2019年3月に、アニエス・ヴァルダが亡くなったときはとても悲しかった。悲しかったというのはとてもありふれた言い方だが、勇敢でユーモアがあって、長く今に至るまで旺盛な制作活動を続けていたヴァルダがいなくなってしまったのだとは考えたくなかった。ドキュメンタリー作品では画面に現れ自ら語ることも多かったヴァルダは、特にその存在を強く意識させられる映画の作り手だったからこそ、喪失感を感じた。ヴァルダはどこに行ってしまったのか?
しかしそれからも彼女の映画は劇場公開や特集上映がなされ、その作品に触れる機会、それについて語られる機会は途切れることなく続いている。その中にあってneoneo編集室より刊行された『アニエス・ヴァルダ 愛と記憶のシネアスト』は、ドキュメンタリー史上で特筆すべき作家についての論考を集めた「ドキュメンタリー叢書」の第2弾で、日本語圏では1冊全てをヴァルダに捧げた初めての書籍だという。

本書はヴァルダの長女であり、ヴァルダとジャック・ドゥミの製作会社「シネ・タマリス」の運営を担うなどその仕事を支えたロザリー・ヴァルダへのインタビュー、10本の論考、主要な作品の解説によって構成されている。
ヴァルダの作品に触れる機会は多く、それらはとても親しげな視点で周囲の人々を見つめ、観客に軽やかに語りかけている一方で、ではヴァルダとはどのような映画監督なのかということについて考えると、一言で言い表すのは難しいような捉えがたさがある。本書の中で大寺眞輔はヴァルダを形容する言葉として「ヌーヴェル・ヴァーグの祖母、疲れを知らないフェミニスト、ジャック・ドゥミのパートナー、現代女性映画作家のパイオニア、ドキュメンタリー映画の変革者、多面的ビジュアルアーティスト」と挙げているが、そのいずれもが「彼女の全体像を要約する言葉としては全く足りない」と続く。その言葉の表すとおり、その後に続く各論考も、それぞれがヴァルダの持つある一面の要素から彼女と作品を掘り下げてゆく。

論考では、まず冒頭に配された大寺による『アニエスからあなたへ』でヴァルダの生涯や作品が概観され、続く原田麻衣の『アニエス・ヴァルダの「エッセー」』では、仏語のシネマとエクリチュール(書くこと)を掛け合わせた「シネクリチュール」というヴァルダによる造語が紹介される。ヴァルダによると、撮らずに書く脚本家の仕事と演出する監督の仕事を指し、映画監督の仕事を提示しているというこの言葉は、「他でもない映画というメディウム特有の書く行為を指し、ヴァルダの関心は一貫して、映画に/で何ができるかに向けられていた」ことを明らかにしている。映画の書く行為とは、ヴァルダによると「書くことなら文体」であり、映画における文体のことだという。原田は『アニエスの浜辺』から、自叙伝を映画として語ることにおけるヴァルダの手法を分析してゆくが、以降に続く論考も、ヴァルダの映画と写真や文学との関わり、あるいはフェミニストとしてのヴァルダ、夫であったドゥミについて語ることといったそれぞれの視座から、このヴァルダの「シネクリチュール」とは果たして具体的にどのようなものだったのかを解き明かしているようでもある。それらはヴァルダの作品、ひいてはその背後にある思考とその実践を私たちが理解する足掛かりになるだけでなく、一冊を通して読むと、巻頭のインタビューから窺える家族から見た私的な人物像と、各論考による作品といういわば公に発信した面から解釈された人物像、二つが重なり合ってヴァルダという作家像が少しずつ彫り起こされてゆく。
肉親であり仕事を共にした身近な人物が捉えた一人の人間としてのパーソナルな人物像、そこから映画作家としての生涯、作家としての映画に対する考え方、その具体的な試みの検証、と展開してゆく本書の構成は、読み進めるごとに、とある一個人がどのように生き、どのように世界を捉え、どのように格闘しながら映画の表現を作っていったのか、しだいに視界が開かれていくようでもある。

『ラ・ポワント・クールト』を監督した当時、ヴァルダが映画に特別に親しんでいるような、いわゆるシネフィルではなかったことは本書の中でも折に触れて語られている。それまで映画への意識を特別強く抱いていたわけではないヴァルダが、自身の目指した「見る」映画ではなく「読む」映画独自の構造を得ることができたのは小説によってだった、と語る菊井崇史による『映画の渚、まなざしの記述』では、『ラ・ポワント・クールト』と、「二重小説」の形式において制作時にインスピレーションを得たウィリアム・フォークナーによる小説『野生の棕櫚』との構成の比較から、ヴァルダの市井の人々への特有の眼差しについて探っている。それはヴァルダ独自のもので、その眼差しは他者に対していつも開かれていた。
例えば本書の中で松房子が『持続する瞬間──アニエス・ヴァルダと写真』で写真との関わりからその作家性の根源をひも解いていったように、もともとは映画とは異なる分野に親しんでいたヴァルダが、どのように自身の映画の表現を開拓していったのかという分析はとても重要なことであるように思える。ヴァルダという作家には多面的な要素があるが、そこには他者や、あるいは複数の分野に対して開かれた視点からの眼差しがあったはずだ。
ヴァルダは既存の映画を作ろうとしていたのではなく、自身の書きたいことを表現する手段のひとつが映画だと捉えていたのではないだろうか。その当時の既存の映画とは違うところからやってきて、自身の映画を作り上げたのちもそこにとどまることのなかったからこそ、ヴァルダは新しい映画の「書き方」を編み出していったのだ。
本書に並ぶ論考は「アニエス・ヴァルダという一人のアーティストのすべては彼女のものであり、そして同時に、それは未来への可能性として私たちの前に開かれている」(『アニエスからあなたへ』大寺眞輔)と始まり、「ヴァルダの映画は言っている。映画の新たな読み方はこれからも生まれる、映画の新たな書き方はこれからも生まれる、と」(『映画の渚、まなざしの記述』菊井崇史)と結ぶ。ヴァルダの作品を愛する人が、ただその仕事を称賛し回顧するだけでなく、そこから何かを受け取ることを、書き手たちはそっと促す。
だからこそ本書は家族が語るパーソナルな人物像と、作品から探った作家としての人物像の両面からヴァルダを捉えなおしているのではないだろうか。一個人であるヴァルダがいかに生き、いかに作品を作り上げていったのかを読み直すとき、ヴァルダのいない未来を生きる一個人の私たちはそこから何を受け取ることができるのかと問いかけられている。

吉田晴妃
四国生まれ東京育ち。大学は卒業したけれど英語と映画は勉強中。映画を観ているときの、未知の場所に行ったような感じが好きです。