カンヌ監督週間とは

 カンヌ監督週間(Quinzaine des réalisateurs監督の二週間)は、カンヌ映画祭期間中に並行して行われるセクションであるが、その歴史はカンヌ映画祭正式部門への抗議によって始まった。五月革命の嵐が吹き荒れる1968年5月、第21回カンヌ国際映画祭のこと、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォー率いるヌーヴェル・ヴァーグのシネアストたちは、フランスの社会運動と連帯しながら、映画業界のあり方や政府への抗議を表明するために映画祭の中止を要請する[1]。映画祭9日目の18日にはついに実力行使に出ることになり、ゴダールがカルロス・サウラ『ペパーミント・フラッペ』の上映前に現れると、それに呼応したサウラ監督自身らとともにスクリーンのカーテンを引っ張り上映を阻止したのであった[2]。この行動を支持したロマン・ポランスキーやルイ・マル、モニカ・ヴィッティ、テレンス・ヤングは審査員を辞退し、同映画祭は19日には正式に中止になる。同年は賞が授与されることはなかった。

 この事件がきっかけとなり、翌年1969年からフランス監督協会はカンヌの非公式部門としてカンヌ監督週間を開催する。監督週間はコンペティション形式をとっておらず、いっさいの賞を授与することはない。商業優先の作品や外交的な政治性を排除しつつ、自由な立場で作品を紹介することを目的としており、カンヌの公式部門とは違い一般の観客にも開かれている。

マリー・モンジュ『Joueurs』(2017)

 ギャスパー・ノエやシャン・ミンなどの新作が選出された今年の監督週間のラインナップにおいて、新人監督作品として唯一カンヌ入りしたのは、マリー・モンジュの長編デビュー作である『Joueurs』(プレイヤー)(2017)である。主人公は黒沢清『ダゲレオタイプの女』(2016)で主演を務めたタハール・ラヒムと、今週7月13日(金)公開予定のミシェル・アザナヴィシウス『グッバイ・ゴダール!』でアンヌ・ヴィアゼムスキーを演じるステイシー・マーティンの二人である。本作は今年のカブール映画祭でもユース賞を受賞しており、フランスでは7月4日(水)に公開されている。

 父親が経営するファミリーレストランで平凡なウェイトレスとして働くエラはある日、仕事を探しにお店を訪れたアベルと恋に落ちる[3]。しかしアベルはギャンブル依存症のならず者であった。ウェイターとして雇われたアベルは、レジから現金を盗み、ワインの配達を口実にして店を飛び出すようになる[4]。怒りに燃えるエラだったが、同時にアベルのその野生的な魅力に惹かれてしまう。エラがアベルの後を追いかけてゆくと、会員制の地下賭博場にたどり着く。そこは金に支配された刺激的な世界だった。エラはいつしか、アベルとともにプレイヤー (joueurs)としてギャンブルに溺れていく。

 

映画のアイディアについて

 モンジュ監督は1987年生まれの31歳で、パリ第三大学ヌーヴェル・ソルボンヌで映画を学んだ。これまでに、2014年のセザール賞に選ばれた『Marseilles la nuit』(マルセイユの夜)などを含めたいくつかの短編を撮影している。彼女はインタビューで、この作品世界の出発点を語っている。そのアイディアは、彼女が22歳のときに不意に訪れたという。[6]

「私は数年前、たまたま賭博サークルに出会ったのですが、それは一日じゅう一緒にいた友達がプレイヤーだったからです。私はパラレルワールドを発見し魅了されました。たとえ私たちがギャンブルをしなくとも、そこに社会や文化、とりわけ人々が感じるある種の熱とが混ざり合ったものがあるのです。ジャーナリストとして長年にわたり、私はプレイヤーや賭博施設で働く人々に会ってきました。」[6]

ギャンブルと依存症

 モンジュ監督はこの映画において、二人の主人公の破滅を描きながら、ギャンブルの問題を描いている。「賭博場は、ある種の熱が支配していました。私は即座に、ギャンブルは薬物やアルコールのように中毒性があるものだと感じました。それは、人々を元気にさせるものであると同時に、人々を消費するものでもあるのです。」[5]
 この映画でオム・ファタールとしての役割を演じているタハール・ラヒムも、実体験を交えながらギャンブルの恐ろしさについて語っている。「人生において、ギャンブル中毒が薬物中毒よりも危険ではないということはありません。カジノは全てを破壊し、人生を台無しにしてしまいます。俳優になる前、私はプレイヤーたちが、テーブルの上に文字どおり自分たちの命を置くのを見たことがあります。」[6]  ラヒムは依存症に陥ったプレイヤーを演じるのに大変苦心したという。「プレイヤーたちは禁断症状に陥り、苦しみ、冷や汗をかいている可能性があります。それはまるで、食べる権利がないのに目の前にステーキを置かれているようなものです。私にとって映画の中で最も難しかったシーンは、禁断症状に陥るこの有名なシーンでした。なぜなら私は、薬物やギャンブルの禁断症状がどういうものであるのかが分からなかったからです。」[6]


ドキュメンタリー的演出と羞恥心

 ギャンブル依存の恐ろしさを表現するため、映画内の一部シーンではドキュメンタリーのような演出がなされたという。モンジュ監督はこう語る。「このシークエンスは、まるでドキュメンタリーのように、映画の残りの部分とは少し異なった方法で撮影を行いました。言葉が訪れるのを待っていると、エキストラたちはどぎまぎしながら、少しずつ、みずからの経験について話し始めました。私はとても感動しました。なぜなら彼らの言うことには、非常に美しいものがあったからです。」[6]  モンジュ監督は、ギャンブル依存症における羞恥心の感覚について語っている。羞恥心の感覚こそが、依存者を悪循環のスパイラルへと陥れるという。「鑑賞者は羞恥心を理解します。私が接触したプレイヤーたちは、病気によって圧し潰された人々でした。奥底に自分への憎しみと、強烈な羞恥心を抱えているのです。それが、プレイヤーたちにとって大きな感情なのだと思います。プレイヤーたちは、たとえギャンブルに勝ったとしても十分に満足できず、もう一度ゲームに敗北するまでプレーをしつづけます。一度失うと、取り戻そうとしてしまうのです。賭博場を離れるときに正気に戻り、日常生活へと復帰する瞬間があるのですが、そこで恥の感情が蘇り、それは大きな暴力となって経験されるのです。いくつかのシーンで、アベルがこの羞恥心を具現化しています。」[6]


ギャンブルと女性

 モンジュ監督は、社会通念とは対照的に、賭博場には多くの女性たちが関わっていることに注目している。「従業員、仲介人、中国人の女性顧客…また、たとえば貸主と呼ばれる接客役があります。」[6]また、ギャンブル依存症には性差が存在しないということを語っている。「ギャンブル中毒に性差があるとは思いません。それは薬物中毒と同じです。完全に平等なのです。」[6]

 日本では与党がカジノ法案を強行的に審議入りさせたが、本作品の公開予定は現在のところない。鑑賞できる機会が来るのが待ち遠しい。

 

[1]https://www.festival-cannes.com/fr/infos-communiques/communique/articles/mai-68-au-festival-08

[2]http://www.leparisien.fr/culture-loisirs/cinema/mai-68-a-cannes-ecran-noir-sur-le-festival-13-05-2018-7713363.php

[3]http://www.leparisien.fr/culture-loisirs/cinema/coup-de-coeur-cine-grands-joueurs-03-07-2018-7805718.php

[4] https://www.hollywoodreporter.com/review/treat-me-like-fire-joueurs-review-1109057

[5]http://www.marieclaire.fr/joueurs-film-noir-impair-et-passe,1271017.asp

[6]https://www.leblogducinema.com/interviews/interview-marie-monge-et-tahar-rahim-pour-le-film-joueurs-870556/

板井 仁
大学院で映画を研究しています。最近好きなお笑い芸人はぬゅぬゅゅゆゅゅゅゅゅ


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