レイジング・プチブルの痙攣する美


001『ポケットの中の握り拳』。怒り、衝動、悔しさ、決意、歓喜… 劇的なエモーションの爆発が観る者を待っている、そんなことを予期させる響きだ。

あるイタリアの田舎に住むプチ・ブルジョワ家族、母と四人の子供たち。物語はルー・カステル演じる次男のアレサンドロを中心に展開していく。全盲の母と知的障がいを持つ末っ子レオーネ。好戦的でナルシスティックだが圧倒的に美しい妹ジュリア。癲癇持ちの若き詩人の次男がアレサンドロだ。唯一仕事を持ち、フィアンセもいる長男のアウグストがこの不自由な人々を養う家長である。アレサンドロは、この現状に耐えられない。自分たちが、健全なアウグストの人生を搾取し、彼の未来を奪っていることに。弱く依存的な家族と、無能で怠惰な自分への嫌悪の念を覚える。ダンテの胸像を机に飾る詩人のアレサンドロはある日決意する。

思えばベロッキオは、個人を支配し抑圧する「制度」に挑戦する人間と、それらが壊れゆく様を撮ってきたように感じる。その「制度」とは、家族、教会、政治、などという対象になりながら、彼の鋭い視線が捉えて放さなかったものたちだ。ベロッキオの(長編)処女作にしてマスターピースとしばしば言われる『ポケットの中の握り拳』は、そのなかでも最も原始的な単位となる「家族」という有機的集団の解体の物語である。

アレサンドロが兄を残して心中しようと思い立つ前から、機能不全に陥っている家族の結末は予兆的で、それは映画に始終漂う不穏な雰囲気によって助長されている。この家では明らかに病的な行いが蔓延している。ともに同じ娼婦のもとへ通う兄弟。アレサンドロの危険なカーレースに狂喜するジュリア。家族を殺して自分も命を絶つ、と書き残されたメモを読んだのにもかかわらず、弟を止めずに恋人と戯れるアウグスト。近親相姦を想像させるアレサンドロとジュリアの歪んだ関係。みんなからのけ者にされる知恵遅れのレオーネだけが、唯一正常なのかもしれない。 « What torture, living in this house. »

一度心中を試みるも躊躇し、断念してしまうアレサンドロ。しかし二度目に母を崖から突き落とすとき彼の目に迷いはない。葬儀では母の遺体の上を飛び越えたり、棺に足を突っ込んだりと無邪気で怖いもの知らずな姿を見せる。彼はまたジュリアと共犯的関係を結びながら亡き母の遺品を窓から外に投げ落とし、挙句燃やしてしまう。最後にアレサンドロは弟レオーネに薬を過剰摂取させ、バスタブに沈める。そのことを知ってしまったジュリアは泣き崩れ、階段から転げ落ちるが一命をとりとめる。

デビュー作にして実に野心的な、スキャンダラスな映画である。カトリック的環境と教育のもと育ったというベロッキオによるありとあらゆる反カトリック的な描写が繰り広げられる。娼婦、両親・先祖への不敬、殺人、近親相姦。本作はベロッキオの原点でありながら、同時に『ポケット』以降彼が撮る映画の孕む多くの主要なテーマの痕跡を確認することができる。母親殺し(matricide)、抑圧的な家族とその解体、過激化する若者、カトリック的価値観への挑戦…ベロッキオはアレサンドロによって何を描いているのだろうか。革命前夜的な60年代の怒れる若者の暗流か。外部との交流が絶たれた閉鎖的な田舎のなかで抑制された暴力の顕在化か。偽善と欺瞞に満ちた教会への痛烈な批判か。監督自身の気鬱な過去の自伝的ストーリーか。おそらくベロッキオの射程にあったものはその全てであり、もっと多くのことであろう。彼の社会に対する挑戦的(好戦的とも呼びうるかもしれない)な、異議申し立てする姿勢は『ポケットの中の握り拳』の時点で顕在だった。

002映画の最後でアレサンドロはヴェルディの『椿姫』のオペラ曲(Sempre Libera)をかけて、意気揚々とデタラメに曲を口ずさみながら部屋を飛び跳ねる。しかし持病の痙攣を起こし、ジュリアの名を叫びながら床でのたうち動かなくなり、物語は幕を閉じる。ここで流れる音楽は、『椿姫』で高級娼婦のヴィオレッタが、青年アルフレードからの純愛を受け、愛を欲していた自分に戸惑いつつも、快楽に身をゆだねて自由に飛び回るのが自分なのだと歌ったアリアである。Sempre Liberaとは直訳すれば「いつも自由で」という意味になるが、この歌に主人公アレサンドロのキャラクターが共鳴してくる。「快楽から快楽へ身をまかせて」跳躍するアレサンドロの多動症的アクションの数々(笑い、しかめっ面、ジャンプ)は、一見単調な映画にある種のリズムを加え劇的効果を成している。このアレサンドロの独自なしぐさの一つである、手を額の前に持ってくる動作は、「彼が静かなる秩序と家族がまとまることを暗に願っていることを表現している」とベロッキオは語る。バラバラな家族を正すことが彼の願望なのであって、それが果たされたとき彼はようやく自由になるのだ。

003この映画が最も恐ろしいのは、その主題ではなく、私たちが家族の不道徳かつ奇怪な行いを前にして感覚が麻痺してしまうことだと思う。それがベロッキオの手腕だとも言える。彼の手によればこの家族の「異常さ」は居心地の悪いものにも、単に露悪的なものにも成り下がらず、それどころか崇高な美を感じさせるものとしてスクリーンに映し出される。例えばアレサンドロの母に対する無礼もどこまで本気なのか狂気なのか分からず、完全なる憎悪と敵意でもって描かれているのではない。アレサンドロとジュリアが兄妹以上の関係だということも明白ではなく、二人の微妙な戯れが観客の想像力を鼓舞するばかりだ。そして衝撃的なラストで、『椿姫』のアリアが流れるなか、アレサンドロが痙攣しながら息絶えるシーンは、あまりに美しい。淀みない精神と身体の運動によって、実に映画的な最後によって物語は終結する。非モラル的なアレサンドロの欲望に少しも矮小さや惨めさはない。背徳的なこの物語を美しく高貴なものに撮り上げてしまうことこそ今作におけるベロッキオの26歳にして早熟の才幹であろう。彼の演出の見事さは、アレサンドロの罪をなまじ受け入れてしまう私たちに、その罪を転嫁してさえもいるようだ。


ベロッキオのレアな傑作2本が池袋新文芸坐で上映されます!
新文芸坐シネマテークVol.8 イタリアの怒れる巨匠/マルコ・ベロッキオ
3/18(金)『母の微笑』+講義(大寺眞輔)19:15開映
3/25(金)『エンリコ4世』+講義(大寺眞輔)19:15開映

第8回 新文芸坐シネマテーク


保坂瞳 上智大学外国語学部フランス語学科所属。都内のとある映画館スタッフ。ときに宗教学。『ドリーマーズ』のような生活を夢見てパリに行くが、どこまで成就したのかは分からない。好きなものは抽象名詞。