三宅唱『きみの鳥はうたえる』(2018)レビュー


「僕にはこの夏がいつまでも続くような気がした。九月になっても十月になっても、次の季節はやってこないように思える。」

 映画予告に使用されているこのナレーションは、佐藤泰志の原作小説からそのまま引用されたフレーズである。函館シネマアイリスとの企画によって実現された三宅唱監督による『きみの鳥はうたえる』は、原作の舞台であった80年代の国分寺や国立の街を現代の函館の街へと移しかえているが、それは原作のうちにある雰囲気を保持することにもまた一役買っている。

 

 一見してこの作品が特徴的なのは、主人公の「僕」(柄本佑)が固有名を持たない存在-それは原作でもそうなのだが-としてあることではないか。周囲の人間からも二人称代名詞でしか呼ばれることのない「僕」、それは、自分のうちにある感情をほとんど表明しないことにもつうじる。固定した自己同一性を措定することがないこと、それが、佐知子(石橋静河)がいうところの「誠実ではない」ものとしてあることではないか。

 「僕」は、固有名をとらぬ曖昧な存在であるがゆえに、佐知子との関係もまたぬるぬると曖昧な、「面倒ではない」ものにとどまっている。それは、自分の好意を率直に表現することができる静雄(染谷将太)とは対照的であるだろう。

 そのかわりに、「僕」のそうした感情の揺れうごきは、直接的な台詞やナレーションではなく、俳優の身体の動き、あるいはそのキャメラワークによって表現されている。親密な三人のあいだを親密な距離感で撮影するキャメラは、心の機微を、何ごとかを予感させる違和を鑑賞者へとじゅうぜんに伝えている。

 

 「僕」と佐知子の二人のシーンにおいて、佐知子はたびたび静雄の話題を口にする。しかし「僕」は、それに対する反応を言葉にすることはない。つないでいた手を離したり、キスをしたり、身体による表現によって言葉にならない感情を浮かびあがらせるのみである。

 静雄と佐知子が二人で仲よさげに肩を並べているいくつかのシーンにおいても、「僕」はそれをただ眺め、受け止めるだけである。ここでキャメラは、二人から一歩引いたところにある「僕」の顔をとらえることによって、その表情にあらわれる感情を映しだす。「僕」にとってそれは、自分のうちに芽生えたエゴを隠しながら、佐知子の意思と、静雄との友情の双方を不器用にも尊重することであった。

 

 多くのシーンにおいて、キャメラは言葉を発する側だけではなく、それを聞き反応する側の顔の方をもとらえている。言葉ではなく、言葉によって触発されるその心の動きのほうを映しだそうというあり方もまた、「僕」という存在のあり方と響きあっているのではないか。映画の冒頭で語られるナレーションをもう一度確認してみよう。

 「この夏がいつまでも続くような気がする」というのは、「僕」が時間の感覚をうまく感じられていないということであるだろう。「僕」は、時間を知覚する中心としての自己同一的な「われ」が曖昧なままにとどまっているがゆえに、そうした感覚さえもうしなっているのではないだろうか。

 であるならば、三宅唱監督による『きみの鳥はうたえる』は、その原作とは異なって、長くじめじめと蒸し暑い夏の夜が、からりと澄んだ秋へと明けていくまでの作品としてあるのではないか。時間の感覚をうしなっていた「僕」、永遠につづくような夏の夜においてゆらゆらと漂っていた「僕」という存在は、佐知子という存在によって緩やかにかたちをなしはじめるのである。

 『きみの鳥はうたえる』は、夏の終わりが近づく9月1日の公開を予定している。

 

 

函館シネマアイリス開館20周年記念作品

『きみの鳥はうたえる』

2018年 / 106分 / 2.35 / カラー / 5.1ch

出演|柄本佑 石橋静河 染谷将太 足立智充 山本亜依 柴田貴哉 水間ロン OMSB Hi’Spec 渡辺真起子 萩原聖人
脚本・監督|三宅唱
原作|佐藤泰志(『きみの鳥はうたえる』河出書房新社 / クレイン刊)
音楽|Hi’Spec
企画・製作・プロデュース|菅原和博
プロデューサー|松井宏
撮影|四宮秀俊
照明|秋山恵二郎
録音|川井崇満
美術|井上心平
助監督|松尾崇
ラインプロデューサー|城内政芳
アソシエイトプロデューサー|寺尾修一
衣裳|石原徳子
メイク|石川紗織
小道具|平野藍子
キャスティング|神林理央子
スチール|鈴木淳哉、石川崇子
制作主任|小林大地
製作|函館シネマアイリス
制作|Pigdom
配給|コピアポア・フィルム、函館シネマアイリス
宣伝|岩井秀世、大橋咲歩

©HAKODATE CINEMA IRIS

 

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。