[692]ウクライナの映画監督セルゲイ・ロズニーツァの新作『Donbass』


ウクライナ出身で現在ドイツに在住のセルゲイ・ロズニーツァの新作『Donbass』(ドンバス、2018)が8月30日にドイツで、9月26日にフランスで公開された。ロズニーツァの作品は日本でまだ一本も公開されていないが、カンヌなどさまざまな国際映画祭の常連であり、世界から高い評価を受けている映画監督である。

ロズニーツァは1964年にベラルーシに生まれ、キエフで育つ。1987年にキエフ工科大学で数学とエンジニアの学位を取得後、キエフサイバネティクス研究所で人工知能の仕事をする。その傍らでロズニーツァは、日本語通訳の仕事もしていたという。しかし24歳のときに突然、自分が職業にしている数学が自分の関心ではないことに気づき、文学や映画などの芸術を学びたいと思うようになる。それからロズニーツァは、1991年に全ロシア映画大学映画監督科に入学し、在学中から映画を撮るようになる。[1]


2010年までは主としてドキュメンタリーを製作していたロズニーツァは、1996年からこれまでに14本のドキュメンタリーと、(短編1本を含む)5本のフィクションを撮影しており、2006年には『blokada』(包囲)でロシアのアカデミー賞とも呼ばれるニカ賞の最優秀ドキュメンタリー賞を受賞している。また2010年には第一作目の長編フィクション作品となる『My Joy』が、2012年には第二作目の『In the fog』(霧の中)が、2017年には第3作目の『A Gentle Creature』(やさしい女)がそれぞれカンヌのコンペティションに選出されている。

今年のカンヌ映画祭のある視点部門にもノミネートされた『Donbass』は、ロズニーツァの長編フィクション映画第4作目である。キャリアの初期からロシア/ウクライナの政治情勢を追いかけるロズニーツァの本作は、ウクライナの東部、2014年からロシアとの戦争状態が続くドンバス地域が舞台となっている。フランスの配給会社が公開しているあらすじによると、ドンバスで続いているハイブリッド戦争が、分離主義武装勢力による武力紛争や犯罪、略奪と混ざり合っている様子が描かれているという[2]。ハイブリッド戦争とは2014年2月に、ロシアがウクライナに宣戦布告をしないまま、非正規軍でクリミア半島を占拠し併合した際(クリミア侵攻)に形容され用いられた言葉である。ドンバスは現在、ロシア軍からの支援を受けていると考えられる分離主義武装勢力とウクライナ軍との戦争の場となっている。

『Donbass』は、13のシークエンスで構成されており、ドンバス地域に生きるものたちの姿が映し出されている。Le Blog Du Cinémaによると、ロズニーツァの第一の野望は、「民衆peupleを撮影すること」であるという[3]。この作品において観客は、組織が崩壊するにつれて再編成される社会の仕組みを理解し、永続的な戦争状態のただ中で人生を観察するという。「武力紛争によって引き起こされた無秩序は、一つの啓示として作用し、人間の本質的な行動を引き出す。」[3]作中の登場人物たちが経験するのは、ときに喜劇的な悲劇という不条理な状況である。

13のシークエンスのうちの1つに、車を盗まれた父親の物語がある。父親は、警察から車が発見されたことを知らせる電話を受けとり安堵する。しかし警察署内は分離主義者によって支配されており、この車をロシア軍が徴用することを認める署名を強要されてしまう。父親は刑務所に入ることをほのめかされ、この文書にサインすることを余儀なくされる[3]。『Donbass』は、このような脅迫と乱暴に基づく腐敗=汚職のモチーフが反復されているという。


ロズニーツァは、ドキュメンタリーに近い演出によってこの作品を撮影したという。ときには画面全体にまで人が溢れているが、そこでは民衆が傷つけられ、投げ棄てられ、あらゆる方法で屈辱を受けている様子が映し出されているという[3]。Le Mondeによるとロズニーツァは、この映画のあまりに暴力的な表現によって、ウクライナとロシアとの戦争を熟知していない観客を困惑させる危険を冒しながらも、分離勢力に対する怒りや嫌悪感をむき出しにしているという[4]。ロシア側の支持者が掌握している地域で撮影することは、ロズニーツァにとってかなり危険な行為であっただろう。クリミアでは2014年、同僚のウクライナ映画監督であるオレフ・センツォフが、上記のクリミア侵攻抗議デモに参加したことによって禁錮20年の実刑判決を受け、現在もシベリアの刑務所に収監されている[5]。そのためロズニーツァは、2014年からの戦争開始後2年間を語るためにフィクションを使用したという[4]。13からなるシークエンスのそれぞれは、監督の言葉に従えば、「実際の出来事に触発された」状況を表している。

「ドンバスでは、戦争は平和と呼ばれ、プロパガンダは真実として喧伝され、憎しみは愛であると言われている。」[2]

この作品は、「ある地域、ある国、ある政治システムについての話ではなく」、ポスト・トゥルースの世界において、誰でも関係する映画であるという。公文書改ざんなどが日常的に行われている日本においてもまた観られるべき映画作品の一つではないだろうか。公開される日が待ち遠しい。

[1]https://www.telerama.fr/…/un-cineaste-au-fond-des-yeux…
[2]http://distrib.pyramidefilms.com/pyramide…/donbass.html
[3] https://www.leblogducinema.com/…/donbass-une-guerre-un…/
[4] https://www.lemonde.fr/…/cannes-2017-une-femme-douce…
[5]オレフ・センツォフは刑務所内でハンガーストライキを続けており、体重が30キロ以上も減り、危険な状態が続いているという。今年の8月13日には、ジャン=リュック・ゴダールやジョニー・デップら100人超が解放を呼びかけている。https://www.lemonde.fr/europe/article/2018/09/29/moscou-diffuse-une-nouvelle-photo-du-cineaste-en-greve-de-la-faim-oleg-sentsov_5362172_3214.html

 

板井 仁
大学院で映画を研究しています。辛いものが好きですが、胃腸が弱いです。


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