[676]“当たり年”のイーサン・ホーク、大いに語る(そして批判を受ける)


イーサン・ホークは今年、俳優としても監督としても充実した時を過ごしています。5月に公開されたポール・シュレイダー監督の『First Reformed』では爆弾テロを企てるようになる牧師を演じ、その演技が絶賛され、その他にもアクション大作『リミット・オブ・アサシン』や8月からアメリカ他で公開が始まったニック・ホーンビィ原作のコメディ『Juliet, Naked』(ジェシー・ペレス監督)、来年初頭に公開予定のクライムサスペンス『Stockholm』(ロバート・バドロー監督)と出演作が続々公開されています。また、自身4本目の長編監督作となる『Blaze』も8月17日からアメリカでの公開が始まりました。演技経験のない友人であるミュージシャン、ベン・ディッキーを主演に据え、カントリーシンガーのブレイズ・フォーリーの人生を描いた同作も、ディッキーがサンダンス国際映画祭で演技賞(Achievement in Acting)を受賞するなど上々の評価を受けているようです。
さて、『Blaze』と『Juliet, Naked』の公開のタイミングに合わせてか、今月に入って彼のキャリアを振りかえる記事やロングインタヴューがGQ[*1]、New York Times[*2]をはじめとした様々な媒体に掲載されています。その中のひとつ、The Film Stageのインタヴュー[*3]でホークが行った発言がちょっとした物議を呼んでいます。それは2017年に公開された『LOGAN/ローガン』(ジェームズ・マンゴールド監督)を引き合いに出してなされた以下の発言です。

「(『ローガン』は)たしかに素晴らしいスーパーヒーロー映画だ。自分の手から金属の爪を出す男の苦境を描いている。でもそれはブレッソンではないし、ベルイマンでもない。でもみんなそれらを同じように語る。みんなが“すごい映画だ”というので俺も『ローガン』を観に行ったけど、“本当に? いやこれはよくできたスーパーヒーロー映画だ”としか思わなかった。そこには違いがあるのに、巨大なビジネスはそこに違いがあることを思考させない」[*3]

この発言に対してSNSでは「イーサン・ホークはスノッブだ」「『ローガン』は少なくとも素晴らしい脚本、素晴らしいパフォーマンス、素晴らしい演出の3つを兼ね備えていると思う。でもイーサン・ホークのような人々は素晴らしい映画を非難するために、最も人気のある映画のカテゴリーをくだらないものと見なしているだけだ」[*4]といった批判が数多く上がっています。一方でたとえばGuardianのオピニオン欄に書かれた記事のように[*5]、大手スタジオがスーパーヒーロー映画にその収益を依存し、作品数が急増していることは事実であり、ホークが提起する問題はアカデミー賞が「人気映画」部門を新設したことにも関わることであるとその考えを擁護する意見もあります(その記事を手掛けたキャスパー・サーモン氏はそのうえで「スーパーヒーロー映画の急増に対する答えは、それらの作品が映画の芸術性において秀でていることを主張することでそのファンを子ども扱いするのではなく、そのジャンルに対して強固で理論整然とした批評的な評価を与えることによって導き出される」と付け加えています)。
実は私も『ローガン』は“すごい映画だ”と考えているひとりなので、イーサン・ホークのこの意見には賛同しかねるのですが、この発言がなされたインタヴューの記事全体を読むとまた違った見方ができ、少なくとも彼が『ローガン』やスーパーヒーロー映画を軽視した上でこういう発言をしたわけではないことがわかります。また、他にも興味深い話が多いインタヴューなので、ロカルノ国際映画祭(彼は今年の同映画祭でエクセレンス賞を受賞し、出演作の『First Reformed』『いまを生きる』『6才のボクが、大人になるまで。』と監督作の『Blaze』『Seymour: An Introduction』が上映されました)の会場で行われたというそのインタヴューの抜粋をここに訳出します。

・今年の活躍について
「(記者の「これまでのキャリアもずっと順調だったように見える」との発言を受けて)そう言ってくれて嬉しいよ。ちょっと面白い話があるんだ。『First Reformed』の成功や『Blaze』の評判について取り上げてくれた雑誌の記事の中で、今年が俺のキャリアの中で最良の年になりうるかもしれない、俺が“マシュー・マコノヒーのような節目(モーメント)”を迎えるだろうと書かれていた。そしてそのふたりの俳優が大好きな友人のリチャード・リンクレイターがそのことについて優しく素晴らしいメッセージをくれた。彼はこう言っていた。“でも君はマシュー・マコノヒー・モーメントを体験できない。何故なら君がマシュー・マコノヒー・モーメントを体験したら、君は成功していないはずだ。彼ら(雑誌の記事)が書けていないのは、君がそのキャリア全体においてある意味終始一貫して同じことをやってきているということだ”と。そうだね、ある意味俺は幸運に恵まれてきた。ただその運を引き寄せられた理由はあって、それは早い段階で仕事に関する全ての問題を解決しようと努めてきたことにあると思う。最初の(ユマ・サーマンとの)結婚生活が破綻したとき、それは俺の人生の中で一番悲しく暗い時期だったが、これまで以上に懸命に仕事をした。そしてその時期に劇場(舞台)にも戻った。舞台は役者にとって素晴らしい治療になる。なぜならそれはすごく難しくて、人は大変な仕事に打ち込んでいると自然と謙虚になるからだと思う。自分の中にある壁にぶつかって、それに立ち向かおうとするんだ」

・「ビフォア」シリーズ(リチャード・リンクレイター監督、ジュリー・デルピー共演の三部作)の続編製作の可能性
「俺はあの3本の作品(『ビフォア・サンライズ』『ビフォア・サンセット』『ビフォア・ミッドナイト』)には調和があると思う。『ビフォア・サンセット』は喧嘩をしている40代のカップルを写すところから始まって、その喧嘩を聞いている若い2人にカメラがパンすることから始まるよね。そこにはとても美しい何かがある。『ビフォア・ミッドナイト』の最後にジュリー(デルピー)が連続する宇宙の時空間のなかに飲み込まれているのかもしれないといったジョークを言う。その時空間の円をぐるぐると回り続けているような感覚。俺にはその感覚がこのシリーズを三部作として完結させているように思う。でもまったく違ったやり方で作られた、まったく違う映画の中で、もう一度ジェシーとセリーヌ(ホークとデルピーの役名)に出会うことを想像することはできるかな。いまタイトルが思い出せないんだけど、4年くらい前に素晴らしいふたりの俳優が出ていた映画があっただろ。彼らは死に際にあって…そう、『愛、アムール』だ! ジュリーはあの映画を観てメールを送って来たよ。“何てこと、彼らがすでに続編をつくっていたわ!”ってね(笑)。また別の日には僕から彼女に手紙を出したこともある。彼女が気にしてなきゃいいんだけど、ある日4作目の映画についての夢を見たんだ。それが完全にエロティックな映画でさ。ベルトルッチでさえ赤面しちゃうようなやつなんだ。そのことをジュリーに伝えたら、彼女は一言、「もう手遅れよ」と返事を返してきたよ(笑)」

『First Reformed』

・『First Reformed』の脚本を読んで考えたこと
「最初にポール(シュレイダー)が脚本を送ってきてくれたんだけど、その最初のページには(ホークが演じた主人公の)トーラー牧師の机の上に置かれている何冊かの書物のことが書かれていた。なんとその本は全て俺が母親からもらって読んだことがあるものだった。そのリストのなかにはトマス・マートンの本があり、その本を読んでいたことでこの役をやる準備がすでにできていたような気持ちになったよ。面白いのはマートンがその本を書いたのは60年代だったのに、彼がすでにセレブリティへの熱狂が起こり始めることや公的な自己がいかに偽の自己を生み出すかを見越していた点だ。いまやソーシャルメディアによって誰もが公的な自分を持っているし、そのことはT.S.エリオットやアンディ・ウォーホルが言っていた偽りの自己に関する言及が現実のものとなっているということでもある。リヴァー・フェニックスと最後に話したとき、彼はどれだけの人が彼を理解しているのか、自分が何者でもないことを絶えず伝えようとしていると、自分がだれであるかを理解することがどれだけ難しいか、ということを話していた。でも俺はそれがフェイクであることを知っていたから自分がそうした問題を抱えていないことに気づいたんだ。リヴァーはちょうどシドニー・ルメットの映画(『旅立ちの時』)でアカデミー賞に出席した直後で、その賞がいかに見せかけものであるか、信じられなかったと言っていた。“信じらんないだろう、全部が偽物だ!”“コマーシャルが入ると参列者はトイレに行くんだ。そして彼らの多くは観たことがない映画に投票しているんだよ!”ってね。そして俺はそのことを知っていたと思う。それで実際にはこう考えたよ。こいつは俺がアカデミー賞に出席するときに嫌な気分にさせるつもりだなって(笑)。でも今はまやかしの世界を理解し、受け入れている自分がいるし、その必要があることもわかっている。それを受け入れ、先へ進み、それを真実とみなし、傷つけられないようにしなければならないんだ」

・現在の映画製作やその視聴環境について
「いまや世界にいる誰もが良い映画を作ることができるという奇妙な状況にある。自分の携帯電話でも映画を撮ることができる。コッポラが『地獄の黙示録』を作っていたときのことを話すのを聞いて、いまの人たちに言えるのはまるで小説みたいな話だってことだ。読み書きを教わり、紙とペンさえあれば素晴らしい小説を書くことができるが、同じことがいま映画にも起きている。自分のコンピューターで映像を編集して、音楽をつけることができる。そのことが状況を変えたんだ。リンクレイターは『スラッカー』が公開されたときの話をするのが好きなんだけど、その話の75%が“オースティンのガキが16000ドルで映画を作った”っていうことなんだ。リックがどう話そうが、その映画が素晴らしいかどうかとは関係ない話でさ。俺はあの映画が好きだけど、その制作話に関しては何か扇動的なものを感じるんだ。ロバート・ロドリゲスが『エル・マリアッチ』を作ったのと同じように、映画製作システムへの初期的な反乱がそこにはあった。その反乱が同時多発的に起こり、またそうした映画が導火線となって、タランティーノはそのエネルギーを映画で描けることを見つけ出したし、ジョン・セイルズの作品も直接的なかかわりはないにしても影響を多分に受けていた。何らかのムーブメントは常に起こり、同じ考えを持った人々は常にどこかにいる。いまはどんな映画が配給され、何を見るべきかを知るのがすごく難しい。あまりにたくさんの『スラッカー』(のように低予算で作られた映画)があり、しかもそのほとんどはひどい映画だからね。Apple TVにアクセスすれば、ホアキン・フェニックスとグウィネス・パルトロウの共演作もあれば、クリント・イーストウッドが作ったマット・デイモンの主演映画も見れる。たくさんの映画が亀裂の中で迷子になって、彼らのようなビッグネームさえもそこに紛れ込んでいる。映画はすでに別の芸術形態となり、いま起こっていることを整理するには50年ぐらいかかるのかもしれないね。そしてだからこそ映画祭が重要なものになっている。映画祭のスタッフは一種のキュレーターで、世界が注目すべき作品を紹介してくれる。映画祭がなければあらゆる小さな映画は巨大なビジネスによって押しつぶされてしまうだろう。いま俺たちが抱えている問題は『ローガン』がすごい映画だと言われていることだ。たしかに素晴らしいスーパーヒーロー映画だ。自分の手から金属の爪を出す男の苦境を描いている。でもそれはブレッソンではないし、ベルイマンでもない。でもみんなそれらを同じように語る。みんなが“すごい映画だ”というので俺も『ローガン』を観に行ったけど、“本当に? いやこれはよくできたスーパーヒーロー映画だ”としか思わなかった。そこには違いがあるのに、巨大なビジネスは違いがあることを思考させない。巨大ビジネスは金を稼ぎたいがためにこれはすごい映画だと思わせたがっているだけなんだ」

『Blaze』

*1
https://www.gq.com/story/ethan-hawke-profile-2018
*2
https://www.nytimes.com/2018/08/28/movies/ethan-hawke-blaze-foley-first-reformed.html?rref=collection%2Fsectioncollection%2Fmovies&action=click&contentCollection=movies&region=rank&module=package&version=highlights&contentPlacement=1&pgtype=sectionfront
*3
https://thefilmstage.com/features/ethan-hawke-on-dreaming-of-a-fourth-before-film-why-hes-not-having-a-mcconaughey-moment-and-the-necessity-of-film-festivals/
*4
https://www.theguardian.com/film/2018/aug/27/ethan-hawke-superhero-movies-are-overrated-logan
*5
https://www.theguardian.com/commentisfree/2018/aug/28/ethan-hawke-superhero-films-x-men-logan

黒岩幹子
「boidマガジン」(http://boid-mag.publishers.fm/)や「東京中日スポーツ」モータースポーツ面の編集に携わりつつ、雑誌「nobody」「映画芸術」などに寄稿させてもらってます。


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