たちの日常を淡々と映しだすせいで、ひとさまの家庭の内幕をのぞかされている気がして、なんだかバツが悪い。そこへさっそうとあらわれるのがエイプリルだ。重苦しい雰囲気を一変させる彼女が、まるで救いの女神に見えてしまうのである。

しかし映画は、しだいにエイプリルの本性をあらわにしていく。彼女にとって、「母」という立場は、ものごとを意のままに進めるための便利な道具にすぎない。人生の先輩ヅラをし、最適なアドバイスを与える親身さをたてに、娘と将来の婿をたくみにあやつっていく。今すぐスクリーンに飛び込み、とどまるところを知らない欲深き女の行く手をはばんでやりたい――観客にそこまでの没入感をつのらせるのが、『或る終焉』に引き続きタッグを組んだ撮影監督イヴ・カープの計算しつくされた映像だ。光と影を印象的に用い、言葉少ない登場人物たちの内なる感情をより強烈に浮かびあがらせる。

あらゆる場面で逃げ出したくなる異様な緊張感がしくまれている。事態の好転をほのめかす方向に希望を寄せた瞬間、さらなる絶望と向き合うことになる。物語の中心にいるのは母娘だが、二人と周囲の人間の感情が常に絡み合う。どの人物に入れ込んで観るかによって、映画の印象は大きく変わってくるだろう。フランコ監督の狡猾な手腕に振りまわされながらも、ひきつけられてやまないのは、きっと誰もが少なからずかかえている心の闇を、スクリーンの中に見てしまうからだ。良心と常識と世間体という鎖がはずれたときに解きはなたれる怪物を、私たち自身も内に秘めているのかもしれない。人間の業の深さを最も不快なかたちで示す、おそろしい映画である。

『母という名の女』

(2017年 / 103分 / メキシコ / 英語 / PG12)

監督:ミシェル・フランコ

脚本:ミシェル・フランコ

出演:エマ・スアレス、アナ・ヴァレリア・ベセリル、エンリケ・アリソン、ホアナ・アレレキ、エルナン・メンドーサ

配給:彩プロ

原題:Las hijas de Abril/April’s Daughter

2018年6月16日(土)渋谷ユーロスペースほか全国順次公開

公式サイト

 

小島ともみ
80%ぐらいが映画で、10%はミステリ小説、あとの10%はUKロックでできています。ホラー・スプラッター・スラッシャー映画大好きですが、お化け屋敷は入れません。