『私はあなたのニグロではない』リレーレビュー第三弾


 

You damn right, I’ve got the blues, From my head down to my shoes”(憂鬱だよ、頭からつま先までね)。シカゴ・ブルースの第一人者、バディ・ガイの名曲”Damn Right I’ve Got The Blues”で幕開ける『私はあなたのニグロではない』(二〇一七)は、公民権運動家でもあった作家のジェイムズ・ボールドウィンの未完の著作『Remember This House』をベースに制作された、ハイチ出身のラウル・ペック監督によるドキュメンタリー。ボールドウィンが見たメドガー・エヴァーズ、マルコムX、キング牧師らの活動を中心とする60年代の公民権運動から、現代アメリカの社会現象「Black Lives Matter(黒人の命も大切だ)」に至るまで、アメリカの人種差別の歴史に迫った作品だ。

 

劇中には、サミュエル・L・ジャクソンの静かな語り口に混ざってさまざまな映画、黒人音楽が流れる。キング牧師が愛し、彼の葬儀の夜に歌われたゴスペル歌――使用されている曲はどれも公民権運動に深くかかわりのあるものだ。映画好きの母やおばに連れられて少年時代からたくさんの映画を観ていたボールドウィンが挙げた映画や俳優たちは、黒人問題の要点を具体かつ簡潔に示している。そうした音楽、映画により、観る者はボールドウィンが生きた時代、彼が感じていた社会に満ちる差別の空気にわずかながらも触れることができるだろう。

 

連続レビュー、第一回では、作家ジェイムズ・ボールドウィンの言葉を丹念に綴ることでラウル監督が伝えたかったこと、未完の作品の映像化に挑んだ理由を述べた。第二回では、本作の「アーカイブ・ドキュメンタリー」という手法が鑑賞者に与えるインパクトについて考察した。最終回の本稿では、本作で引用された映画に焦点を当てていく(音楽に関しては映画の公式ホームページで詳しく解説されているので、そちらを参照されたい)。時代や世相を反映する映画のなかに、ボールドウィンが何を見てきたかについて考えてみたい。

 

1.『暗黒街に踊る』(1931)

【実生活でも映画でも踊りが好きだ】というボールドウィンが幼少時に不思議な体験をした映画が、ジョーン・クロフォード(『何がジェーンに起こったか』)主演の『暗黒街に踊る』。裕福な家庭に生まれわがままいっぱいに育った令嬢が、家の没落を機に、クラブで踊り子として働き始め、ギャング絡みの殺人事件に巻き込まれていく。ジョーン・クロフォードにそっくりな美しい「黒人女性」に街で微笑みかけられたと語るボールドウィン。白人女優とそっくりな黒人女性、というのは奇妙な表現に聞こえるかもしれない。これはとても象徴的な出来事だ。ボールドウィンは言う。まわりが白ければ、同じ国に生まれ育った自分もそうだと子どもは思う。そして、ある日鏡を見て、自分の顔が黒いことに驚くのだ、と。

 

2.『キング・コング』(1933)

ボールドウィンが10歳のときに出会った若い白人女性のミラー先生と、彼女が与えてくれた本や芝居、映画が、彼の白人観のベースになっていく。【白人を嫌いになれなかった。殺してやりたい奴は何人もいたが……白人が差別主義なのは、肌が白いせいではないと感じた。理由は他にある】。背後に映し出されるのは『キング・コング』。白人によって故郷から見知らぬ土地に連れてこられ、十分なコミュニケーションをとることもないまま、抵抗して最後には殺されてしまうコングの姿は、黒人奴隷の比喩ともいわれている。

 

3.『リチャーズ・アンサー』(1947)/『ザ・モンスター・ウォークス』(1932)/『ゼイ・ウォント・フォーゲット』(1937)

その一方で、ボールドウィンが【彼らの演じる役柄を私は憎んだ。黒人の品位を落としていたし、あんな男たちは周りにいなかった】と挙げた黒人俳優がステピン・フェチット、ウィリー・ベスト、マンタン・モアランドたちだった。【ギョロ目で笑いを取る姿にも一種の真実はあったかもしれない】としつつ、へどもどし、慌てふためいてばかりいる間が抜けた役柄で白人の嘲笑を買う姿に嫌悪感をあらわす。しかし『ゼイ・ウォント・フォーゲット』だけは別だった。みずからの政治的野心を成就させるため、少女殺しの罪を教師に着せようとする弁護士。その弁護士に脅され偽証を強いられて怯える掃除夫の姿に【黒人の現実が確かに描かれている】と語るボールドウィンは、掃除夫を演じた俳優クリントン・ローズモンドの姿に父親の面影を認める。自分の利益のために他を謀ろうとする白人たちの中で、唯一、正義を貫こうと絶望的な抵抗を試みようとする男だ。

 

4.『アンクル・トムス・ケビン』(1927)

【復讐しようとしなかったトムは英雄に見えなかった】とボールドウィンは断じる。日本では『アンクル・トムの小屋』として翻訳された原作本は、やさしい白人一家に仕えていた黒人トムが、残忍な農場主に売られて非業の死を遂げるまでの数奇な半生を描いた小説である。発行された1852年当時は奴隷解放への世論を喚起した。しかし、人間以下の扱いを受けて死に瀕してもなお理不尽な暴行をふるった農場主を赦そうとするトムは、公民権運動以降、「白人に媚びる従順な黒人」としてマルコムXを筆頭に黒人から軽蔑される存在へと変わっていく。

 

5.『駅馬車』(1939)

【英雄といえば白人だった。自分の住む国の現状とその現状を反映している映画のせいで私は英雄を憎み、恐れた】。息詰まる先住民との対決シーンの迫力、たまたま駅馬車に乗り合わせた人々の心情を巧みに描いた脚本力で「西部劇のお手本」とも評されるジョン・ウェイン主演の『駅馬車』も、先住民側からすれば虐殺の悲劇でしかない。あるとき、自分が立たされているのは、英雄視されるジョン・ウェインやゲイリー・クーパー側ではなく、無条件に駆逐される先住民のほうだと悟ったボールドウィンに芽生えた感情――黒人の白人に対する憎しみは恐怖に由来する、が実感を伴い迫ってくる。

 

6.『ア・レーズン・イン・ザ・サン』(1961)

若くして病死した気鋭の劇作家ロレイン・ハンズベリーの戯曲『ア・レーズン・イン・ザ・サン』は、白人居住区に家を購入した黒人一家の現実を描いた作品だ。実際にシカゴの白人居住区に居を構えたハンズベリー一家の、周囲から暴力や嫌がらせを受けた体験が反映されているという。のちにシドニー・ポワチエ主演で映画化され、ブロードウェイでも上演されて高い評価を得る。この成功によって、ハンズベリーはニューヨーク劇評家協会賞を黒人として初めて、また、歴代最年少(29歳)で受賞することとなった。劇中では、ハンズベリーと、当時、司法長官を務めていたロバート・ケネディとの対談の様子が同席したボールドウィンによって語られる。人種問題には積極的に関与していたと伝えられるロバート・ケネディをもってしても、黒人が抱いていた不満や要求を十二分にはくみ取れていなかったことをあらわす興味深い場面だ。

 

7.『模倣の人生』(1934)

1964年の公民権法成立によって廃止されるまで、主に黒人の一般公共施設利用を禁止・制限する法律、ジム・クロウ法が南部諸州の州法として存在していた。この法律の凄まじいところは、対象とする人種を黒人に限定せず、「ワンドロップルール」に基づき、黒人の血が少しでも混ざっている者はすべて黒人とみなし、規制を加えていたことである。『模倣の人生』はジム・クロウ法が生きていた時代に、白人母娘と黒人母娘、共同生活を送るふた組のシングルマザーの人生を通して、親子の絆、人種差別の現実を扱った社会派の作品だ。劇中に出てくるのは、黒人の母親が大雨の中、学校に行く場面。母親は教師に「娘を迎えに来ました」と告げるが、教師は彼女を見て「そんなはずはない」と言う。黒人と白人が机を並べて学ぶなどということはあり得ないのだ。二人のやりとりを見ながら、教科書でそっと顔を隠す少女がいた。見た目は白人の女の子だ(なぜなら、父親が白人だから)。彼女を見つけた母親は「あの子です」と言う。途端にクラス全体がざわめく。「カラードだったの!」。そうして少女は居場所を失っていく。

 

8.『復讐鬼』(1950)

黒人で初めてアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエの実質的デビュー作である『復讐鬼』は、フィルムノワールに黒人問題を融合させたドラマだ。ポワチエ演じる医師のもとに、けがを負った犯罪者ビドル兄弟が担ぎ込まれてくる。重傷の兄は手当のかいなく死亡。黒人であることを理由に担当医師を代えろと主張していた弟は、兄を故意に死なせたとして医師に復讐することを決意する。捕らわれの身である弟は直接、手を下せない。彼は、周囲の白人たちの心に巣くう差別意識を煽り、医師を追い詰めていく。劇中に流れるのは、弟が激しい憎しみと怒りをあらわにしながら、「ニガーは黒人の蔑称なんだろう? ニガー!ニガー!ニガー!」と罵り医師を殴りつける場面。劇中に出てこないが、白人の老女が医師の顔にツバを吐きかけながら罵倒するシーンもある。これほどまでに強い憎悪は一体どこからわいてくるのか――ボールドウィンは答えを知っていた。

 

9.『手錠のまゝの脱獄』(1958)

【この映画の前提を受け入れられない】とボールドウィンは言う。【黒人と白人の憎しみの源について大きな誤解があるからだ】。『手錠のまゝの脱獄』も公民権運動のまっただ中に公開された作品だ。鎖でつながれた白人ジャクソンと黒人カレン、二人の囚人がひょんなことから逃亡の機会を得て脱走する。保安官たちは追わない。なぜなら「ほうっておいてもすぐに殺し合うさ」と思い込んでいるからだ。事実、二人はつながれたまま激しく殴り合う。【黒人の憎しみの根源は怒りだ。自分や子供たちの邪魔をされない限り白人を憎んだりしない。白人の憎しみの根源は恐怖だ。何の実体もない。自分の心が生み出した何かに怯えているのだ】いがみ合っていた二人の間に友情が芽生えた感動的な瞬間、ととらえられるラストも、ボールドウィンの目には違って映った。【シドニー(・ポワチエ:カレン)が飛び降りてリベラルな白人は安堵し、喜んだ。だが黒人の反応は違った。叫んだのだ。“列車に戻れ、バカ!”。白人を安心させるために彼は列車を降りた。“白人は憎まれていない。間違いを犯したが嫌われることはしていない”と】

 

10.『招かれざる客』(1967)

人種差別に反対するリベラルな白人家庭の娘が、結婚相手として両親に紹介したのは黒人のジョン。頭がよくハンサムで紳士的なジョンを母親は受け入れるが、父親は理想と現実のあいだで苦悩する。『招かれざる客』が撮影された当時、アメリカでは17の州が異人種間の結婚を法律で禁止していた。映画『ラヴィング』のモデルとなったラヴィング夫妻は、異人種間の結婚を認める州に赴いて夫婦となるが、地元に戻ったとたん、身重の黒人妻は投獄され、二人は故郷を捨てざるを得なくなる。この法律が効力を失ったのは、映画公開の半年前だった。かような時代に黒人と白人が家庭を築く物語をスクリーンに投映するのは勇気の要ることだったかもしれない。しかしボールドウィンの見方は違った。【黒人はこの映画をとくに嫌った。彼が白人に都合よく使われているからだ】。映画のなかのポワチエ青年は、礼儀正しく慎み深い。アメリカ映画史上初めて、黒人と白人が初めてキスをする場面があることでも有名な本作だが、それはセックスを連想させるものではなかったのだ。【黒人の性的能力に関する“神話”がこの国を飛び交っている。しかしポップ文化では黒人には生殖器がないかのように扱われる。シドニー・ポワチエも黒人俳優としてこの国の未熟な性的観念と闘った。ハリー・ベラフォンテやシドニーはセックス・シンボルだ。なのに意外だろうが、肉体派俳優とは違う形で利用された】

 

11.『夜の大捜査線』(1967)

64年に制定された公民権法は黒人に法的な平等をもたらしたが、現実が変わるまでにはまだ時間が必要だった。人種差別の根絶を願う声とその運動は最高潮に達していた。キング牧師が暗殺される前年に公開された『夜の大捜査線』は、ボールドウィンの目にかすかな光明をもたらしたのかもしれない。南部の、依然として人種差別が根強く残る町に一人の黒人が降り立つところから物語は始まる。優秀な刑事である彼は、この町で発生した殺人事件解決のために派遣されたのだった。彼を駅で見かけた白人警官は有無を言わさずに彼を逮捕し、署長のもとに突き出す。署長もまた、頑固な差別主義者だ。事件が解決して列車に乗り込む刑事を、署長は晴れがましい笑顔で送る。【ここで描かれた一種の“キス”は愛の証しではない。性的欲望でもない。和解の象徴だ。それも難しくなってきているが…】

 

12.『プレッシャー』(1976)

高校卒業後、ボールドウィンはグリニッジ・ヴィレッジ(マンハッタン区にあるダウンタウン)に移り住み、文学修行に励む。NYの治安が今ほどはよくなかった当時でさえ【彼女(近隣に住んでいた金髪の女性)は1人のほうが私と歩くより安全だった。残酷で情けないこの事実が私と彼女が築けたかもしれない関係を完全に壊した】のだった。『プレッシャー』は英国に生まれ育ったトリニダードの青年が、白人のルールに黙々と従う両親、そんな両親と周囲に反発して運動家になった兄をかたわらに、自分なりの方法で社会に溶け込もうと奮闘する姿を描く。劇中に出てくるのは、青年が金髪のガールフレンドとダンスを楽しむシーン。このあと、女性を家まで送り届けた青年を見た隣人が叫ぶ。「とっとと立ち去らないと警察を呼ぶわよ」、「黒人を連れ帰るなんて…恥を知りなさい!」。

 

13.『エレファント』(2003)

アメリカはどこへ向かっているのか。【アメリカ人は以前より幸せでも善人でもない。なのに、その現実を誰も認めない。少年犯罪が後を絶たない現状は、修正可能な計算ミスだと信じようとしている。[中略]今のアメリカを見たら預言者や天使は嘆く。“自由の国”ではない。時折“勇敢な者の国”になることがあるだけだ】。『エレファント』は、99年にコロンバイン高校で起きた高校生銃乱射事件に衝撃を受けたガス・ヴァン・サント監督が撮りあげた作品だ。同種の事件は今も起こり続けている。何度繰り返されようとも、事件を起こすのは一握りの異常者だとして正面から取り合おうとしないアメリカ人の姿。それはボールドウィンにとって、差別から目をそらすのと同様の事なかれ主義に映ったのかもしれない。

 

14.『昼下がりの情事』(1957)/『ブロードウェイの子守唄』(1951)/『恋人よ帰れ』(1961)

【現実から目を背けたい人々はこう言う。“あなたは皮肉っぽい”。[中略]皮肉っぽいとしたら、それだけの理由はある。最大の理由は、盲目で臆病なアメリカ人が人生はバラ色というフリをしていることだ】というボールドウィンの言葉に伴って流れるのは、大富豪の男性と純情なパリっ娘のロマンティックコメディ『昼下がりの情事』。快活さと親しみやすさの象徴のようなドリス・デイは、ブロードウェイに返り咲き(『ブロードウェイの子守唄』)、ライバル会社のプレイボーイと駆け引きの恋を楽しむ(『恋人よ帰れ』)。アメリカに横たわる2つの層、自由と繁栄を謳歌し【バカらしいほど清らかなイメージ】を表す層と【唯一無二の存在なのに否定されてきた層】。一つの国で別々の道を歩んできたこの2つの層が向き合ったときに希望が生まれるとボールドウィンは語りかける。【私はニガーではない。白人がニガーを生み出したのです。何のために?それを問えれば未来はあります】

 

ボールドウィンの言葉に触れたあとで、劇中で引用された映画をもう一度観てみれば、今まで知らなかった視点を見つけ、異なる感覚を抱き、その映画に対する印象がまるで違うものになるかもしれない。黒人問題は、日本人にとって身近なものとは言いがたい。しかし『私はあなたのニグロではない』はある気づきを与えてくれる。自分が正しいと信じていることは本当に正しいのか。残酷だが目をそらしてはいけない事実への向き合い方。いささかの居心地の悪さを覚えたとしたら、この映画のまいた種が自分の中で芽吹いたということだろう。

 

『私はあなたのニグロではない』

(原題「I AM NOT YOUR NEGRO」)93分、アメリカ/フランス/ベルギー/スイス

監督:ラウル・ペック 原作:ジェームズ・ボールドウィン 語り手:サミュエル・L・ジャクソン 

日本語字幕:チオキ真理 字幕監修:柴田元幸

配給・宣伝:マジックアワー 

公式サイト

5月12日(土)ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開

 

小島ともみ
80%ぐらいが映画で、10%はミステリ小説、あとの10%はUKロックでできています。ホラー・スプラッター・スラッシャー映画大好きですが、お化け屋敷は入れません。