
文化や芸術や興行である映画は、同時に科学技術でもある。そして技術は常に進化する。私たちはしばしば、例えば映画のデジタル化、そのメリットとデメリットといった限定された側面においてのみ技術の問題を考察するが、しかし最新技術が切り開く新しい可能性に刺激されることで新たな表現を生みだしてきたこともまた、映画の歴史そのものであったのではないだろうか。
VR(ヴァーチャル・リアリティ)がやってくる。いや、それはもうここにある。IT界の新たなスター、パーマー・ラッキーを生みだしたVRムーブメントは、今年1月4日、彼が開発するOculus Rift(オキュラス・リフト)が599ドルの価格でついに予約開始(最初の出荷は3月28日に予定されている)されたことで新たな局面を迎えつつある(#1)。2016年はまさにVR元年であるのだ。さらに、Oculus RiftやSonyから今年秋に発売予定されているプレイステーションVR(#2)のような高価なヘッドセットばかりではなく、段ボールを折りたたみスマホを装着することでユーザー自らが製作するGoogle Cardboard(3000円弱の値段で米Googleから購入できる)のようなカジュアルなデバイスまでリリースされることでVRの裾野は確実に広がりつつある(#3)。Google Cardboardを主なターゲットにしたコンテンツとしては、ニューヨークタイムズがNYTVRとして様々なVRコンテンツをサイトから発信するなど(#4)、既に多様なものが流通し始めている。そして、今年で10年の節目を迎えるサンダンス映画祭ニューフロンティア部門においてもVR作品の出品数は30本を超え、他を圧倒する勢いとなっているのだ(#5)。
映画作家でありMITドキュメンタリーラボ講師でもあるネイサン・ソーシエによると、今年出品されたVR作品の傾向から、それらがもはや3Dゲームやドキュメンタリーの新たなジャンルというにとどまらず、固有の言語と表現形式を持った新たな世界を生み出しつつあるとのことだ(#6)。彼はとりわけ、例えばUnityのようなゲーミングプラットフォーム上で構築されたインタラクティブVR世界よりも、「360ビデオ」と呼ばれる360度の視界でその世界に入り込むことのできる表現形式に新たな可能性を見いだしている。ゲーム特有のルールや目的意識に縛られ、その物理シミュレーションが精緻になればなるほど現実との違いに私たちの意識が向かうVRゲームに比べ、定点観測という自らの制約をいったん受け入れさえすればそこから広がる世界と豊かな交感が可能になる360ビデオの方がより新たな体験と没入感、そして作者の芸術的自由が確保されるから、というのが彼の述べる理由である。そして、VRを新たな表現形式へと高めようとする試みの代表例として、ソーシエはニューフロンティアで上映された作品から次の3本をあげている。
まず、ローズ・トローチとモリス・メイによる360ビデオ『Perspective Ch.2』は、警官に射殺される黒人少年達を描いた作品である(#7)。そこでは、2人の少年達が2人の警官と口論する様がそれぞれの視点から描かれ、観客は彼らの視点を通じてそこで起きた出来事を様々な角度から観察する。そして最後に隠された真実が明らかとなるのだ。この作品の成功は、そのフォトリアリスティックな世界像とVRによる360ビデオという組み合わせにこそあるとソーシエは指摘している。
しかし、リアリズムのみがVRのもたらす新たな形式ではない。例えば、2015年に亡くなった英国作家ジョン・ハルが自ら盲目になっていく過程を綴った日記を映像化した作品『Notes on Blindness』を彼はあげている(#8)。ハルによって詩的に叙述される「視覚の向こうに広がる世界」を、この作品ではUnity上に構築したCG世界によって見事に表現しているとのことだ。また、マイケル・レイアックとカール・ガイエネットによって製作された『Viens!』では、裸の男女が真っ白な空間の中いずこからともなく現れ、様々なエナジーの交感やスピリチュアルな変容を遂げた後、まるで観客と共に世界と一体化したかのような感覚を与えるとのことである(#9)。
一方、VRは従来の映画業界で活躍してきたクリエイター達にも新たな刺激を与えているようだ。例えば、ヴェルナー・ヘルツォークがその一人である。既に『忘れられた夢の記憶』で3Dにチャレンジしたこの映画界の巨匠は、インターネットとテクノロジーを題材にしたドキュメンタリー『Lo and Behold, Reveries of the Connected World 』をサンダンス映画祭に出品している(#10)が、ニューヨーカー誌のインタビューに答えて、やや懐疑的な一面をのぞかせつつも、この新たなテクノロジーに対する彼の並々ならぬ関心を伺わせている(#11)。因みに、ヘルツォークは同じく3Dに対してもはじめ懐疑的であったが、主題となった洞窟壁画を目にした瞬間、それが3Dで描かれる以外にないと考えたとのことだ#12)。以下、VRについてのヘルツォークのインタビューから、その一部を引用しよう。
ヘルツォーク:VRは、映画や3D映画やビデオゲームの発展形態にはならないと信じている。それは何か新しく、全く異なった、これまで経験したことのないものなんだ。ここで奇妙なことは、通常、文化の歴史において私たちは新たな物語やその語り方を思いつき、それに応じた道具を開発してきた。あるいは、新たな建築のビジョンを抱いて、その後にテクノロジーが私たちの夢を叶えてきたんだ。つまり、コンテンツが先にあり、テクノロジーがそれに続いた。しかしこの場合、はじめにテクノロジーがあって、私たちはそれをどのようなコンテンツで埋めたら良いのかまだよく分かっていないんだ。
VRが人間性を表現するメディアへと昇華しうるか、それはまだよく分からない。これまでに私が見たVR短編はとても素晴らしいものだった。しかし、私たち人間の条件を表現するようなリアルで大きな表現にはまだ巡り会っていない。それはたぶんどこか別の場所にあるんだ。たとえばそれ自体自立した空間であるインターネットのような場所に。クラウゼヴィッツの名言に習ってこう言ってみることもできるだろう。インターネットは自らの夢を見るか、と。あるいは、ヴァーチャル・リアリティは自らの夢を見るか。私たちはヴァーチャル・リアリティの中に自らの夢を見いだし、それを表現することになるのだろうか。それはこれからの課題だろうね。
#1
https://www.oculus.com/en-us/
#2
http://www.jp.playstation.com/psvr/
#3
https://www.google.com/get/cardboard/
#4
http://www.nytimes.com/newsgraphics/2015/nytvr/
#5
http://www.sundance.org/festivals/sundance-film-festival/program/NFF-guide
#6
http://www.indiewire.com/article/why-the-future-of-virtual-reality-isnt-movies-or-video-games-20160213
#7
http://www.speculartheory.com/perspective-2/
#8
http://www.sundance.org/projects/notes-on-blindness-into-darkness
#9
http://www.sundance.org/projects/viens-come
http://michelreilhac.com/projects/viens/
#10
http://www.theguardian.com/film/2016/jan/24/lo-and-behold-reveries-of-the-connected-world-review-herzogs-wild-ride-through-the-web
#11
http://www.newyorker.com/tech/elements/werner-herzog-talks-virtual-reality
#12
http://www.newyorker.com/new-yorker-festival/werner-herzogs-forgotten-dreams

大寺眞輔
映画批評家、早稲田大学講師、アンスティチュ・フランセ横浜シネクラブ講師、新文芸坐シネマテーク講師、IndieTokyo主催。主著は「現代映画講義」(青土社)「黒沢清の映画術」(新潮社)。
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