愛が光として立ち上がる『世界の優しき無関心』



現在開催中である東京国際映画祭2018も、残すところ数日となりました。期間中ありったけの時間を捧げ、腰が若干腰痛気味。本日は、アディルハン・イェルジャノフ監督の美しい映像詩とも言える『世界の優しき無関心』をご紹介したいと思います。



美しい自然に囲まれた屋敷に暮らすサルタナット。ある日突然父親が亡くなり、一家には多額の借金が残された。家が没落してしまう窮地に立たされ、サルタナットの母親は彼女に、都会に住む叔父に肩代わりを頼みに行くよう促す。嫌がるサルタナットであったが、土地を取られるだけでなく母の薬代と弟の学費はどうするのだと詰め寄られ、叔父を訪ねる覚悟を決める。サルタナットを密かに愛する一家の使用人クアンドゥクは心配し、彼女に付き添い二人は街を目指す。

叔父を訪ねると見知らぬ男と関係を持つよう強要され、耐えきれずに逃げ出したサルタナットは、クアンドゥクと逃避行の生活を始める。彼女は医学部を卒業していたけれど、家の関係で医者としての仕事の経験をすることはなかったために医者としては働くことができず、病院で床を掃除する仕事をするしかない。十分な稼ぎを得ることはできず、クアンドゥクの稼いだなけなしのお金を持って母のために一度家に帰るが、時すでに遅し、母親が逮捕されるところだった。希望のないサルタナットの毎日に、絶望は追い打ちをかけてゆく。

次にサルタナットが街へと戻る時には、サルタナットの赤色のワンピースと黄色い日傘に、絶望の青色が混ざりあい、彼女を包む衣服は黒色に染まっていた。美しく健気に咲いていた花も、気がつけば枯れている。クアンドゥクも、他人の裏切りによって心を深く傷つけられつつも他人を欺かずに生きてきたが、彼にとって絶対的であるサルタナットへの愛のために、とうとう仕事仲間を裏切ってしまう。道端に咲く花に水をあげるほどに深い優しさを持つ彼の心も、だんだんと悪に蝕まれていたのだった。二人はどんどん堕ちてゆき、それは止まるところを知らない。

美しい映像に、純粋無垢な二人の愛、そして残酷な現実が静かに溶け合い、物語として成立しつつも観終わった後には、指先からこぼれ落ちるような何か美しい光のようなものをみてしまったような気持ちになる。一つの美しい映像詩と言えるだろう。

そしてこの作品では、しばし愛は光として立ち上がる。作品の冒頭、クアンドゥクは鏡に反射させた太陽の光で、草の上で読書に耽るサルタナットに光を当てる。旅路の途中に寄ったカフェでは、二人の間に灯る明かりがあった。二人の心はカミュの一冊の本によって近づき、彼らの間でオレンジ色の灯が穏やかに揺れるのだ。
そして何よりも印象的であるのは、バスの到着を知らせるため、眠ったサルタナットを揺らし起こそうとするが、触れることへ躊躇ってしまうクアンドゥクの手の美しさである。その手の震えが意味するものを言い表すのに、愛という言葉以外どんな言葉があるだろう。

しかし、そんな愛を体現したようなクアンドゥクの手がサルタナットに触れられるのは、死を間近にした時であった。かつて二人が過ごしたような平和な午後に銃声が鳴り響き、画面は警官が二人の死を囲む場面へと切り替わる。美しい風景は変わらずにあり続け、二人の死は世界に置き去りにされるのだが、美しい木々の隙間をも埋め尽くしながら光は揺らめき続ける。まるでクアンドゥクのサルタナットへの永遠の愛のように。

カンヌ国際映画祭「ある視点」部門でプレミア上映されたのち、世界各地を巡回中の今作品。二人の男が取っ組み合いをする様を、犬があくびをしながら眺めている映像に始まるオープニング然り、ユーモアと優しさ、理不尽な世界、社会的な弱者への親密な眼差しで観る者を魅了する。カミュの引用、シャガールを彷彿とさせる落書きなど、フランスの芸術家たちへのオマージュが散りばめられ、叙情的で美しい作品となっている。より多くの人がスクリーンで観れますよう、一般公開を待ち望むばかりである。



『世界の優しき無関心』
The Gentle Indifference of the World [Laskovoe bezrazlichie mira] 監督:アディルハン・イェルジャノフ
100分/カラーカザフ語、ロシア語/英語・日本語字幕/2018年/カザフスタン、フランス



三浦珠青
早稲田大学文化構想学部4年生。熊本育ちの十一月生まれ。時間があれば本を読み映画を観ては眠ります。最近のマイブームは短歌と日記と模様替え。