『クレーン・ランタン』Crane Lantern [Durna Çırağı]
アゼルバイジャン / 2021 / 101分
監督:ヒラル・バイダロフ (Hilal Baydarov)
雪原に立つ男の後ろ姿。強く吹き付ける雪で先を見通すことができない。カットはつぎつぎと変わり、油田と、そのそばで上下運動を繰り返す油井、ロングショットでとらえられた原野と、その奥に見える街などが映し出される。男は語る。「私は自由な鳥だった」。しかし、成長するにつれて「自由は失われたのだ」と。「狩猟者によって胸を撃たれたのかもしれない」という。このようにして開始される映画は、「人間」という「目的地を失った鳥」に関する問いを展開する。
大学院で法学を学ぶムサは、4人の女性を誘拐した罪で服役中の元警察官のダヴに関心を抱き、面会に行って彼の話に耳を傾ける。ダヴの話を聞いているうちに、被害者の誰もが彼への告発を望んでいないことに気づく。むしろ被害者たちは、ダヴという指標となる人物によって新たな真実を見いだすことができた喜びを感じているのであった。
タイトルに付された「クレーン・ランタン」とは、暗中の光明として鳥たちの道標となるものであるが、この輝きに引き寄せられた鳥たちを撃つ狩猟者たちの目印にもなってしまう、両義的なものである。このようなアポリアにかんするテーマは、作中何度も反復されてあらわれる。
ムサは「見えない犯罪のために法がある」というが、別のシーンでは「昔は、世界をありのままに見ていた」が、「言葉」によってそれを失ったことが語られる。岩壁に水面が反射し幻想的な影を形づくっていたり、大地が流れる雲によって翳り照らされたり、水面に白と黒の液体が合流しつつせめぎあっていたり、あるいは廃墟の扉を開閉したりするショット群が示唆するように、ここで法あるいは言葉は、あいまいな物事に境界を分かつものとして機能するものである。けれどもまた「言葉を忘れるな」ともいう。ムサやダヴは、「ありのままに見」るために、森や荒野、川、砂漠、岩肌の上など、自然のなかで目を閉じながら、そうしたあいまいさ=多義性に開かれた物事を感じながら、そのうちに、新たな法を打ちたて、新たな真実を見いだそうとする。「アラブの詩のリズムはラクダの歩調と同じである」こと、「語る人物の背後に木を見出す」こと、それらは、法によって事物を新たなものとして展開する方法である。
油田のシーンにおいて、犬の吠える声が聞こえるが、犬は画面内に登場することがない。また映画全体にわたって鳥の鳴き声が響きわたっており、ダヴとの面会のシーンでは、羽ばたき音と鳴き声に合わせて飛翔する鳥の影が壁に映しだされるが、実際の鳥は映画内では数回しか現れない。黒い鳥は数度、数羽の白い鳥(鶴だろうか?)は廃墟の窓枠に縁取られた空を一度だけ横切っていくだけである。鳥の鳴き声、あるいは犬の鳴き声は、言葉にしないままのあいまいな感情なのだろうか。
昨年、『死ぬ間際』がヴェネチア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、東京フィルメックスで最優秀作品賞を受賞したアゼルバイジャン出身のヒラル・バイダロフ新作『クレーン・ランタン』。前作の主人公と同じ名をもつダヴDavudは、今作でもまた女性たちを解放へと導く存在として描かれている。けれどもそうした解放――男によって抑圧されたものたちが、ケア労働を引き受ける男によって解放されることへの自己批判だろうかーーはあくまで両義的な「クレーン・ランタン」なのかもしれない。難解であるということで(筆者も一度見ただけなのであまりうまく飲み込めていない)、やや評価が分かれているようだが、個人的には本映画祭で一番興味深いと感じた作品だった。
《作品情報》
『クレーン・ランタン』
2021年 / カラー / 101分 / アゼルバイジャン語 / アゼルバイジャン
監督:ヒラル・バイダロフ ( Hilal Baydarov )
出演:オルハン・イスカンダルリ
エルシャン・アッバソフ
ニガル・イサエヴァ
板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。