今年の第71回カンヌ国際映画祭のコンペティションで監督賞を受賞したパヴェウ・パヴリコフスキの5年ぶりの新作『Cold War』(冷戦, 2018)が、10月3日にスイス、10月26日にフランスで劇場公開された。本国ポーランドではすでに6月8日に劇場公開されているこの作品は、冷戦下を駆け抜けた二人の音楽家の愛の物語である。2015年のアカデミー外国語映画賞を受賞した前作『イーダ』(2013)と同様、全編がモノクロームで構成された85分のこの作品は、パヴリコフスキの両親の関係から着想を得ているという[1]。
 本記事では、彼の人生を振り返りつつ、彼のインタビューを参考にしながら『Cold War』について紹介したい。


『Cold War』のあらすじ

 物語は第二次世界大戦直後の1949年、スターリン主義下のポーランドから始まる。ポーランドの伝統音楽を演奏する合奏団の主催者ヴィクトルは、ダンサーと歌手のオーディションを開催する。そこにやってきたのが、農村で暮らす少女ズーラだった。ヴィクトルは、ズーラの圧倒的な歌声に即座に魅了されてしまう。二人はやがて恋に落ちるのだが、その関係は冷戦によって引き裂かれてしまう。共産党はスターリンを讃える音楽をレパートリーに入れるように要求するのだった。二人の恋の物語は、ワルシャワ、ベルリン、ユーゴスラビア、パリと、ヨーロッパじゅうを横断しながら15年にわたって繰り広げられる。[2] [3] [4]


パヴェウ・パヴリコフスキとは

 パヴリコフスキは、ユダヤ人医師の父と英語教師の母とのあいだに生まれた。しかし1969年、彼が12歳のときに両親が離婚すると、父は共産党主導の反ユダヤ主義運動から逃れるようにオーストリアのウィーンへと去ってしまうのだった。1971年、パヴリコフスキは語学のためにイギリスへと向かう母親に同行する。一時的な滞在だと考えていた彼だったが、母がイギリス人と再婚したとき、もはや祖国ポーランドへは戻らないことを悟るのだった[5]。
 それから彼は、共産主義の犠牲者のための奨学金を手に入れ、カトリックの寄宿学校に入学する。司祭はカトリック式の「普通の」人生を生きることを願ったが、パヴリコフスキはそうはならず、むしろ反対に彼は共産主義へと傾倒していったという[5]。
1970年代のイギリスは、パヴリコフスキにさまざまな視点を与え、ポップ・ミュージックや写真、文学に対する愛は彼をオックスフォード大学へと導いた。彼はそこで文学と哲学を学び、オーストリアの詩人ゲオルク・トラークルの研究で博士号を取得し、作家になることを夢見ていたが、ワークショップでたまたまカメラに触れたことがきっかけとなって映画監督への道を志すようになる[5]。

 卒業後にBBCに入社。BBCでは、ゴルバチョフのグラスノスチがきっかけとなってソ連を撮影することを提案され、1980年代末からドキュメンタリーを撮影するようになる。しかし、こうした東方への眼差しはポーランドへのノスタルジーを喚起していった。第一作目は、ロシアの作家ヴェネディクト・エロフェーエフの死ぬ前の数ヶ月間を撮影した『From Moscow to Pietushki (モスクワからペトゥシキへ)』(1990)。
1992年から1996年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争におけるサラエヴォ包囲のあいだ、パヴリコフスキはセルビア側から撮影を行なった。その目的は、ロシアの作家エドワルド・リモノフを捉えながら、ナショナリストの神話の重要性を映し出すことだった[5]。

「私はセルビア人をかなり嘲弄する映画を撮りましたが、しかし彼らを悪魔化することは拒否しています。私は、誰もが自分自身のなかに認識しうる怪物を提示したかったのです。」[5]

 1998年、イアン・ダンカンとともにドキュメンタリードラマ『Twockers(車泥棒)』を撮影し、同年には第一作目のフィクション映画『The Stringer』を撮影。現在までに、5本のドキュメンタリーと、5本のフィクション映画、1本のドキュメンタリードラマを撮影している。『Cold War』はカンヌ初出品作品である。

『Cold war』の制作背景

 パヴリコフスキはParis matchのインタビューにおいて、本作の制作の背景をこう語っている。
「私は映画や小説で人生の悲哀を感じることが好きです。人生はそのようなものだと思うからです(笑)。しかし、それはこの映画の目的ではありません。私は何よりもまず、短い尺で、文章的だったり説明的だったりすることのない、明確な視覚表現によるメロドラマ風のラヴストーリーを作りたいと思っていました。[中略]それは、私が長いあいだ考えていた物語です。この物語は私の両親に関係しています。自分が愛する、映画というメディアによってこの物語を語りたかったのです。」[6]

 また『Cold War』では音楽がもっとも重要な役割を担っている。パヴリコフスキはこう語る。
「私の人生において、音楽はつねに存在していました。私はビートルズやローリングストーンズが好きだったのですが、とくにポーランドにいた頃は、映画から聞こえてくる民族音楽とともに育ちました。ジャズを発見してから、私はジャズをたくさん演奏しました。それからワールドミュージックも演奏しました。私は60歳ですが、音楽の時代がたくさんあったのです(笑)。映画制作のよいところは、自分の趣味を統合したり、好きなものを配置したりできることです。私は最後の「熱帯」という曲を除いて、『Cold war』のすべての音楽が好きです(笑)。この映画には、私は好きなものがたくさん映し出されているのです。たとえばそれは、私の両親から着想を得た登場人物、ポーランドの風景、パリの特定の地区などです。」[6]


『Cold War』と歴史

 パヴリコフスキは『Cold War』において、歴史あるいは政治情勢が人々の生活にどのような影響を与えるかということをを映しだそうと試みている。
「映画は歴史を説明するためのよいツールではありません。しかし、感情を喚起することによって人々が経験してきたものに近づくことができるのです。私はたんに機能としての登場人物によって歴史的な命題を映し出すことは避けたかったのです。[中略]私はこの映画で、歴史が人々の生活にどのような影響を与えているのか、私たちのヒーローの選択が歴史によってどのように歪められているのかを示したいと思っていました。ヴィクトルは、自分の国では演奏することができない音楽を演奏したいと思っています。1940-50年代のポーランドは、かなり明確な社会主義的リアリズムの芸術的教義をともなったスターリン主義によって抑圧されていたのです。ヴィクトルは、自分の恋人が自分をスパイするように求められる時代を生きるのです…」[6]

 またパヴリコフスキは、二人の異なる主人公を据えることによって、そのあいだにひろがる階級や文化の差異を描き出す。

「ズーラは最下層からやって来ましたが、それは伝統音楽の合奏団の場を見つけるためでした。彼女は、旅をし、巡業をするスターになりましたが、しかし彼女にとって西側の生活はより辛く苦しいものであることを知っていました。」
「ヴィクトルは、戦争以前にパリを知っていた知識豊かなブルジョアです。父から虐待を受けていたズーラは、集団の意識、彼女が織りなす音楽が好きでしたが、特別な音楽的野心は持っていないのです。」[6]

 民族音楽とジャズという美しい二つの音楽を往還しながら語られる物語に、観客はきっと魅了されることだろう。現在のところ日本での公開は未定であるが、前作『イーダ』のように日本での劇場公開も期待できるだろう。

 

[1]https://www.20minutes.fr/arts-stars/cinema/2357315-20181024-pawel-pawlikowski-heros-cold-war-aussi-volcaniques-parents
[2]http://www.troiscouleurs.fr/cinema/cold-war-de-pawel-pawlikowski-guerre-froide-coeurs-chauds/
[3] https://www.thecrimson.com/article/2018/5/19/coldwar-review/
[4]https://www.theguardian.com/film/2018/sep/02/cold-war-pawel-pawlikowski-review-mark-kermode
[5]http://archive.wikiwix.com/cache/?url=http%3A%2F%2Fwww.telerama.fr%2Fcinema%2Fpawel-pawlikowski-cineaste-polonais-enfin%2C108650.php
[6]https://www.parismatch.com/Culture/Cinema/Pawel-Pawlikowski-nous-raconte-Cold-War-1583186

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。


コメントを残す