3月7日にユーロ・ライブで行われた『サンセット』試写会で、上映後のアフタートークを大寺が担当しました。20分間の短いトークでしたが、難解で知られるこの作品を鑑賞するための入り口やその魅力をできるだけ分かりやすくお伝えするよう努めました。トークに対する反響も良く、解説のおかげでこの作品の味わい方が分かったとも言っていただき、とても嬉しかったです。もちろん、映画が面白いのは映画自体の力によるものですし、それを楽しむかどうかは観客それぞれの自由な判断であり趣味でしょう。ただし、様々な理由から観客にとってその作品を十分に味わうための入り口が分かりにくい映画というのは確かに存在します。そうしたとき、その入り口へのガイダンスを行うことも映画批評家の仕事の一つではないかと思います。試写会に来て下さったお客さんばかりでなく、『サンセット』が公開された際にこの映画を見る多くの観客のためにも、この日のトークを簡単に採録しておこうと考えました。以下の記事は、従って『サンセット』試写会での私のトークを元にしたものです。時間の関係で割愛した部分も追加してあります。この『サンセット』というユニークな作品を鑑賞する際の一つの手引きとしていただければ幸いです。

■映画作家

『サンセット』の監督は、ネメシュ・ラースローです。彼は、1977年にハンガリーのブダペストで生まれました。42歳です。パリで学んだ後、ハンガリーの現代映画を代表する巨匠タル・ベーラ監督の助監督を務めました。ネメシュ監督は、その後、処女長編作品『サウルの息子』(16)でカンヌ国際映画祭グランプリ、アカデミー外国語映画賞などを受賞して一躍世界的に知られるようになりましたが、その作品のスタイル的な特徴の幾つかは、師匠とも呼べるタル・ベーラ監督から受け継がれていると言われています。

タル・ベーラは、極端な長回しとゆったりした時間感覚(物語が殆ど進まない)で知られ、スローシネマと呼ばれる現代映画の一つの形式を代表する監督だとも言われています。ネメシュ監督もまた、一つの場面が延々と続く長回しのカメラによる映画作りを行います。また、自分は職業的な映画監督であるよりもアーティストだという強い自覚を持ち、映画作家として一般的な商業映画とは異なる作品を作っていると考えます。実際、『サウルの息子』での成功の後、ハリウッドから招かれましたが、それに応じず自らの出身地ブダペストを舞台にした『サンセット』を長編第二作として作りました。『サウルの息子』での世界的な成功の後、自分のルーツを再び見つめ直そうという自覚がそこからは感じられるのではないでしょうか。

タル・ベーラ監督は、フィルムでの映画製作にこだわりました。デジタル時代になってもフィルムでの映画製作を続け、デジタルで撮ることを拒否し映画監督を引退したほどです。ネメシュ監督もまた、『サンセット』をフィルムで撮り、20世紀初頭のブダペストをCGではなく実際に大がかりなセットを作って再現しました。そこには、デジタルの時代には失われたアナログな手触りへの強いこだわりがあると言えるように思います。

■歴史劇

1913年のブダペストを舞台としたこの作品は、第一次世界大戦直前のオーストリア=ハンガリー帝国を覆っていた不安と恐怖を描いた歴史劇です。

オーストリア=ハンガリー帝国は、ドイツ系の貴族ハプスブルク家の君主が統治した多民族国家で、オーストリアとハンガリー以外に、ボヘミアやクロアチア、スロヴァキア、ボスニア、ヘルツェゴビナなど多くの地域を抱える大帝国でした。話す言葉や文化も異なる多民族国家であるが故に、その内部には多くの矛盾を抱え、分離独立派との抗争が絶えませんでした。たとえば、現在のヨーロッパ連合の中で分離独立派が台頭し、ブレグジットと呼ばれるイギリスのEU離脱が起きたのと状況は似ています。『サンセット』の中で、ドイツ系支配階級に対して反抗し過激な手段に訴える暴徒たちは、こうした分離独立主義的テロリスト、あるいは民族主義的アナーキストだと呼べるでしょう。20世紀初頭のこの映画の時代には、権力者たちは既に民衆を十分に支配する力を失い、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊しつつあったと言えます。

ここには、古い時代のブルジョワ的な価値と新しい時代との対立があります。繁栄を極めたオーストリア=ハンガリー帝国の時代の価値観やその美しさは、この作品が舞台としている帽子店に飾られる上流階級向けの豪華な帽子によって象徴されています。それらは、華麗で限りなく美しい。しかし、帽子店がその背後に暗くおぞましい秘密を隠していたように、ブルジョワ的な美や価値観、権力の背後にも醜いものやおぞましいもの、権力の疚しい部分が隠されていたことが次第に明らかとなります。

ブルジョワの時代の美しさ、その権力の醜悪さ、そしてブルジョワ支配に対する反発や抵抗、それに続く悲惨な戦争の時代…。これらのどれが正しくて、どれが間違っているか、簡単には言えるものでは決してありません。こうした混乱した世界の中で、この作品の主人公イリスもまた翻弄され、混乱していきます。

因みに、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉、ヨーロッパ文明の日没を描いたこの作品は、したがって『サンセット』と名付けられました。このタイトルはまた、ドイツの巨匠フリードリヒ・ムルナウの『サンライズ』に対するオマージュでもあるとネメシュ監督は述べています。人間の文明に対する希望を描いた『サンライズ』に対して、逆にその終焉を描いたからこそ『サンセット』と名付けた訳です。ドイツからアメリカに招かれたムルナウが巨額の予算を与えられて作り上げた『サンライズ』は、街一つを丸ごとセットで創造したことでも知られています。1913年のブダペストをCGではなく実際のセットとして作り出したネメシュ監督の野心は、サイレント時代に匹敵する反時代的な映画を作りつつ、その内容を現代的なものにアップデートすることだったとも言えるように思います。

■ミステリ

『サンセット』のもう一つのスタイル的特徴は、主人公イリスの顔を捉えた極端なクロースアップが続くことです。映画は彼女に寄り添い、彼女と共に世界を発見していくスタイルになっています。

さらに、焦点深度が浅い画面(ピントが合わされた主人公以外は、ボンヤリとした背景にとどまり、曖昧で何が写っているかハッキリと分かりません)もまた、この作品の大きな特徴でしょう。周囲の世界は、あたかも主人公が何かに関心を向けたときだけそこに存在しているかのように見えます。

この映画は、まるで半分しか覚えていないあやふやな記憶、あるいは夢のような現実感に包まれた作品だと言えます。この作品が描くのは、歴史的な場所としてのブダペストと言うよりは、主人公イリスの目から見られた1913年のブダペストであり、彼女の心やパーソナルな体験こそが『サンセット』という作品の最大の関心であると言えるように思います。
この作品を見ている間、どこまでが現実で、どこからがイリスの夢や妄想であるのか判別できないのです。

海外で行われたネメシュ監督のインタビューから、参考になるであろう部分を少し抜粋して翻訳してみます。オリジナルは会話体でやや冗長なので、抄訳の形になります。以下も同様です。

「極端なクロースアップが続く私の映画のスタイルは、物語に基づくものではなく、芸術に対するフィロソフィーに基づくものだ。つまり、自分の映画を見る観客の体験を主観的なものにしたいか、客観的なものにしたいかに関わっている。そして私は、映画や世界の主観的な体験にこそ魅力を感じているんだ。映画はしばしば、神のような視点から描かれ、物語のカタルシスに奉仕するものであればどんなものでも制限なく描こうとする。しかし、私は全く別な映画の可能性を信じているんだ。主観的に作られた映画に対して、それをまた別の主観的体験として受け止めてくれる観客を信じることが大事だと私は考えている。」

■混乱した世界

主人公の視点にピッタリ寄り添い、彼/彼女が世界の謎や陰謀に翻弄されていく姿を描いたミステリ作品と言えば、映画ではヒッチコック(『三十九夜』や『逃走迷路』『海外特派員』など)が有名です。

ヒッチコックの映画では、最初ちょっと理解できないような不思議な出来事が起こります。しかし、主人公の活躍によってその謎や陰謀が解き明かされ、世界は再び秩序を取り戻します。それに対して、『サンセット』では、主人公は家族の秘密や兄の行方を捜そうとしますが、彼女が様々な人と出会い、情報を得れば得るほど、世界は逆に謎に包まれ混沌としていくばかりなのです。

ここで、この作品のもう一つのスタイル的特徴が重要になります。音響、とりわけ主人公以外の周囲の人々が口にする台詞の扱い方です。この映画では、人々の声がその遠近に関わらず同じ音量で聞こえてくるのです。ネメシュ監督は、観客の混乱を生み出すため意図的にこうした手法をとったとインタビューで述べています。それは、何が重要で何がそうでないか、あるいは何が本当で何が嘘か判別できなくするための映画的な仕掛けなのでしょう。

ヒッチコックのようなミステリ映画では、主人公の活躍によって謎が明かされ、世界は秩序を回復します。こうした作品を見ることで、私たちは秩序だった世界の中に生きていると安心することが出来ます。ところが、『サンセット』という映画では、世界は秩序を失っており、それを筋道立てて理解しようとすればするほど私たちもまた混乱してしまうのです。

これは、現代の世界を生きる私たちの感覚に近いのではないでしょうか。現代という時代は様々な情報に溢れていますが、それらを幾ら知ったところで私たちは世界がどのようなものかハッキリ理解することができません。むしろ、知れば知るほど私たちは翻弄されますし、世界が混乱した場所だとしか考えられなくなる。

混乱した世界の前で翻弄される無力な個人の姿、それを主人公に寄り添った視点の中で追体験することこそ、『サンセット』という作品の最大の試みであり野心ではないでしょうか。これは、たとえば小説の分野で言えば、20世紀初頭のヨーロッパを舞台にしたジョゼフ・コンラッドの『シークレット・エージェント』などを少し想起させます。ネメシュ監督は、次のように述べています。

「私たちは世界の混乱を作り出したかったんだ。まるで催眠術にかかったような状態をね。主人公はこの世界に幻惑されている。そしてそれを合理的に理解しようとする気持ちを失っていくんだ。同じように、観客にもこの映画の物語を合理的に理解するのではなく、その雰囲気や状況を感覚的に掴んで欲しいと思う。しかし、そのためには知性が必要なんだ。全てを理解しようとしないこと、全ては理解できないのだと分かるためには知性が必要となる。人生では、私たちは全ての出来事を理解している訳ではない。芸術でも同じ事なんだ。芸術と人生は深いつながりを持っている。今日の多くの映画は、観客にしばしば全てを説明しようとしている。しかし、それこそが間違いなのだと私は思う。」

「この作品の物語は混乱しているといわれる。しかし、それこそが私の狙いであって、混乱とフラストレーションはこの作品の一部なんだ。つまり、主人公は彼女の兄を探し、彼女の周りの世界が善良なものか邪悪なものか突き止めようとする。そしてまた、これはドッペルゲンガーの映画でもある。こうしたポイントさえ受け止めてもらえるなら、それ以上何も理解する必要はない。もちろん様々な解釈は可能だ。作品には色んな手がかりが散りばめられている。しかし、それらが真実であるとは限らない。そうした手がかりもまた別の物語の可能性を私たちに与えてくれるだけなのだ。」

■ドッペルゲンガー

ここで、ネメシュ監督が語るドッペルゲンガーの映画とは、一体どういう意味でしょうか。ドッペルゲンガーとは分身のことで、サイレント時代のドイツ映画や小説などでしばしば好んで描かれました。

この映画で描かれる分身とは、おそらくイリスの兄カルマンに関わる部分だと思われます。存在さえ知らなかった主人公の兄はレデイ伯爵を殺し自分の家に火を付けた張本人だと噂されています。彼は古いブルジョワに火を付け、サラエボ事件に始まる第一次世界大戦を呼び起こした人間の象徴として描かれているでしょう。しかし、その兄は本当に存在しているのか。イリスは怪しげな人々と出会い、彼らが兄ではないかと疑います。しかし、どうもハッキリしません。そうこうするうちに、やがてイリスは、男性しか参加できない会合に潜り込むため男装します。すると、イリス自身が、彼女が探していた兄そのものになってしまったかのようにも見えるのです。

謎を追う者が、あたかも謎そのものの分身になったかのようです。これは典型的なドッペルゲンガーの主題だと言えるでしょう。イリスが探していた兄は本当に存在していたのか。彼女の妄想だったのか。彼女の両親は被害者だったのか。それとも帽子店の女性たちを貴族の元へと送り込んでいた張本人だったのか。彼女は一体どういう家族の中で生まれたのか。彼女は誰なのか。彼女が生きるこの世界はどういう場所なのか。こうした謎を追えば追うほど、それらは曖昧でハッキリしないものになるばかりです。彼女自身の疑惑や妄想、夢と、現実の世界が渾然一体となっていきます。どこまでが妄想で、どこからが現実なのか、全く区別できなくなってしまうのです。

■ラストシーン

ミステリ映画の形式を借りながら、『サンセット』では主人公イリスの活躍と共に世界はますます混乱し、どこまでが事実でどこからが主人公の夢や妄想であるのか、ますます判別できなくなってしまいます。これまで見てきたように、これはしかし、この作品が物語を語ることに失敗し、混乱しているからではありません。現代へとつながる混乱した世界を描いた作品であるからです。

そして、混乱した世界に翻弄されながらも、イリスは真っ直ぐ前へと進み続けます。ラストシーンでは、第一次世界大戦の塹壕で看護師の姿をしている彼女を見ることが出来るでしょう。この場面は一体現実なのでしょうか、それとも寓意的なものなのでしょうか。それは、一体何を意味しているのでしょう。イリスと同じように、混乱した現代の世界を生きる私たち一人一人に対する映画からの問いかけが、そこにはあるように感じます。

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。

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